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第5話
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スーパーマーケットで買ったものを、バーカウンターに無造作に置いた。
ホールの端、ステージ対角の位置に、音響照明を操作するブースがある。そこで、ドラムに当たるスポットライトだけを点けた。
ホール側には時計が設置されていなかった。仙極は、カウンター内にあった手のひらサイズの置き時計を持ち、ステージに上がった。
ライトの下に立ち、振り返ると、暗いホールを夜の海のようだと感じた。
AZMARUに、一人だった。
いよいよ出演バンドのあてがなくなり、二日前から実質的に休業同然の状態にあった。
ここら一帯の土地を買い上げ、大規模なイベントホールをつくる計画があるらしい。
その先駆けとして動き回っているのがサイガ不動産で、主導しているのはANE(足利ミュージックエンタテインメント)だという。有力な県会議員の肝入りの施策であるという噂も聞こえていた。
仙極を立ち退かせるために、サイガ不動産は尾張一円で工作している気配だった。
周囲でどういう思惑が働いているかなど、どうでもいいことだった。
そんなことよりも、はっきりさせたいことがあった。
時計をスポットライトの際に置き、ドラムスローンの高さを調節し、腰かけた。他のセッティングは済ませていた。スティックを取り、ハイハットとキックのペダルに左右の足を乗せる。
「さて、やるか」
ジャケットは着ていない。
シャツ一枚に、ジーンズ、白のスニーカーという恰好だった。二十前半の頃は、だいたいこんな格好でライブに出ていた。
「なんでもいいけど、最初は、『魔境』からいくか」
ファーストシングルに収録した曲を皮切りに、『天下布舞』の持ち曲を手あたり次第に叩いていく。尽きると、洋邦問わず、ロックで思いつく限りの曲を、脳内で再生しながら叩いた。
そのあと、曲からも離れ、ひたすらにアドリブでビートを刻んだ。
ライブハウスとしては中の下程度の収容能力だが、ドラムの音しかないと、それでも広く感じられた。
もっと、もっとだ。アクセルを踏み続けろ。壊れていい。フルスロットルだ。この地下を、全部、僕の音で埋め尽くしてやれ。
汗が、目に沁みた。瞼を閉じた。暗闇の中でも、スネア、タム、フロアタム、クラッシュ、ライト、すべて視えた。
腕が痺れる。掌が灼けるように熱い。
力任せに叩いているわけではなかった。むしろ余分な力は一切かけておらず、だからこそ体力が続く限り叩き続けていられる。
肚の底から、衝動が、突き上げてくる感じがした。咆哮をあげていた。
十個目だ、と仙極は思った。四つのシンバルと五つのドラム。そして、自分。ドラムセットと自分の境界が溶けていく。
音と、一体になった。振動が生まれては消えていく。目まぐるしく生と死を繰り返している感覚に、仙極は陥っていく。
叩きはじめて、どれぐらい経ったのか。
ふいに、仙極は人に戻った。
「水。それに、腹も空いた」
立ち上がり、ステージを降りた。バーカウンターのシンクの蛇口から、浴びるようにして水を飲んだ。
カウンターに置いてあった紙袋から、バナナの房とリンゴ、バケットを取った。バケットを千切って口に押しこみ、紙パックの牛乳で腹に流し入れた。
まだ食料は十分に残っている。それはそのままにして、ステージに戻った。
今度は『天下布舞』の曲を一つやっただけで、すぐアドリブに入った。
音になり、人に戻る。繰り返した。四度目以降、曲はやらなくなり、内から込み上げてくるリズムパターンを吐き出し続けた。それは変幻していく。名のつけようなどない。
水のようなものだった。水は、様々にかたちを変える。どんなかたちであっても、水は水だ。エイトビートやシェイクといった用語は、ならば、他人にわかりやすいように色をつけた水か。
仙極は、立ち上がろうとして、転げ落ちた。なんとかステージを降りて、半ば這うようにしてカウンターの蛇口まで辿り着いた。
買い溜めた食料は尽きていた。バーカウンターの戸棚を漁ると、カクテル用の塩が出てきた。それを舐めると、身体にわずかだが力が戻った。
ステージへ戻り、スティックを取った。すでに二度折れ、三本目のスティックを遣っていた。
キックから入った。
信永や島津といった、これまで玉響を呼び寄せる力を持ったミュージシャンへの憧れは、消えたわけではないが、忘れた。
胸に去来するものは、なにもない。
スポットライトが、明滅した。チッ、チッ、チッ、とハイハットを踏む音だけが聞こえる。
視界の隅の時計。短針は一時を示している。昼なのか、夜なのか。ライブハウスに籠って、時計の針が何周したのかも、もう数えていなかった。
「おい、久秀。仙極久秀」
声がした。背から活を入れられた。瞼を開くと光が射し入ってきて、思わず目を細めた。
「光秀さん」
明池光秀に支えられて上体を起こした。いつもは涼しげな眦に、いまは憂色をたたえている。
「お前、こんなになるまでなにを」
光秀の骨ばった指が仙極の右手を取る。掌の皮膚が剥がれ、血に濡れていた。左手も、たぶん似たような状態だろう。
「白黒、つけようと思いまして」
「なんのことだ」
「僕は、信永さんのようには、なれない。憧れだった。だからかな、あの人みたいにはなれないって、心のどこかではわかってた気がする」
光秀は、唇を引き結んだ。背を支えられた格好から、自力で起きた。
「ドラムを辞めるのか」
「辞めません。や、何日か前までは、それも考えていはいましたけど、そのつもりはなくなりました。ただ少し離れてみようと思います」
「離れて、どうする」
「まだ決まってません。さっきやっと、新しいことをやってみよう、って気になったところですから」
「ずっと、ドラムをたたいていたのか。そんなになるまで」
光秀と目が合った。
気まずさを感じて、仙極の方から視線を逸らした。自分はいまどんな顔になっているのか。ひどい有様なのは間違いなく、ちょっと別人の様相になっていそうだった。
「光秀さんはどうしてここへ?」
「それは」
光秀が言いさしたところへ、ステージに、見覚えのある青年が上がってきた。
「あの、これ」
「きみ、先月うちでライブを演ってくれた高校生バンドの」
ギターボーカル。そこまでは思い出せたが、名までは出てこない。
「俺に買ってきてくれたの? ありがとう」
差し出されたオレンジジュースのペットボトルを受け取った。
「外の自販機で。明池さんに頼まれて」
もう一度礼を言い、キャップを捻ろうとした。手に力が入らなかった。横から、光秀が開けてくれる。
口をつけた。かすかな酸味と、さわやかな甘みが、身体に沁み渡った。
「お前、ここに住んでいるわけではないよな。着替えはあるのか」
「ここにはないです。あ、数軒先にあるクリーニング屋に出したシャツが、そのままかな」
「なら、ひとまずそれに着替えろ。いや、その前に風呂だな」
「すみません、臭いですか」
「野良犬といい勝負だ」
仙極の脳裡に信永が連れていた小汚い犬のことがよぎった。あの犬も、おそらく野良だったのだろう。
十代の頃、野良同然に燻っていたところを、信永に見出された。羽芝秀吉も、似たような経緯だったはずだ。
光秀は仙極が出会った時から折り目正しい雰囲気をもった大人だった。当時はANE所属のミュージシャンで、ロックより歌謡寄りの音楽をやっていた。
クリーニング屋へはギターボーカルの青年が走ってくれ、その間に仙極は近くの銭湯で数日分の垢を洗い落した。
ギターボーカルとバンドを組んでいた、ベースの青年が、光秀に代わり付き添ってくれていた。
「もう少し水分摂っときましょう。ろくに食ってないなら、砂糖が入ってるもんの方がいいっす」
「ありがとう。わ、いいよいいよ、自分で買うから」
風呂を出て、財布を取り出す高校生を、仙極は慌てて制した。ただでさえ面倒をかけているというのに、高校生に奢らせてはいよいよ立つ瀬がない。
「俺たち、仙極さんに礼を言いに来たんすよ」
二人で肩を並べて脱衣所で涼んでいると、ベースの青年がおもむろに言った。
「礼?」
「先月、ライブに出さしてくれたことっす。遅くなっちまったけど、ほんとうにありがとうございました」
「僕はたんに、きみらの演奏をもっと聞いてみたいと感じただけさ。だから出演を依頼した。そのライブで、きみらはきつい経験をしただろうけど」
「それは、正直、地獄でした。でも、そっから、村良、あ、ギターボーカルのやつ、あいつの演奏に対する甘えが消えました。そんでドラムも前よりどっしり構えるようになって、俺も」
と言いかけて、喋り過ぎていると感じたのか、ベースの青年は、口を噤んだ。
「最初のライブがうまくいかないなんてことは、ざらにあることだ。でもその経験が、きみらのプラスになってくれたならよかった」
「俺の場合、織田さんに鼻っ柱折ってもらったのも、よかったっす」
ベースの青年が、初々しくはにかんだ。
やがて、ギータ―ボーカルの青年がおろしたてのシャツを持って待っていてくれた。
それを受け取り、袖を通した。下着は半日ぐらい履かずに過ごすぐらいどうということはない。
銭湯を出たところで青年らとは別れ、夕暮れの風で濡れた髪を乾かしながらAZMARUに歩いて戻った。
光秀は、ギターを弾いて仙極の戻りを待っていた。アンプに繋いではいないが、信永のベース同様、確かな音圧が伝わってくる。
「対バンに向けて練習ですか」
「二月後と、九鬼からは言われている。言われてから、もう半月は過ぎた」
「メンバーはどうするんです」
「細川は知っていたよな」
「ええ、二人が楽器の部品をオーダーメイドしていたとこの社長ですよね。確か光秀さんの娘さんが嫁いでもいるんでしたっけ」
「ああ。その細川の伝手で、集めてもらった。もうグループで練習をはじめている。曲も、一つはオリジナルを用意できそうだ」
「本気ですね」
「手を抜けるはずがない。相手は、あの人だぞ」
光秀はギターを弾く手を止めずに言った。
「そっか。そうですよね」
もし自分が信永と対バンする立場に立つとしたら。想像しただけでも、畏れにも似た感情におそわれ、鳥肌が立った。
光秀の奏力は、四年前と比べてもほとんど遜色なく感じた。
「お前は、あちらでドラムを叩くのかと思ったが、違うのだな」
光秀が手のことを言っているのはわかった。しばらくは箸を遣うのも苦労しそうな状態だった。さきほど湯に入るときも散々な思いをした。
「ええ。対バンライブは、ここでやってもらおうとは考えてます。でもそれ以上のことはなにも」
「お前が観客になるのか」
「ああ、なるほど。案外そのために、僕は声をかけられたのかもしれません」
告知はこれからするつもりでいたが、信永と光秀の名は伏せるつもりでいた。
旧『天下布舞』の、そのうえ因縁ある二人の対バンとなれば、かなり話題性はある。だが、二人、特に光秀の方は、もう大っぴらにロックをやる気はないだろう。
九鬼からは、光秀が郊外の卸問屋で下働きをしているらしいということも聞いていた。信永からの対バンの申し入れがなければ、音楽とは関係のないところで、ひっそりと余生を送っていくつもりだったのだろうか。
仙極は、今回のことを商売にする気にはどうしてもなれなかった。
「それはそうと、さっきお前が銭湯へ行ってから、ここの台帳を覗かせてもらった。出しっぱなしになっていたのでな」
「別に構いませんよ」
「酷い状況のようだな」
「ちょっと、色々ありましてね。まぁでも、なんとかなりますよ」
「すまん」
仙極は顔を上げ、ステージ上の光秀を見上げた。なにを謝ることがあるのか訊こうとして、やめた。
光秀は暗いステージの上で、ネックを立て、ギターと語り合うように弾いていた。
ホールの端、ステージ対角の位置に、音響照明を操作するブースがある。そこで、ドラムに当たるスポットライトだけを点けた。
ホール側には時計が設置されていなかった。仙極は、カウンター内にあった手のひらサイズの置き時計を持ち、ステージに上がった。
ライトの下に立ち、振り返ると、暗いホールを夜の海のようだと感じた。
AZMARUに、一人だった。
いよいよ出演バンドのあてがなくなり、二日前から実質的に休業同然の状態にあった。
ここら一帯の土地を買い上げ、大規模なイベントホールをつくる計画があるらしい。
その先駆けとして動き回っているのがサイガ不動産で、主導しているのはANE(足利ミュージックエンタテインメント)だという。有力な県会議員の肝入りの施策であるという噂も聞こえていた。
仙極を立ち退かせるために、サイガ不動産は尾張一円で工作している気配だった。
周囲でどういう思惑が働いているかなど、どうでもいいことだった。
そんなことよりも、はっきりさせたいことがあった。
時計をスポットライトの際に置き、ドラムスローンの高さを調節し、腰かけた。他のセッティングは済ませていた。スティックを取り、ハイハットとキックのペダルに左右の足を乗せる。
「さて、やるか」
ジャケットは着ていない。
シャツ一枚に、ジーンズ、白のスニーカーという恰好だった。二十前半の頃は、だいたいこんな格好でライブに出ていた。
「なんでもいいけど、最初は、『魔境』からいくか」
ファーストシングルに収録した曲を皮切りに、『天下布舞』の持ち曲を手あたり次第に叩いていく。尽きると、洋邦問わず、ロックで思いつく限りの曲を、脳内で再生しながら叩いた。
そのあと、曲からも離れ、ひたすらにアドリブでビートを刻んだ。
ライブハウスとしては中の下程度の収容能力だが、ドラムの音しかないと、それでも広く感じられた。
もっと、もっとだ。アクセルを踏み続けろ。壊れていい。フルスロットルだ。この地下を、全部、僕の音で埋め尽くしてやれ。
汗が、目に沁みた。瞼を閉じた。暗闇の中でも、スネア、タム、フロアタム、クラッシュ、ライト、すべて視えた。
腕が痺れる。掌が灼けるように熱い。
力任せに叩いているわけではなかった。むしろ余分な力は一切かけておらず、だからこそ体力が続く限り叩き続けていられる。
肚の底から、衝動が、突き上げてくる感じがした。咆哮をあげていた。
十個目だ、と仙極は思った。四つのシンバルと五つのドラム。そして、自分。ドラムセットと自分の境界が溶けていく。
音と、一体になった。振動が生まれては消えていく。目まぐるしく生と死を繰り返している感覚に、仙極は陥っていく。
叩きはじめて、どれぐらい経ったのか。
ふいに、仙極は人に戻った。
「水。それに、腹も空いた」
立ち上がり、ステージを降りた。バーカウンターのシンクの蛇口から、浴びるようにして水を飲んだ。
カウンターに置いてあった紙袋から、バナナの房とリンゴ、バケットを取った。バケットを千切って口に押しこみ、紙パックの牛乳で腹に流し入れた。
まだ食料は十分に残っている。それはそのままにして、ステージに戻った。
今度は『天下布舞』の曲を一つやっただけで、すぐアドリブに入った。
音になり、人に戻る。繰り返した。四度目以降、曲はやらなくなり、内から込み上げてくるリズムパターンを吐き出し続けた。それは変幻していく。名のつけようなどない。
水のようなものだった。水は、様々にかたちを変える。どんなかたちであっても、水は水だ。エイトビートやシェイクといった用語は、ならば、他人にわかりやすいように色をつけた水か。
仙極は、立ち上がろうとして、転げ落ちた。なんとかステージを降りて、半ば這うようにしてカウンターの蛇口まで辿り着いた。
買い溜めた食料は尽きていた。バーカウンターの戸棚を漁ると、カクテル用の塩が出てきた。それを舐めると、身体にわずかだが力が戻った。
ステージへ戻り、スティックを取った。すでに二度折れ、三本目のスティックを遣っていた。
キックから入った。
信永や島津といった、これまで玉響を呼び寄せる力を持ったミュージシャンへの憧れは、消えたわけではないが、忘れた。
胸に去来するものは、なにもない。
スポットライトが、明滅した。チッ、チッ、チッ、とハイハットを踏む音だけが聞こえる。
視界の隅の時計。短針は一時を示している。昼なのか、夜なのか。ライブハウスに籠って、時計の針が何周したのかも、もう数えていなかった。
「おい、久秀。仙極久秀」
声がした。背から活を入れられた。瞼を開くと光が射し入ってきて、思わず目を細めた。
「光秀さん」
明池光秀に支えられて上体を起こした。いつもは涼しげな眦に、いまは憂色をたたえている。
「お前、こんなになるまでなにを」
光秀の骨ばった指が仙極の右手を取る。掌の皮膚が剥がれ、血に濡れていた。左手も、たぶん似たような状態だろう。
「白黒、つけようと思いまして」
「なんのことだ」
「僕は、信永さんのようには、なれない。憧れだった。だからかな、あの人みたいにはなれないって、心のどこかではわかってた気がする」
光秀は、唇を引き結んだ。背を支えられた格好から、自力で起きた。
「ドラムを辞めるのか」
「辞めません。や、何日か前までは、それも考えていはいましたけど、そのつもりはなくなりました。ただ少し離れてみようと思います」
「離れて、どうする」
「まだ決まってません。さっきやっと、新しいことをやってみよう、って気になったところですから」
「ずっと、ドラムをたたいていたのか。そんなになるまで」
光秀と目が合った。
気まずさを感じて、仙極の方から視線を逸らした。自分はいまどんな顔になっているのか。ひどい有様なのは間違いなく、ちょっと別人の様相になっていそうだった。
「光秀さんはどうしてここへ?」
「それは」
光秀が言いさしたところへ、ステージに、見覚えのある青年が上がってきた。
「あの、これ」
「きみ、先月うちでライブを演ってくれた高校生バンドの」
ギターボーカル。そこまでは思い出せたが、名までは出てこない。
「俺に買ってきてくれたの? ありがとう」
差し出されたオレンジジュースのペットボトルを受け取った。
「外の自販機で。明池さんに頼まれて」
もう一度礼を言い、キャップを捻ろうとした。手に力が入らなかった。横から、光秀が開けてくれる。
口をつけた。かすかな酸味と、さわやかな甘みが、身体に沁み渡った。
「お前、ここに住んでいるわけではないよな。着替えはあるのか」
「ここにはないです。あ、数軒先にあるクリーニング屋に出したシャツが、そのままかな」
「なら、ひとまずそれに着替えろ。いや、その前に風呂だな」
「すみません、臭いですか」
「野良犬といい勝負だ」
仙極の脳裡に信永が連れていた小汚い犬のことがよぎった。あの犬も、おそらく野良だったのだろう。
十代の頃、野良同然に燻っていたところを、信永に見出された。羽芝秀吉も、似たような経緯だったはずだ。
光秀は仙極が出会った時から折り目正しい雰囲気をもった大人だった。当時はANE所属のミュージシャンで、ロックより歌謡寄りの音楽をやっていた。
クリーニング屋へはギターボーカルの青年が走ってくれ、その間に仙極は近くの銭湯で数日分の垢を洗い落した。
ギターボーカルとバンドを組んでいた、ベースの青年が、光秀に代わり付き添ってくれていた。
「もう少し水分摂っときましょう。ろくに食ってないなら、砂糖が入ってるもんの方がいいっす」
「ありがとう。わ、いいよいいよ、自分で買うから」
風呂を出て、財布を取り出す高校生を、仙極は慌てて制した。ただでさえ面倒をかけているというのに、高校生に奢らせてはいよいよ立つ瀬がない。
「俺たち、仙極さんに礼を言いに来たんすよ」
二人で肩を並べて脱衣所で涼んでいると、ベースの青年がおもむろに言った。
「礼?」
「先月、ライブに出さしてくれたことっす。遅くなっちまったけど、ほんとうにありがとうございました」
「僕はたんに、きみらの演奏をもっと聞いてみたいと感じただけさ。だから出演を依頼した。そのライブで、きみらはきつい経験をしただろうけど」
「それは、正直、地獄でした。でも、そっから、村良、あ、ギターボーカルのやつ、あいつの演奏に対する甘えが消えました。そんでドラムも前よりどっしり構えるようになって、俺も」
と言いかけて、喋り過ぎていると感じたのか、ベースの青年は、口を噤んだ。
「最初のライブがうまくいかないなんてことは、ざらにあることだ。でもその経験が、きみらのプラスになってくれたならよかった」
「俺の場合、織田さんに鼻っ柱折ってもらったのも、よかったっす」
ベースの青年が、初々しくはにかんだ。
やがて、ギータ―ボーカルの青年がおろしたてのシャツを持って待っていてくれた。
それを受け取り、袖を通した。下着は半日ぐらい履かずに過ごすぐらいどうということはない。
銭湯を出たところで青年らとは別れ、夕暮れの風で濡れた髪を乾かしながらAZMARUに歩いて戻った。
光秀は、ギターを弾いて仙極の戻りを待っていた。アンプに繋いではいないが、信永のベース同様、確かな音圧が伝わってくる。
「対バンに向けて練習ですか」
「二月後と、九鬼からは言われている。言われてから、もう半月は過ぎた」
「メンバーはどうするんです」
「細川は知っていたよな」
「ええ、二人が楽器の部品をオーダーメイドしていたとこの社長ですよね。確か光秀さんの娘さんが嫁いでもいるんでしたっけ」
「ああ。その細川の伝手で、集めてもらった。もうグループで練習をはじめている。曲も、一つはオリジナルを用意できそうだ」
「本気ですね」
「手を抜けるはずがない。相手は、あの人だぞ」
光秀はギターを弾く手を止めずに言った。
「そっか。そうですよね」
もし自分が信永と対バンする立場に立つとしたら。想像しただけでも、畏れにも似た感情におそわれ、鳥肌が立った。
光秀の奏力は、四年前と比べてもほとんど遜色なく感じた。
「お前は、あちらでドラムを叩くのかと思ったが、違うのだな」
光秀が手のことを言っているのはわかった。しばらくは箸を遣うのも苦労しそうな状態だった。さきほど湯に入るときも散々な思いをした。
「ええ。対バンライブは、ここでやってもらおうとは考えてます。でもそれ以上のことはなにも」
「お前が観客になるのか」
「ああ、なるほど。案外そのために、僕は声をかけられたのかもしれません」
告知はこれからするつもりでいたが、信永と光秀の名は伏せるつもりでいた。
旧『天下布舞』の、そのうえ因縁ある二人の対バンとなれば、かなり話題性はある。だが、二人、特に光秀の方は、もう大っぴらにロックをやる気はないだろう。
九鬼からは、光秀が郊外の卸問屋で下働きをしているらしいということも聞いていた。信永からの対バンの申し入れがなければ、音楽とは関係のないところで、ひっそりと余生を送っていくつもりだったのだろうか。
仙極は、今回のことを商売にする気にはどうしてもなれなかった。
「それはそうと、さっきお前が銭湯へ行ってから、ここの台帳を覗かせてもらった。出しっぱなしになっていたのでな」
「別に構いませんよ」
「酷い状況のようだな」
「ちょっと、色々ありましてね。まぁでも、なんとかなりますよ」
「すまん」
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