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Because the child doesn't know anything
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しおりを挟むベゼル。
既に身体が覚えていたのか、モモセは脊髄で命令を下し、先ほどよりも強く指先を払った。それはひたすらにこの場から逃れたいという思いばかりで、モモセにウルドを傷つけたいなどといった考えはこれっぽっちもない。だがモモセの行動は自ずとそういった結果を導き出すものだった。
自然のものではない風が、ふわりと巻きあがる。
ウルドはその様子を見ても、大して気にした風でもなく小さく眉を跳ねるばかりだ。その上煽るかのように膝で距離を縮める。その頬には何らかの意図が含まれた笑みが乗っていて、しかしこの許容量を大幅に超えた事態はモモセにそうと認識させるまでには至らない。ただウルドが自分を脅かす、それだけだ。
「いやだ……っ! やだ……ッ!」
悲鳴と共に鮮烈な紅が暴風を伴って出現し、ウルドの前に立ちふさがった。上掛けが寝台の支柱に絡まりながら、天蓋の一部と一緒に風に煽られて部屋の隅へと追い立てられる。シーツは見る間に細かに裂け、クッションもいくつか傷つき飛んで行った。
いびつな円環の奥で、出したはいいがこの先どうすればいいかわからずに、モモセは怯えて目を見張っている。
「あ、ぁ――、」
白い素足がさらに逃げたそうに乱れた敷布を掻いていた。二尾はこれ以上ないほど張りつめている。「だめぇ……っ!」
風が一団を威力をあげる気配を見せる。モモセはこれを制御できていないのだろう。
ウルド自身も激しい風にさらされているのに、余裕の表情を崩すどころか男は今度こそはっきりと、面に笑みを刷いて呟く。
神世の言語。
蒼い円環が空間一杯に広がる。複雑に記された遠つ国の言語は、彼だけに赦された世界の理と彼を繋ぐものだ。
『ya halfa, farta ―― heletam』
そうしながら彼は寝台のスプリングを利かせて背後へと飛び退った。壁に据え付けられた寝台と丁度差し向かいである広い窓、そのそばにゆったりとした幅広のカウチが置いてある。カウチ以外の家具は壁に沿う形で配置されているため、おそらくそう被害はないはずだ。
指向性を持った風が、ウルドの作り出した円環にたたきつけられる。深夜のこの騒動に、家人たちが驚いていつ駆けつけてくるかわからないな、とのんきに彼は思う。
しかし、そうそう慌てることもない。モモセの風の威力も長くは続かない。モモセは赦されていないからだ。
そろそろか、頃合いを見てウルドは円環を『鎖閉』した。
そのとき最後の一陣が彼の元に届き、左目の下を裂いた。彼は少しばかり痛みに顔を歪めたものの、それは計算の内だったために真顔を保つ。もうしばらくすると、モモセがウルドに気づき、男が怪我をしたことを知るはずだった。モモセは一体、どんな感情をその愛らしい顔に浮かべて見せるだろう?
彼は流れ落ちる血の量が予想よりも多かったことだけが計算外だった、と一人ごちながら、顎に伝っていった血を手の甲で拭った。
モモセが造りだした風にすでに勢いはなく、春風を思わせる穏やかさである。そのままウルドが見ていると、淡く発光していたウルドにも読めない規則性のない文字とも模様ともつかない何かを描いた環はゆるく空間に溶け落ち、その向こうに大きく肩で息をしたモモセが現れた。
憔悴した眼差しがのろりと動く。その顔貌はひとの形を満足にとどめてはいない、半ば獣のものだった。力の使い方を知らない仔どもが無茶をするので、こんな風に体力を根こそぎ奪われるのだ。ベゼルはそうやすやすと使えるほど、簡単なシロモノではない。
華奢な身体がふらついて、ベッドに肘をつく。その手先は柔らかな白銀の毛並みに覆われている。
何かを探るような視線を遣っているので、ウルドは一歩歩み寄ると声を掛けた。
「モモセ」
ぴくりと垂れた耳先が動いた。人とも獣ともつかぬ奇妙な形をしたは生き物は、ようやく焦点を得た視線をウルドに向ける。離れた場所に立っている男を確認し、瞳がほっとしたように緩んだ。しかしウルドが傷を追っているのを認めるや、落ちる勢いで寝台から降りると、まろびながら駆け寄ってきた。絨毯に付いた四足はすぐに二本に代わり、滑らかな肌を持った手が伸ばされる。いやいやと首を打ち振れば、まとわりついた髪が解けるのと同時、美しい人の子のかんばせが、ベゼルの流素をまといながらあらわになる。
力尽き、獣化するほど体力を消耗してまで稼いだ距離であったのに。あっという間にその距離は縮まる。
しかしこれこそが、ウルドの狙った展開だった。
口角が上がりそうになるのを、男は何とか押し止める。
「血が!」
先ほどとは違った意味合いで顔を青くしながら、モモセはウルドの目元に指先を添えようとした。
「ごめんなさい、おれッ」
あなたを傷つけるつもりなんてなかった。
そんなつもりじゃなかった。
ただあなたみたいな綺麗な人が、おれみたいな動物に
「――――ッ、」
だからモモセの指がウルドに触れることはなかった。罪悪感のみで構成されていた意識のどこにそれを思い出す隙間があったのか、寸前で止めたモモセは瞬時固まったあと、素早い動作でその手を背中に回した。そうして瞳を歪めてウルドを見上げた。己のつけた傷が目の前にあるのに、その身体に根差す身分制度があるために彼の血を拭ってやることすらできない、ジレンマ。
ほんの一瞬のことだが、モモセの足が後退したそうに動いたのを見て、ウルドはそれよりも速くモモセの腰を捉えた。
反射的に逃げを打とうとするのは最早クセよりも深く本能に染みついたものだろう。モモセが再び円環を開こうとするのを、今度ウルドは赦さなかった。恐怖を感じるや、身体がベゼルを使おうと本能的に動くのだろうが、それを無言の内に阻む。
神世の言語を口にするまでもない。
未熟なモモセ程度なら、いくらでも押さえ込める技量が彼にはあった。
「そう何度も、好きにさせると思うな」
ひっそりと低く男は囁いた。
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