人魚は久遠を詠えない

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処女航海

遠き航海のはじまり

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 目が合った瞬間、この男《ひと》だ、とアリオンにはわかった。

 巨大な船体も掲げる帆すら真っ黒な海賊船、アリオンが見つけた彼はその旗艦の若き副船長だった。

 壮年の船長とその伴侶たる美しい人魚に船上へと迎えられ、大層な歓迎を受けているあいだもアリオンのまだ幼さの証明である青の瞳で、懸命に男の、鮮やかな赤の羽織を纏った後姿を追っていた。男の羽織は軽やかな布地で作られていて、細かく刺繍が施されている。けれど大輪のそれが何なのか、海だけが世界だったアリオンはそのときはまだ知らなかった。美しい模様、紅くすべらかな布が目にも鮮やか。

 堂々たる大きな体躯の足首までも覆う羽織は、ひらりひらりと潮風に遊んでアリオンの目を翻弄する。

 母は船長らと親しげに話していたけれど、その声もアリオンの耳を素通りしていく。

 真っ先に歓迎してくれた初めて見る同胞の人魚より、初めて乗り込む大型帆船より、アリオンは船首で他の船員と話し込んでいる男の後ろ姿が気にかかってならなかった。

 けれど傍まで連れて行ってと母にねだるような度胸もなく、自分で彼のもとに向かうには歩行に慣れない脚では難しい。
 本当なら、まだまだ母胎とでもいうべき二枚貝の中で眠っているような歳なのだ、人魚の稚魚のアリオンは。

 それがどうしてだか目を覚まして、本来の目的地ではない方向へ波を操って、乗ってきた小さな帆船の進路を変えさせた。

 母は不思議がっていたけれど、彼を見つけた今ならわかる。アリオンは、彼に逢いたかったのだ。

 乗船時に一度遠目から見たきりの彼にもう一度振り向いてもらいたくてじいっと見つめているけれど、男はそれに気づく様子はない。

「――わっ」

 じれったく思っていると、ふいに風が吹いた。潮風に茶色の髪が煽られ、アリオンの視界を遮っていく。
 マストが三本も立っている巨大な帆船の甲板の上は、今まで旅してきた小船よりもずっと強く風を感じる。

 困ってしまったアリオンはわたわたとその長いそれを押さえにかかった。けれど止まらない強風にアリオンの水掻きのある小さな手をすり抜けて、ぐちゃぐちゃにかき乱すのだ。

(あの人が見えなくなっちゃう)

 アリオンはほとんど泣きべそをかきそうになっていた。すると、不意に目の前に影が差す。

『結んでやろうか?』

 聞き慣れない異国の言葉に顔を上げたアリオンは、驚いて目を見張った。咄嗟に傍で談笑していた母親の足に縋りつく。幼い子どもの目線に合わせてかがんだ男が、ずっと見惚れていた男の人だと気づいたからだ。

 いくつもの組紐を掌に取り出して見せた男もまた、アリオンのそんな仕草に少し驚いた顔をした。

「……俺、もしかして嫌われたのかねぇ」

 立ち上がった青年の口から発せられたのは、今度はアリオンにも聞き取れる言葉だった。
 この船で使われている共通語は、アリオンの知らない言語だったのだ。
 アリオンが分かるのはまだ見たことのない、遠つ故郷の言語だ。母はこれから向かう先がその故郷の日出であったから、あえてそちらの言葉をアリオンに教えた。
 本当は、この船に行き合う予定はなかったから。

 まさか、と母はかすかに笑って男の嘆きに答える。

「アリオンがあんたを嫌うはずがないさ。こんなにあんたばっかりを目で追いかけて。恥ずかしがっているだけだろう。気づいているくせに、嫌味なやつだな」

「それなら嬉しいがね」

 茶目っ気たっぷりに見下ろしてくる青い瞳を受け止めきれずに、アリオンは抗議を込めて母親の足をぽかりと叩いた。

「ママ!」

 アリオンは頰を真っ赤に染めている。大人たちはくすくすと笑って、嬉しそうにアリオンを見つめていた。それがなんともバカにされているようで今度は頰を膨らませて母にしがみついていると、彼女の手が優しく背を叩く。

「アリオン」

 綺麗な声で母は幼い養い子の名前を発音して、その身体を男の前へ押しやった。

「髪を、結んでもらいな」
「ママ、」
「アリオン、私はずうっとお前と一緒にいられるわけではないよ」

 母が何を言わんとしているか理解できずに、アリオンはぱちりと目を瞬かせた。まだたった三つのアリオン。大人の話す言葉はずいぶんと難しい。

「運命は、自分で切り開いていくものなんだぜ。だって、お前、こいつに逢いにきたんだろう?」

 母が無遠慮に指さすのは、もちろんのことアリオンが熱心に見つめていた男に他ならない。

 さあ、と促され、アリオンはおずおずと顔をあげる。

 ややオレンジがかった金の髪はまるで太陽のようで、眼はその陽をいっぱいに受けた海の色。

 アリオンはついさっきまで人間を母しか知らなかったけれど、この人は人魚の自分とも人間の母とも違う生き物だった。もちろん人間には違いないのだけれど、こんなに力強く、美しい生き物を初めて見た。
 男の人なんてなおさら見たことはなくて、この船で見かけたのが初めてだったのだけれど、この船の船長や船員たちとも、この副船長の男は違った。

 この男だけがアリオンの特別で、アリオンを虜にした。

 とても近くで彼を見て、アリオンは改めて見惚れるという体験をする。

「お出で、」

 声も出せないまま見つめていると、脇に手を差し入れられ、返答を聞くまでもなく男はアリオンを抱え上げた。

 そのまま転がった木箱の上に男は腰を据え、その膝の上に背中を抱え込むようにして座らせられる。 
 緊張して固まっていると、大きな厚い手が頭を撫でた。剣だこのあるてのひらの、固い感触。けれどそれは、やさしさもちゃんと知っている手だった。

 それを子どもながらに敏感に感じ取り、アリオンはほっと身体のちからを抜く。

 そうすると手を背後から差し出され、どの色が好きか、と問われた。てのひらに乗せられた色とりどりのリボンを見て、アリオンは悩んだ末に赤い色を選んだ。男が羽織っている服の色と、同じ色だったからだ。そして同じ色のリボンで髪を結んでいたのを、アリオンは見ていたのだ。

 いつかこんな目の色になるのかな、とアリオンは青い目を瞬かせる。

 生まれたばかりの人魚の瞳の色は青。目覚めてひとつ季節を数えるころに、それは特徴的な赤へと変わる。

「まだ、目が覚めたばっかりだろう?」

 茶色の髪に手櫛をいれながら、彼は訊ねた。「まだ青い人魚に逢ったのは初めてだよ」

 アリオンはその言葉にこっくりと頷く。

「この前目が覚めたよ。青いおめめはいや?」

「いいや? 俺は運がいい。ちいさなお姫さまに逢えて嬉しいよ。こんなにちいさな頃を見かけるのは、滅多にあることじゃないからね。守り女が絶対に許さない。ママは随分と嫌がっただろう?」

「うん。でも、ありおんがやっぱりこっち、って言ったら、とくべつ、て」

「はは、そりゃあ、人魚がそこまで言って、諦めさせられるもんか。駄目って言われたら、自分でどうにかするつもりだったんだろう?」

「だめだった?」

「まさか、大歓迎だ。でも代わりに髪は惜しいことをしたな……、残念だ」

 彼は肩より少しだけ伸びたアリオンの髪をいくつかの房に分けて束ねている。

「ざんねん? なにか、いや?」

 咄嗟に振り返ろうとして止められて、顔を正面で固定される。頬を押さえた少しかさついた指の腹は強制を含まない穏やかなものだったけれど、ちっちゃな女の子が動けなくなるには十分だ。

「前を向いてな」「だって、」
「残念なのはお前さんのせいじゃないよ。髪を染めてるだろ」

 アリオンはまだ母親とお喋りをしている船長とその人魚を見る。人魚の彼女の髪は銀、そしてやわらかく笑んだ瞳を彩る紅。それは成魚の証で、今はまだアリオンには遠いものだ。

「――ん、ほんとのアリオンの髪はぎんいろなの」

 悪いひとに見つかっては大変だから、隠してしまってからにしよう、そう母が言ったのだった。これから向かう帆船はただただ海を渡るだけのものではない。港にも寄るし、船員だけではない多くの人が乗り込むこともある。人魚はとても珍しい生き物で、用心していないと攫われるよ、と母はアリオンを脅すのだ。

 茶色の髪に青い瞳の子どもはどこにでもいる、じっくり見ればその青さも普通ではないとわかるだろうけれど、そんなに近くでアリオンを確認することを母は決して許さないだろう。この男は特別なのだ。

「銀髪、見ときたかったんだけどねえ。きっと、綺麗だったでしょ」
「そう思う?」
「そりゃあ」

 即答される返事にアリオンはすっかり嬉しくなって、先ほどまでの緊張すべて溶かして笑った。

 彼の膝の上でぴょこぴょこと身体を跳ねさせて、あのね、と言い募る。

「じゃあね、アリオン、あなたのお船にのるよ。いちにんまえの人魚になって、あなたのお船でうたうよ」
「ほんと?」
「ほんと!」

「だったら……」

 アリオンをきちんと整え、男は立ち上がると今度はアリオンだけを木箱に座らせる。アリオンは髪の毛に後ろ手をやった。子どもなりに精いっぱい丁寧に指先でたどって、ぱっとその愛らしい顔を輝かせた。

「おそろいっ?」

 みつあみに縛った左右の横髪をまとめて、後ろでリボンを使って縛っている。残った後ろ髪はそのまま自然に垂らしてあるが、もう髪が視界を覆うことはないだろう。

 それはまさしく、今アリオンの前で跪いている男と同じ髪型だった。

 男は無邪気な問いかけに頷いてやりながら、小さな少女の手を取った。
 恭しくかしずく様子に、アリオンはきょとんとして目を瞬かせる。

「どうしたの?」

「――至高なる私の人魚姫。いつか共に来てくださると、誓っていただけますか?」

 あえて選んだような堅苦しい響きはアリオンには難しすぎた。けれどその響きは請うているようで、大事なことを訊いているのだとわかった。それだけでアリオンの答えはひとつだけだ。アリオンは何の疑いもなく頷いた。

「いいよ」

 男はとろけるように笑い、アリオンの指先にキスを落とした。少女はくすぐったげに肩を竦める。

「やくそくね」
「――ああそうだ、これは約束だ。いつか再びがあったなら、お前から俺に口づけてくれ」

 真摯に彼は呟いた。彼の切実さは繋いだ指を通してアリオンに伝わった。速い鼓動はとくとくと同じ速度を刻んでいる。

 まだつたない、何の効力もないままごとだ。けれどこれを望んでいたことをアリオンははっきりと知った。

 うれしくて、むねがはりさけそう。

 一瞬が永遠に引き伸ばされたその刹那、ふたりのあいだには確かなものがあったのだ。



 ――何度も歳月を重ねたその日、ふと我に返ったとき少女は、その何もかもをてのひらから溢してしまっていたけれど。


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