2 / 28
第一航海
その胸に誓うは彼への復讐
しおりを挟む
アリオンは真新しい墓の前で唇を噛んで俯いていた。
もう時間がない。
子どもが屋敷を脱け出していることに気づいて、今頃アリオンにつけられていたメイドたちは大騒ぎをしていることだろう。
だからと言って、大人しく見つかって連れ帰られてやるつもりなどアリオンにはなかった。
数日の間に起こったさまざまな出来事が、脳裏を凄まじい勢いで駆け抜けていく。
唯一の肉親となっていた父の訃報を聞いたのは、たったの三日前のことだった。
海軍総督だった彼は海で死んだ。
いや、
死んだ、のではない。
殺されたのだ。
ならず者の海賊、ディアギレフに。
父の部下だった青年、オルテガがそう教えてくれた。
父の遺体は丘に帰ってはこなかった。アリオンの前に立つ墓石の下に、彼女の父親は眠っていない。戻ってきたのはわずかな遺品だけ。
アリオンはひっきりなしに腰に差したサーベルの柄頭を鳴らした。落ち着こうとして起こした行動だったが、逆に気持ちが高ぶる。
――きっと、この手で。
身体がぶるぶると震えてどうしようもなかった。怒りが身体中にたぎっていた。
あまりに大きすぎる激情のせいで、アリオンはいまだ泣くこともできないでいる。
殺してやる。
ああ、仇打ちなどという美しい感情ではないことくらい、少女は先刻承知している。
肉親を亡くしたというこの胸の欠落を紛らわす方法に、復讐という手段を選んだだけなのだ。
殉死して海に散った父の葬儀は盛大だったけれど、それが一体何の慰めになるだろう。
磨き上げられた墓石に大急ぎで刻まれた、名前だけの存在になってしまった父を見る。そして、その先にある忌むべき男の顔を。想像する。
「待ってて父さま、きっとアリオンは、あの男を殺してみせるから」
ハンチング帽に豊かな銀髪を押し込んだ。人魚の証であるこの髪を、染めている時間はなかった。切りすて目立たなくしてしまうには、勇気がまだ足りなかった。
父が、綺麗だと手放しでほめてくれた髪だ。
その父を、母だけでなく亡くしてしまった自分の無力さに、アリオンは愕然とした。
人魚として父の船に乗っていれば、或いは。
そんな風に仮定を考えることはばかげていると思っている。けれどももっと愚かしいのは、もう二度と手に入らないと分かっているのに仇を討てばまだ何かを手に入れられる気になっていることだ。
「バカバカしい。――僕は、」
使いなれない一人称を呟いた途端、アリオンは心が冷たく冴え渡るのを感じた。
「はッ」
嗤っておいて、幼い子どもは自覚するのだ。
望んでいたことなどいくらもなかったのだと。
母は遠い昔に頃に亡くしてしまっていたから、だからせめて、と。
父娘で穏やかな生活を送ることくらい、夢見てもいいのではないか。きれいな服も、大切に大切に、庇護されるような生活もいらなかった。ただアリオンは幸せになりたかっただけだ。
本音を吐露してしまえば、人魚と呼ばれる自分さえも、彼女には疎ましかったのだ。人魚は稀少で世界中で身を潜める彼らの乱獲者は後を絶たず、高値で取引されるという。その肉体そのものが、万物の霊薬となるからだ。そのために海賊に、人魚を狙うやつらに見つからないようにアリオンは内地に隠れ住まなくてはならなかった。王都に出たことなど一度もなく、何度もせがんでも許されなかった。父の葬儀でようやく、アリオンは王都に足を踏み入れることができたのだ。
けれどその荘厳で華やかな景色にも、少女がこころを揺さぶられることはなかった。
父は娘がいたことを多くに語らなかったのだろう。父の腹心、オルテガに伴われて現れた少女に直接心無い言葉を浴びせることはさすがになかったけれど、好奇心と所有欲を込められたねばつく眼差しははっきりと感じられた。
それはアリオンに父がどうして人前に自分を出さなかったのか、理解させるには十分だった。
父は忙しい仕事の合間を縫って、領地に帰ってきてはアリオンに世界の情勢と人魚のおかれている状況を口を酸っぱくして教えてくれていた。
人魚は、誰もが欲する妙薬だ。誰も彼もから狙われる。その筆頭が海賊で、海の守り手とも呼ばれる人魚は海に生きるものなら死に物狂いで求めてもおかしくない生き物なのだ。
父はそういった無法者を取り締まる役目も持っていた、正義の人だった。
自分が人魚であるせいで、かつて母は死に、そして父までも逝ってしまった。
ディアギレフが父を殺したのも、きっと人魚であるアリオンを欲したからだろう。
「誰が、貴様のものになんかなるかよ――」
彼を、殺しに。
時間はもう、わずかしかない。
葬儀が終わり、休む間もあればこそ、アリオンは国王に拝謁賜ることになっている。その意味だってもう、アリオンはきちんと知っている。
アリオンは深く帽子を被り直した。密かに心を決めて実家の庭師のところからかすめ取ったオーバーオールは大きくて、肩紐を掛け直す。
腰のサーベルががちゃりと鳴く。これはわずかな父の遺品のひとつだ。それはアリオンを鼓舞しているようだった。
決意が大きく胸に燃え広がる。
震えが、全身に伝播した。
もう時間がない。
子どもが屋敷を脱け出していることに気づいて、今頃アリオンにつけられていたメイドたちは大騒ぎをしていることだろう。
だからと言って、大人しく見つかって連れ帰られてやるつもりなどアリオンにはなかった。
数日の間に起こったさまざまな出来事が、脳裏を凄まじい勢いで駆け抜けていく。
唯一の肉親となっていた父の訃報を聞いたのは、たったの三日前のことだった。
海軍総督だった彼は海で死んだ。
いや、
死んだ、のではない。
殺されたのだ。
ならず者の海賊、ディアギレフに。
父の部下だった青年、オルテガがそう教えてくれた。
父の遺体は丘に帰ってはこなかった。アリオンの前に立つ墓石の下に、彼女の父親は眠っていない。戻ってきたのはわずかな遺品だけ。
アリオンはひっきりなしに腰に差したサーベルの柄頭を鳴らした。落ち着こうとして起こした行動だったが、逆に気持ちが高ぶる。
――きっと、この手で。
身体がぶるぶると震えてどうしようもなかった。怒りが身体中にたぎっていた。
あまりに大きすぎる激情のせいで、アリオンはいまだ泣くこともできないでいる。
殺してやる。
ああ、仇打ちなどという美しい感情ではないことくらい、少女は先刻承知している。
肉親を亡くしたというこの胸の欠落を紛らわす方法に、復讐という手段を選んだだけなのだ。
殉死して海に散った父の葬儀は盛大だったけれど、それが一体何の慰めになるだろう。
磨き上げられた墓石に大急ぎで刻まれた、名前だけの存在になってしまった父を見る。そして、その先にある忌むべき男の顔を。想像する。
「待ってて父さま、きっとアリオンは、あの男を殺してみせるから」
ハンチング帽に豊かな銀髪を押し込んだ。人魚の証であるこの髪を、染めている時間はなかった。切りすて目立たなくしてしまうには、勇気がまだ足りなかった。
父が、綺麗だと手放しでほめてくれた髪だ。
その父を、母だけでなく亡くしてしまった自分の無力さに、アリオンは愕然とした。
人魚として父の船に乗っていれば、或いは。
そんな風に仮定を考えることはばかげていると思っている。けれどももっと愚かしいのは、もう二度と手に入らないと分かっているのに仇を討てばまだ何かを手に入れられる気になっていることだ。
「バカバカしい。――僕は、」
使いなれない一人称を呟いた途端、アリオンは心が冷たく冴え渡るのを感じた。
「はッ」
嗤っておいて、幼い子どもは自覚するのだ。
望んでいたことなどいくらもなかったのだと。
母は遠い昔に頃に亡くしてしまっていたから、だからせめて、と。
父娘で穏やかな生活を送ることくらい、夢見てもいいのではないか。きれいな服も、大切に大切に、庇護されるような生活もいらなかった。ただアリオンは幸せになりたかっただけだ。
本音を吐露してしまえば、人魚と呼ばれる自分さえも、彼女には疎ましかったのだ。人魚は稀少で世界中で身を潜める彼らの乱獲者は後を絶たず、高値で取引されるという。その肉体そのものが、万物の霊薬となるからだ。そのために海賊に、人魚を狙うやつらに見つからないようにアリオンは内地に隠れ住まなくてはならなかった。王都に出たことなど一度もなく、何度もせがんでも許されなかった。父の葬儀でようやく、アリオンは王都に足を踏み入れることができたのだ。
けれどその荘厳で華やかな景色にも、少女がこころを揺さぶられることはなかった。
父は娘がいたことを多くに語らなかったのだろう。父の腹心、オルテガに伴われて現れた少女に直接心無い言葉を浴びせることはさすがになかったけれど、好奇心と所有欲を込められたねばつく眼差しははっきりと感じられた。
それはアリオンに父がどうして人前に自分を出さなかったのか、理解させるには十分だった。
父は忙しい仕事の合間を縫って、領地に帰ってきてはアリオンに世界の情勢と人魚のおかれている状況を口を酸っぱくして教えてくれていた。
人魚は、誰もが欲する妙薬だ。誰も彼もから狙われる。その筆頭が海賊で、海の守り手とも呼ばれる人魚は海に生きるものなら死に物狂いで求めてもおかしくない生き物なのだ。
父はそういった無法者を取り締まる役目も持っていた、正義の人だった。
自分が人魚であるせいで、かつて母は死に、そして父までも逝ってしまった。
ディアギレフが父を殺したのも、きっと人魚であるアリオンを欲したからだろう。
「誰が、貴様のものになんかなるかよ――」
彼を、殺しに。
時間はもう、わずかしかない。
葬儀が終わり、休む間もあればこそ、アリオンは国王に拝謁賜ることになっている。その意味だってもう、アリオンはきちんと知っている。
アリオンは深く帽子を被り直した。密かに心を決めて実家の庭師のところからかすめ取ったオーバーオールは大きくて、肩紐を掛け直す。
腰のサーベルががちゃりと鳴く。これはわずかな父の遺品のひとつだ。それはアリオンを鼓舞しているようだった。
決意が大きく胸に燃え広がる。
震えが、全身に伝播した。
0
あなたにおすすめの小説
私たちの離婚幸福論
桔梗
恋愛
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
記憶を失くして転生しました…転生先は悪役令嬢?
ねこママ
恋愛
「いいかげんにしないかっ!」
バシッ!!
わたくしは咄嗟に、フリード様の腕に抱き付くメリンダ様を引き離さなければと手を伸ばしてしまい…頬を叩かれてバランスを崩し倒れこみ、壁に頭を強く打ち付け意識を失いました。
目が覚めると知らない部屋、豪華な寝台に…近付いてくるのはメイド? 何故髪が緑なの?
最後の記憶は私に向かって来る車のライト…交通事故?
ここは何処? 家族? 友人? 誰も思い出せない……
前世を思い出したセレンディアだが、事故の衝撃で記憶を失くしていた……
前世の自分を含む人物の記憶だけが消えているようです。
転生した先の記憶すら全く無く、頭に浮かぶものと違い過ぎる世界観に戸惑っていると……?
完結 そんなにその方が大切ならば身を引きます、さようなら。
音爽(ネソウ)
恋愛
相思相愛で結ばれたクリステルとジョルジュ。
だが、新婚初夜は泥酔してお預けに、その後も余所余所しい態度で一向に寝室に現れない。不審に思った彼女は眠れない日々を送る。
そして、ある晩に玄関ドアが開く音に気が付いた。使われていない離れに彼は通っていたのだ。
そこには匿われていた美少年が棲んでいて……
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】
かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。
名前も年齢も住んでた町も覚えてません。
ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。
プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。
小説家になろう様にも公開してます。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる