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それは永遠の秘めごと
どこにだっていけないよ
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『なんだ、それは』
才津が呆けた声を出し、振り返った。静まり返った襖を指差す。
『あれの機嫌を損ねたか』『違うと言うなら、主人はだいぶん大馬鹿だと思う』
辛辣な千穿の一言に、才津はあー、と情けない声を漏らす。そんな才津に茶を渡しながら、千穿は苦言を呈した。
『むやみやたらと揶揄うから』
『原因の一端が何を言うとる』
茶をすすりながら、才津は文句を言う。
『主人に言われるのと、私がからかうのはまったく別だぞ』
仔どもは自分にも渡された茶を礼を言って受け取り、もうひとつ盆に残った湯呑を取り上げた。刹貴の分だ。
傍に寄って行き、仔どもは彼の袖を引っ張った。立ったままだった刹貴は素直に畳へと腰をおろし、仔どもは武骨な手を取って、そこへ湯呑を乗せてやる。
彼の隣に裳裾を乱して座り込み、仔どもはふうと息をついた。
「あの、ねえ」
自分の熱い茶を吹き冷ましながら、仔どもはちらちらと押入れに目をやった。こくりと喉をうるおす苦みと甘みが、すこし疲労を落とした気がする。
刹貴はそんな仔どもの肩に触れ、労るように撫でた。手つきがそう促すので、素直に身体に凭れておく。
『疲れたか』
「ん、んー」
肯定するのも違う気がして、仔どもは曖昧に相槌した。刹貴はぐっと湯呑を空にして、ため息をつく。
『行ってくればいい、結んだ道は一本しかない』
ぱっと顔を上げ、仔どもは目を綻《ほころ》ばせた。
どう伝えていいものか言いあぐねていたものを、刹貴ならば汲み取ってくれる。
「ありがと」
軽く刹貴は仔どもの背を叩いた。才津の前に仔どもを出す。
『才津殿、今からこれを空の坊のところにやるが、いいか』
さっそく饅頭にかぶりついていた才津が、ちらと目を上げひらりと手を振った。
『ああ、構わん。どうにも臍を曲げておるゆえ、機嫌取りに行ってくれると助かるな』
刹貴はその返事に、ひょいと仔どもを抱えて押入れの上段へと下ろす。
所狭しと並べられたものの奥には壁らしきものは存在しない。暗澹とした闇のみがぼんやりと広がっている。
『否、壁はある。舗とここをへだつ境界なら。手を伸ばしてみろ、妙なものにぶつかるが、それを抜ければすぐに才津殿の舗だ』
言われたとおりにしてみると、弾力のあるモノに指が触れた。仔どもは身を引き、刹貴を振り返る。
『問題はない。空もあれを通ってきたのだ』
「分かってる、よー」
もう一度、触れる。ぽにょんと指先が弾き返された。押し進めると抵抗のあと、難なく手首まで受け入れられた。奥のほうではこちらとは違った空気が流れているのを感じる。あちらのほうが少しばかり空気がぬくいのだった。
『娘、空と食え』
才津に饅頭の包みを渡される。ふんわりと漂う甘い香りに、仔どもは頬をゆるませる。『お前と甘味でも食えば、少しはあれも機嫌をなおすだろうて』
『外は大座敷ゆえ、目を回すなよ』
千穿の声が聞こえたが、押入れの入り口を陣取る大男二人のせいで、姿までは見えない。
刹貴が小さく呼びかける。
『人間』
「なあに」
刹貴は小物を押しのけて、押入れに手をついた。刹貴と向かい合って座っている仔どもと目線を合わせるには、それでもなお刹貴は身をかがめる必要があった。
『信じている、人間。お前を』
逡巡のあと、そう呟いた刹貴の意図に気づいて仔どもは切なくわらった。ここからならどこにだって逃げだせる。そのことを知っている。
「大丈夫よ」
だって、
先ほど考えていた言葉の続きを、思う。
「もうあたし、どこにだって行けないよ」
自分のいたい場所はどこ。
刹貴が言っていた、信じろ、その言葉ではないけれど。信じる信じないなんてもう関係がないほど、仔どもは刹貴のそばにいたいのだ。あの言葉をくれたから、仔どもは刹貴を好きだと思ったわけではない。
「もう、死ねないよ」
帰るよ、もう、逃げたりなんてしないよ。
『待っている』
それにうん、そう仔どもは頷いた。
才津が呆けた声を出し、振り返った。静まり返った襖を指差す。
『あれの機嫌を損ねたか』『違うと言うなら、主人はだいぶん大馬鹿だと思う』
辛辣な千穿の一言に、才津はあー、と情けない声を漏らす。そんな才津に茶を渡しながら、千穿は苦言を呈した。
『むやみやたらと揶揄うから』
『原因の一端が何を言うとる』
茶をすすりながら、才津は文句を言う。
『主人に言われるのと、私がからかうのはまったく別だぞ』
仔どもは自分にも渡された茶を礼を言って受け取り、もうひとつ盆に残った湯呑を取り上げた。刹貴の分だ。
傍に寄って行き、仔どもは彼の袖を引っ張った。立ったままだった刹貴は素直に畳へと腰をおろし、仔どもは武骨な手を取って、そこへ湯呑を乗せてやる。
彼の隣に裳裾を乱して座り込み、仔どもはふうと息をついた。
「あの、ねえ」
自分の熱い茶を吹き冷ましながら、仔どもはちらちらと押入れに目をやった。こくりと喉をうるおす苦みと甘みが、すこし疲労を落とした気がする。
刹貴はそんな仔どもの肩に触れ、労るように撫でた。手つきがそう促すので、素直に身体に凭れておく。
『疲れたか』
「ん、んー」
肯定するのも違う気がして、仔どもは曖昧に相槌した。刹貴はぐっと湯呑を空にして、ため息をつく。
『行ってくればいい、結んだ道は一本しかない』
ぱっと顔を上げ、仔どもは目を綻《ほころ》ばせた。
どう伝えていいものか言いあぐねていたものを、刹貴ならば汲み取ってくれる。
「ありがと」
軽く刹貴は仔どもの背を叩いた。才津の前に仔どもを出す。
『才津殿、今からこれを空の坊のところにやるが、いいか』
さっそく饅頭にかぶりついていた才津が、ちらと目を上げひらりと手を振った。
『ああ、構わん。どうにも臍を曲げておるゆえ、機嫌取りに行ってくれると助かるな』
刹貴はその返事に、ひょいと仔どもを抱えて押入れの上段へと下ろす。
所狭しと並べられたものの奥には壁らしきものは存在しない。暗澹とした闇のみがぼんやりと広がっている。
『否、壁はある。舗とここをへだつ境界なら。手を伸ばしてみろ、妙なものにぶつかるが、それを抜ければすぐに才津殿の舗だ』
言われたとおりにしてみると、弾力のあるモノに指が触れた。仔どもは身を引き、刹貴を振り返る。
『問題はない。空もあれを通ってきたのだ』
「分かってる、よー」
もう一度、触れる。ぽにょんと指先が弾き返された。押し進めると抵抗のあと、難なく手首まで受け入れられた。奥のほうではこちらとは違った空気が流れているのを感じる。あちらのほうが少しばかり空気がぬくいのだった。
『娘、空と食え』
才津に饅頭の包みを渡される。ふんわりと漂う甘い香りに、仔どもは頬をゆるませる。『お前と甘味でも食えば、少しはあれも機嫌をなおすだろうて』
『外は大座敷ゆえ、目を回すなよ』
千穿の声が聞こえたが、押入れの入り口を陣取る大男二人のせいで、姿までは見えない。
刹貴が小さく呼びかける。
『人間』
「なあに」
刹貴は小物を押しのけて、押入れに手をついた。刹貴と向かい合って座っている仔どもと目線を合わせるには、それでもなお刹貴は身をかがめる必要があった。
『信じている、人間。お前を』
逡巡のあと、そう呟いた刹貴の意図に気づいて仔どもは切なくわらった。ここからならどこにだって逃げだせる。そのことを知っている。
「大丈夫よ」
だって、
先ほど考えていた言葉の続きを、思う。
「もうあたし、どこにだって行けないよ」
自分のいたい場所はどこ。
刹貴が言っていた、信じろ、その言葉ではないけれど。信じる信じないなんてもう関係がないほど、仔どもは刹貴のそばにいたいのだ。あの言葉をくれたから、仔どもは刹貴を好きだと思ったわけではない。
「もう、死ねないよ」
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『待っている』
それにうん、そう仔どもは頷いた。
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