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縁のはじまり
その名前
しおりを挟む『だったらもうひとつ、お前によい報せだ、人間』
あやすように仔どもの膝を叩いていた刹貴が不意に言い出した。涙を拭い、鼻を啜りあげながら仔どもは何、と訊ねた。
『いつか、お前に愛されている証拠を知らせてやろうと、そう言ったことを覚えているか、人間』
「ちゃん、と」
傷を癒したときに。確かに刹貴がそう言ったことを、仔どもは忘れてはいない。そんなものあるわけがないと思ったことも、覚えている。そのこころだけはたくさんの変化を経た仔どもの中で、唯一ずっと変わらなかったものだった。
ほんの、三日前まで。
「それが、どうし、」
それがどうしたの、と。仔どもは最後まで言葉を続けることができなかった。
彼は机の左側の引き出しを開け、何かを取り出して仔どもの目の前でカランと鳴らした。
風鈴、だった。
「あ、」
仔どもは無意識に声を上げる。
カラン、とまた風鈴は誘うように揺れた。
自分のものだと、確証もないのに自然と思える。
『返そう、お前のものだ。
想詩』
そっと優しく付け加えられた一言。呼吸の仕方を忘れる。いきなり過ぎて、何もかもついていけない。
信じられなかった。だって今の今まで刹貴は仔どものことを人間、と。
「いま、いま、なん て」
『想詩』
はっきりと、刹貴は繰り返した。聞き間違いでもなんでもないのだと、知らしめるように。
『お前の、名だ』
手のひらに、風鈴が落とされた。
刹貴は風鈴を握って亡羊とする仔どもの手を自身の手で包み、風鈴の内側を指でなぞった。そこにはしっかりと刻まれた仔どもの名。
『分かるか。想詩、と書いてあるのだ』
「わか。わか、るよ」
かろうじて、答えた。読めはしない。仔どもは文字を知らない。けれど呪を施された風鈴からは、確かに伝わってくるものがあって。
その想いの深さに、また泣きそうになる。
嘘だ、と叫びだしたかった。耳をふさいで、逃げたくなかったけれど、逃げ出したかった。優しげに、呼ぶその声から。
想詩、想詩、と。
どうしてどうして。だって、この声は。
けれどいくら耳を塞いだころで、耳の奥で木霊する声は、消えない。
《この風鈴は、》
この風鈴は、あなたのためだけに詠うのよ、想詩。
刹貴の声に、遠い昔に聞いたばかりの母の声が被さった。
あのとき、あああの人はどんな顔で自分を見ていただろう。どんな声音でそう告げて、自分に風鈴を差し出しただろう。
怖くて怖くて、見ることが叶わなかったあの人は。
聞くことが叶わなかった、あの人の声の色は。
「うそ、だ」
何がうそでなにがそうでないのか、分かりきっていないままに仔どもはそう漏らした。だがそれこそが、嘘だ。
風鈴を通して、脳裏で過去が閃いた。あまりにたくさんの情報だった。面影すら曖昧になってしまった母が助けてくださいと誰かに叫んだ、その刹那。
意識が途切れた。
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