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縁のはじまり
過去を手繰る
しおりを挟む二
助けてくださいと仔どもは叫び、そのままふかぶかと頭を下げた。仔どもは驚いて自身を顧みた。身体はふたつに折られたまま動かず、落ち着いた風合いの着物を纏っているのが目に入った。
もしかしたら、母だろうかと仔どもは思った。先ほど聞いた声音に、それは似ていた。風鈴に遺された母の記憶を辿っているのだと、ようやく了解した。
促されて、顔を上げる。
対峙していた男は才津だった。今とわずかも年のころは変わっていない、彼は母に一瞥をくれ、ため息をつきつつ、彼女に言った。
『助けてくれも何も、ここは呉服屋なんだが』
そうだなぁと納得する仔どもとは裏腹に、いいえと母は反駁した。
「この江戸に、あなたを知らぬものはございません、才津殿。どうかどうか、わか娘を救う手立てを」
必死だった。何をそんなに必死なのだろう。諦めてしまえばいいのに。足掻いたって辛いだけじゃないか。
一瞬、そう思ったが仔どもはすぐに打ち消した。
諦めたくなるけれど、それでももしかしたらという気持ちが止められずに、どうしたって諦めきれないのだ。
仔どもが父親を想うのと同じで。だから仔どもは、彼に愛されたいと願うのだ。
肩を震わせて泣いている母を、それだから仔どもは莫迦にはできなかった。もう仔どものために懸命になってくれていることをこのひと時に仔どもはちゃんと分かってしまった。
けれど信じられない。この女は、自分を嫌っていたはずだ。
場面が変わる。母の記憶はどうもぶつ切りだ。
どうやら才津は助けてやることにしたらしい。彼が先導して歩くのは、仔どもが通ったこともある夜の江戸裏だった。すでに夕暮れ、ひとつふたつと提灯が飛んでいるのを、どうやら恐ろしいと思っているらしい。こんなものが恐ろしければ、これから現れるほかの妖モノなんて、母にとってはどれだけ恐ろしいんだろう。
歩いていくと、見慣れた庵が目についた。刹貴の家だった。風鈴の音が、聞こえる。
『刹貴、風鈴をひとつもらいたい』
扉を開けるやいなやそういう才津に、驚いた様子もなく刹貴が顔を上げる。
『才津殿にか』
感情の篭らない淡々とした言い回しにああ刹貴だと仔どもはうれしく思った。母は、その異様な風体に、やっぱり竦みあがっていたけれど。才津や彼の舗の従業員は、中身はともかく見目の上では人間だから。
才津はその質問に、心外だと眉を上げた。
『まさか、俺には必要ない。必要あるのはこのご婦人』
才津の手が表戸にかかっていた風鈴を外し、遠くへ放り投げる。悲鳴をあげながら飛んでいく、人間除けのそれ。
『才津殿、これでは何のための人避けか』
あくまで淡々と抗議する刹貴を軽くいなし、才津は扉に隠れている彼女を呼び寄せる。
引け腰で前に進み出て、でも彼女はまっすぐに刹貴を見た。
『風鈴が欲しいとか』
そう訊いてくる刹貴に頷く。
「この風鈴に、強いまじないの効果があると伺いました。ひとつ、頂きたいのです」
『欲しいのならば売ってやろうて』
刹貴は特段ためらいも見せなかった。『だがこの風鈴は想いを込めたものの命を削り、喰いつくすぞ』
知らされたことに、母ははっと息を呑む。けれどいくらも経たないうちに、彼女はふうわりと笑った。怯えなど拭い去られた、ただひたすらに純粋な笑顔。
「そんなこと、」
彼女は、自分が死んでいくことを、そんなこと、と称した。
「そんなこと、どうだっていいのですわ。わたくしが黒い髪で、黒い瞳で産んであげられていれば、あの子があれほどに苦しめられることはなかった。あの子がこれから幸せになれるのならわたくしの命ごとき、何度だって捧げて差し上げる」
止めてと、叫べるものなら仔どもは叫びたかった。
どうしてそんなことするの、母さまがそんなことしなくたっていい。この髪も瞳も、一片だって母さまが責任を負わなければならないところなんてない。
そうやって仔どもが懇願するのに、これはどこまでも過去のことで、仔どもの願いを聞き入れてはくれない。母の手は止めようと抵抗する仔どもを歯牙にもかけず、想詩と、硬い青銅に丁寧に文字を刻みこんだ。
線の細いひとだった。記憶の中で垣間見た母は。それでも精一杯虐げられる仔どもに何かしてくれようと、必死に彼女は風鈴に名を刻んだ。想詩、と。あの風鈴の内に彫られているのは、母が手ずから彫ってくれたものだった。もちろん、外側に彫られている文様は刹貴が刻んだものだったが。
風鈴をしっかりと腕に抱いて、母は来た道を戻った。バケモノがごった返す町の中、彼女はひどく怯えていた。泣いていた。怖くて、泣いていたのだろうか。
そして。
仔どもは幼い自分を見つけた。狭い部屋の中、ぼうっと虚空を見つめる今よりはるかに幼い自分。部屋に入ってきた母に異常なほど反応した。
怯えなくてもいいのだと、言ってやりたかった。この人はあなたを害さない、この人はあなたを想ってくれている、自らを犠牲にすることを厭わないほどこの人は、
あなたを、
「この風鈴は、あなたのためだけに、詩を奏でるのよ、想詩」
愛して、くれている。
それからいくつもの夢を見た。ずっとずっと握っていてといった母の言葉。自分の代わりに仔どもを頼むと、叔母に頼み込む様子。風鈴に命を奪われて亡くなる間際まで、心配してくれていた想い。
確かに傍にあったのに、ずっとずっと誤解していた。見ようともしなかった。
そうだだからなにもかも仔どもが。
ただ、気づかなかっただけに過ぎない。
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