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欲しいもの
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翌日の月曜日、授業を終えた美紗は、キャンパスの端にある部室棟に向かった。クラシックギターサークルの部室は、三階に二部屋ある。一つは練習用のスペースで、もう一つは楽譜や楽器を置く倉庫に使っていた。
練習用の部屋の前を通りかかった美紗は、かすかなギターの音を耳にした。
中をのぞく。史朗が一人でギターを抱いて座る背中が見えた。
史朗に、英利花がアドレスを知りたがっていると伝えなければならない。史朗はどんな反応をするだろう?
美紗は扉を開けた。史朗は、美紗に気付いて弦を弾いていた指を止めた。
「ごめん、邪魔しちゃって」
「いや」
美紗と史朗は、一言ずつ言葉を交わした。史朗の視線が譜面に戻った。ギターの音色が再び響き始める。もの寂しく、懐かしい風景を思わせる旋律は、確かスペインの作曲家の作品だ。
美紗は無言で史朗に歩み寄った。譜面をのぞき込む。音楽は進む。史朗を盗み見る。譜面と楽器を行ったり来たりする瞳が真剣だ。
最後の和音が静かに鳴って、演奏は締めくくられた。
「いい曲だね」
美紗の言葉に、史朗が顔を上げた。
「うん。俺、この曲好きなんだ」
美紗を見る史朗の瞳は、どこか熱っぽいものをはらんでいた。ミニコンサートのあとでも、冗談を言って笑っているときでも、見たことのない表情だった。
二人きりの部屋に、沈黙が降りた。美紗は戸惑った。この場面で、取るべき態度を、言うべき言葉を知らなかった。
打開を求める思考は、幼馴染に辿り着いた。
「英利花がね」
「え?」
「ほら昨日、私と一緒にいた子。学園祭でも一度、会っていると思うんだけど、覚えてない? あの子に史朗くんのアドレス教えてあげてもいいかな? 洋楽のこと、もっと聞きたいんだって」
史朗の瞳の熱が消えた。甘くて、恥じらいを含んだ何かが、消えた。
美紗は失敗を悟った。いまのは言ってはいけなかった。
「ごめん、無理なら全然いいから、気にしないで」
美紗は弁解したが、本当は気付いていた。二人の間が、もはや数秒前に戻ることはないのだと。
そして、おぼろげに理解した。二人の間には、恋の火が灯りかけていたのだと。史朗は美紗に、恋愛感情を抱いていたのだと。
美紗はいま、史朗に何をしただろう?
史朗のメールアドレスを他の女に教えようとした。他の女と史朗との仲を斡旋しようとした。美紗は史朗に、恋愛感情などないと信じ込ませてしまったのではないか。
「いや……別に、教えてもいいけど」
史朗が気のない返答をした。美紗は、恋愛感情などない自分を演じ続けるしかなかった。
「そっか、よかった、ありがとう。英利花、喜ぶと思う」
友達思いの笑顔を残して、美紗は外に出た。この場にいない英利花が、満面の笑みを浮かべている気がした。
あれが欲しかったのに。どうして英利花に譲ってしまったのだろう。
美紗は後悔していた。
あれというのが史朗なのか、もっと別の何かなのか、美紗にはわからない。とにかく、英利花は持っているのに美紗は持っていないものがある。その何かを手に入れて、英利花のような日常を生きてみたい。
漠然と夢見つつ、美紗は美紗の日々を送った。
そして五月が終わろうとしているころ、美紗は学校の帰りに、駅ビルのアパレルショップで、ふと足を止めた。
店頭のマネキンが、黄色いスカートを履いていた。英利花とのショッピングで見つけたものと同じ色だ。
あのときのように、可愛いスカート、とは思えなかった。けれども欲しいと思った。
美紗は、新たに出現したレモンイエローのスカートを購入した。あの日は英利花のものになってしまったものを、一月以上経って手に入れたのだった。
美紗の胸に、小さな企みが芽生えた。今日の買い物を、英利花に教えたらどうか。
「英利花、この前イエローのスカート買ってたよね? 私も同じ色のスカート買っちゃった」
送ったメールは一見、親友同士の日常会話だ。
英利花は何と返すだろう? お揃いだね、と嬉しそうに返信するだろうか? 内心では悔しく思うはずだ。私が英利花と同じくらい可愛い服を着るなんて、と悔しがるのだ。
美紗にはこんな思惑があった。英利花と同じような服を手に入れただけで、ヒロインの座に接近した気分になった。
メールが返ってきたのは帰宅してからだった。自室のベッドに座って、英利花からのメールを読んだ。
「あの色可愛いよね。でも合わせるのが難しくて、実は最近、履いてないんだ」
もはや英利花は、レモンイエローのスカートに執着を持っていなかった。企ては失敗した。
美紗は、手に入れたばかりの美紗のスカートを袋から引っ張り出すと、タグも取らずに衣装ケースの奥に突っ込んだ。
確かに美紗は、このスカートが欲しいと思った。だから購入した。それは物欲だったのだと美紗は信じている。しかし、美紗が本当に欲したのは経験だった。
レモンイエローのスカートを購入する、という決断と経験。それに依る所有。つまり、あの日の英利花の経験を、自身の経験として再現したかった。
数日後、美紗は偶然にも英利花と史朗を目撃した。
駅から家へ向かう一本道を足早に歩いているときだった。四、五人の通行人を隔てて、史朗と英利花が並んで歩いていた。
美紗は人々の間から、ちらちらと二人の様子をうかがった。
英利花が話しかける。史朗が手振りを交えて答える。英利花の肩先が一瞬、史朗に触れる。史朗が慌てて身体を離す。
美紗は車道を渡って、反対側の歩道に移動した。二人に気付かない振りをして、急いで追い抜いた。
英利花が着ていたのは、ベージュのワンピースだった。あの日は迷って買わなかったワンピースを、いつの間にやら買っていた。
美紗がイエローのスカートを手に入れて、英利花と並んだ気になったのが数日前のこと。今日、英利花がデートに選んだのは、自分で見つけたワンピースだった。
こういうとき、美紗は英利花に見せ付けられている気がする。英利花だけが持っている何かを、見せびらかされている気分になる。
英利花は史朗と付き合っているのだろうか。
今日、史朗の隣にいたのは私だったかもしれないのに。
史朗は、ギターが上手い。おしゃれもする。飾り気のない性格で、話しやすい。何かと気遣ってくれる。CDも貸してくれた。よく考えてみれば、いい男だ。英利花が好きになるのも、うなずける。
英利花と史朗は、もう恋人同士なのだろうか。まだ友達同士ならいいのに。これは恋愛感情なのだろうか。きっと、そうなのだろう。
美紗は史朗を、英利花の隣にいた男を、欲しいと思った。
練習用の部屋の前を通りかかった美紗は、かすかなギターの音を耳にした。
中をのぞく。史朗が一人でギターを抱いて座る背中が見えた。
史朗に、英利花がアドレスを知りたがっていると伝えなければならない。史朗はどんな反応をするだろう?
美紗は扉を開けた。史朗は、美紗に気付いて弦を弾いていた指を止めた。
「ごめん、邪魔しちゃって」
「いや」
美紗と史朗は、一言ずつ言葉を交わした。史朗の視線が譜面に戻った。ギターの音色が再び響き始める。もの寂しく、懐かしい風景を思わせる旋律は、確かスペインの作曲家の作品だ。
美紗は無言で史朗に歩み寄った。譜面をのぞき込む。音楽は進む。史朗を盗み見る。譜面と楽器を行ったり来たりする瞳が真剣だ。
最後の和音が静かに鳴って、演奏は締めくくられた。
「いい曲だね」
美紗の言葉に、史朗が顔を上げた。
「うん。俺、この曲好きなんだ」
美紗を見る史朗の瞳は、どこか熱っぽいものをはらんでいた。ミニコンサートのあとでも、冗談を言って笑っているときでも、見たことのない表情だった。
二人きりの部屋に、沈黙が降りた。美紗は戸惑った。この場面で、取るべき態度を、言うべき言葉を知らなかった。
打開を求める思考は、幼馴染に辿り着いた。
「英利花がね」
「え?」
「ほら昨日、私と一緒にいた子。学園祭でも一度、会っていると思うんだけど、覚えてない? あの子に史朗くんのアドレス教えてあげてもいいかな? 洋楽のこと、もっと聞きたいんだって」
史朗の瞳の熱が消えた。甘くて、恥じらいを含んだ何かが、消えた。
美紗は失敗を悟った。いまのは言ってはいけなかった。
「ごめん、無理なら全然いいから、気にしないで」
美紗は弁解したが、本当は気付いていた。二人の間が、もはや数秒前に戻ることはないのだと。
そして、おぼろげに理解した。二人の間には、恋の火が灯りかけていたのだと。史朗は美紗に、恋愛感情を抱いていたのだと。
美紗はいま、史朗に何をしただろう?
史朗のメールアドレスを他の女に教えようとした。他の女と史朗との仲を斡旋しようとした。美紗は史朗に、恋愛感情などないと信じ込ませてしまったのではないか。
「いや……別に、教えてもいいけど」
史朗が気のない返答をした。美紗は、恋愛感情などない自分を演じ続けるしかなかった。
「そっか、よかった、ありがとう。英利花、喜ぶと思う」
友達思いの笑顔を残して、美紗は外に出た。この場にいない英利花が、満面の笑みを浮かべている気がした。
あれが欲しかったのに。どうして英利花に譲ってしまったのだろう。
美紗は後悔していた。
あれというのが史朗なのか、もっと別の何かなのか、美紗にはわからない。とにかく、英利花は持っているのに美紗は持っていないものがある。その何かを手に入れて、英利花のような日常を生きてみたい。
漠然と夢見つつ、美紗は美紗の日々を送った。
そして五月が終わろうとしているころ、美紗は学校の帰りに、駅ビルのアパレルショップで、ふと足を止めた。
店頭のマネキンが、黄色いスカートを履いていた。英利花とのショッピングで見つけたものと同じ色だ。
あのときのように、可愛いスカート、とは思えなかった。けれども欲しいと思った。
美紗は、新たに出現したレモンイエローのスカートを購入した。あの日は英利花のものになってしまったものを、一月以上経って手に入れたのだった。
美紗の胸に、小さな企みが芽生えた。今日の買い物を、英利花に教えたらどうか。
「英利花、この前イエローのスカート買ってたよね? 私も同じ色のスカート買っちゃった」
送ったメールは一見、親友同士の日常会話だ。
英利花は何と返すだろう? お揃いだね、と嬉しそうに返信するだろうか? 内心では悔しく思うはずだ。私が英利花と同じくらい可愛い服を着るなんて、と悔しがるのだ。
美紗にはこんな思惑があった。英利花と同じような服を手に入れただけで、ヒロインの座に接近した気分になった。
メールが返ってきたのは帰宅してからだった。自室のベッドに座って、英利花からのメールを読んだ。
「あの色可愛いよね。でも合わせるのが難しくて、実は最近、履いてないんだ」
もはや英利花は、レモンイエローのスカートに執着を持っていなかった。企ては失敗した。
美紗は、手に入れたばかりの美紗のスカートを袋から引っ張り出すと、タグも取らずに衣装ケースの奥に突っ込んだ。
確かに美紗は、このスカートが欲しいと思った。だから購入した。それは物欲だったのだと美紗は信じている。しかし、美紗が本当に欲したのは経験だった。
レモンイエローのスカートを購入する、という決断と経験。それに依る所有。つまり、あの日の英利花の経験を、自身の経験として再現したかった。
数日後、美紗は偶然にも英利花と史朗を目撃した。
駅から家へ向かう一本道を足早に歩いているときだった。四、五人の通行人を隔てて、史朗と英利花が並んで歩いていた。
美紗は人々の間から、ちらちらと二人の様子をうかがった。
英利花が話しかける。史朗が手振りを交えて答える。英利花の肩先が一瞬、史朗に触れる。史朗が慌てて身体を離す。
美紗は車道を渡って、反対側の歩道に移動した。二人に気付かない振りをして、急いで追い抜いた。
英利花が着ていたのは、ベージュのワンピースだった。あの日は迷って買わなかったワンピースを、いつの間にやら買っていた。
美紗がイエローのスカートを手に入れて、英利花と並んだ気になったのが数日前のこと。今日、英利花がデートに選んだのは、自分で見つけたワンピースだった。
こういうとき、美紗は英利花に見せ付けられている気がする。英利花だけが持っている何かを、見せびらかされている気分になる。
英利花は史朗と付き合っているのだろうか。
今日、史朗の隣にいたのは私だったかもしれないのに。
史朗は、ギターが上手い。おしゃれもする。飾り気のない性格で、話しやすい。何かと気遣ってくれる。CDも貸してくれた。よく考えてみれば、いい男だ。英利花が好きになるのも、うなずける。
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