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王都編
大公閣下からの命令
しおりを挟むそれから三日後。
ナタリアは本館にあるローレンスの執務室に呼び出された。
入ってみると意外に人が多い。
執事のセロンはもちろんのこと、本館の侍女長のミリー・サリバン、東館侍女長のアルマ・フロスト。
そして執務机には主であるローレンスが座り、その後ろには家令のグラハムが意味ありげな視線を向けている。
家令の薄い唇がぴくぴくと引くついているのに気づいたナタリアは、これから始まるのはろくでもない話なのだと把握した。
「お待たせしました。それで、お話とは何でしょうか」
「ああ、その…な。実は乳母に予定していた者が父へ辞退を申し入れたらしい」
「…はい?」
幼くして出産するマリアのためにローレンスは万全の体制を敷いていたはずだ。
おそらくその計画は父であるウェズリー大公経由であろうとは予想していたが。
「乳母予定者が辞退したのですか?」
予定外の早期出産だったため、赤ん坊の世話として手配していた人々はすぐに来られないだろうからと、ホーン医師が善意で自分の部下たちを新生児の世話係として送り込んでくれたから、今のところは問題なく、彼らを迎え入れる準備も完了したと東館の侍女長のアルマが昨日報告してくれたばかりだ。
それが翌日には覆ったことになる。
「ああ。みな、それぞれ事情があってな…」
「そうですか」
実は、ホーン医師たちとこうなる可能性はあるのではと話をしていた。
一か月も早くに生まれた赤ん坊は、とてもとても小さい。
しかも、今は最も寒い時期だ。
もし亡くなってしまった場合、責任を取らされることを危惧した人々は何やかやと理由をつけて逃げ出したのだろう。
そして間の悪いことに、側仕えの侍女であるジャネットが出産した朝に解雇処分された。
人の口には戸が立てられない。
ウェズリー大公が最も可愛がっている息子にすり寄ることであわよくば恩恵にあずかろうと思って志願した人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ出したというわけだ。
「それで、どうなさるおつもりですか」
薄々答えは分かっているが、様式美として尋ねる。
「…君は以前、四歳になる妹がいると言ったな。それに、今回マリアの出産にも全く動じることなく立ち会った」
「ええ。そうですね」
「そもそも、君の子として、届けるつもりなのだ。君が、育ててしかるべき…だろう…と、父が」
顔色一つ変えずに相槌を打つナタリアに、しどろもどろになりながらローレンスは言い切った。
「私が産んだ子なのだから、私が育てるべきだと、ローレンス様もお思いで?」
「…あ、ああ。それでだな…」
気圧されたローレンスはグラハムを振り返る。
「失礼ながら申し上げます。ウェズリー大公閣下より指示書をお預かりしてまいりました。ご覧ください」
恭しく差し出された数枚の紙をナタリアは受け取った。
それはもちろん大公の行政官に書かせたもので、形式ばった文章の中をゆっくりとたどると、月足らずで生まれた子供が無事に育つ可能性は低いため、もとの出産予定日を過ぎるまでリチャードの子として認めず、宗教行事とお披露目はもちろん届け出もしないことを宣言し、この書類を目にした瞬間から『産みの母』であるナタリアが『責任をもって』育てるようにと記されてある。
署名はおそらく大公自身のもので、これは新たな命令書ということか。
ちらりと視線のみあげると、ローレンスの背後に下がったグラハムはざまあみろと勝ち誇った顔をしていた。
つまりは、あの夜の報復として大公の元へ報告にはせ参じ、ついでに色々と脚色した上にそそのかしたのだろう。
これから赤ん坊の命についてはナタリアの有責になるように。
グラハムは、赤ん坊が死ぬと『賭けた』。
主君の貴重な男子であるが、子供などいくらでも替えが利くと思っているくちか。
彼はかけがえのない命を、ナタリアを陥れるための道具にしたのだ。
決して許すものかと、ナタリアは固く心に誓った。
「大公閣下から指示となれば、私ごときに拒否権はありませんね。承知しました」
「では、最後の書類に署名を――」
グラハムが食らいつくのを内心鼻で笑いながら、ナタリアは手を挙げた。
「ただし、条件が一つあります」
「な……っ」
「グラハム、落ち着け。何が望みだ。金か、宝飾か」
どちらも俗な男たちで本当に嫌になる。
悪態をつきたくなるのをこらえ、つとめて平静に言葉をつづけた。
「大切なお子様をこれからお預かりするのです。名前を付けてくださいませ」
「―――っ。それは…」
昨日の時点でも名前は付けられていないと聞いていたが、それは単に迷っているからだと、好意的に考えていた自分はなんて甘かったのだろう。
「まさか、つけないまま洗礼式を迎えるおつもりですか。これからゆうに一か月以上ありますが」
「うっ……」
図星だった。
どうせ死ぬならつけるだけ無駄だと、父も息子も思っていたのだ。
「仮でも構いません。マリア様と話し合って、名前を付けてください。小さな身体で懸命に産んだ御方様に失礼というものです」
目の前の男に、父親の自覚がないのは今更だ。
だけど、マリアにこれ以上醜態を見せないでほしい。
「名前がない子を私は我が子として育てるわけにはいきません。私の条件はそれだけです」
ナタリアは書類の余白にその旨記載し、署名した。
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