闇色令嬢と白狼

犬飼春野

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第二章 公女去りて後のアシュフィールド国

鑑定

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 王より護衛騎士へ、そして王太后へ渡ったハンカチをゆっくりと手のひらの上に広げた。

「これか」

 この黒い生地のハンカチじたい、アレクサンドラには覚えがある。

 エステルには様々な教育を施し、山のように自習を課してきた。
 その一つがハンカチの刺繍。
 十日に一枚作り上げることを十年近く習慣づけ、年を経るごとに難易度を上げ、課題をこなせなければ容赦なく体罰を与えさせた。

 アレクサンドラにはお抱えの治癒師が数名存在する。
 どれほど激しい折檻を受け、大きな傷がついたとしても、治癒師に頼めば数分で何事もなかったかのように綺麗な身体になり、周囲に悟られることはなかった。
 治せないのは心の傷だけ。
 皮膚が裂け、時には骨にひびが入る痛みは記憶に刻まれる。
 それを知ったうえで、生みの親が亡くなったせいで躾がないっていない公女に淑女教育を与えるという名目のもと、己の子どもの頃の二倍三倍の苛烈な指導を行うよう指示した。
 いっそのこと、狂ってしまえばよいのにと思いつつ。
 しかし、エステルは狂わなかった。
 死にかけるほどの傷を負ったとしても。
 眠る時間を削られ、公爵令嬢にはふさわしくない粗末な食事を与え、時には風雨吹きすさぶ中で野宿させたとしても。
 腹立たしいことに、叩けば叩くほど強くなっていった。
 それはまるで、槌を振るって剣を鍛えるかのように。

「なぜエステルは、こんな色に爪を染めたのだ?」

 ラズライト色の塗料に眉を寄せる。

 ジュリアンの婚約者としてふさわしくない装いだ。
 アレクサンドラの疑問にデイヴが答えた。

「あの日、身に着ける予定のドレスと対になる首飾りが侍女の不注意で壊れたため、エステル様は侍女たちを全員ドレスルームから追い出し、独りでその爪と似た色のドレスに着替え、爪も自ら塗られていました」

「ほう……」

 ちらりと壇上から汚物が詰め込まれた箱を見やる。
 土にまみれた布の一部は、忌まわしい記憶のドレスと一致した。

「あれがまだ、後生大事に保管されていたとはな」

 唇を歪めると閉じた扇を軽くあげ、近衛騎士に合図を送る。

「ウォーレンたちをこれへ」

 騎士たちが近くの扉を開けてしばらくすると物々しい足音が複数聞こえてきた。

「お祖母上! なぜ私たちがこんな扱いを受けねばならないのですか!」

 謁見の間に姿を現すなり、第三王子ジュリアンは苛立った声を上げる。

 彼の腕に手を絡めにぴたりと寄り添うオリヴィア・ネルソン侯爵令嬢は、不安な面持ちで見る人の庇護欲を誘う。

 その後ろにはあきれ返った表情の第二王子ウォーレンが距離を置いて騎士たちと続いた。

「ジュリアン、そしてネルソン侯爵令嬢。お前たちに聞きたいことがある。そこに立ちなさい」

「お祖母上。オリヴィアは体調が悪いのです。こんな冷たい床に立たせたままなど……」

「そう。お前の子を宿していてると聞いたのだが、それは誠か?」

「はい。間違いありません。オリヴィアと愛を交わし、純潔をもらいました。証拠もあります」

 王子の婚約者になるにはいくつか条件があり、その一つが処女であること。
 しかしこれには抜け道があり、婚約前であっても王子によって純潔を散らされた場合は許される。

「そうか……。あいわかった」

 膝の上に広げていたハンカチを畳みながらアレクサンドラは鷹揚に頷いた。

「そのような事情により、私は取り急ぎオリヴィアと婚約したいのです。父上、お祖母上」

 その顔には愛する女と子を得た誇らしさに満ち、それと同時に末息子ならではの甘えが見え隠れする。

「だ、そうだ。構わぬか、ヘイヴァース」


「今更、私に拒否権などありましょうや、王太后様」

 かすれ気味のどこか独特で美しい声に、人々はざわめく。

 エステル・ディ・ヘイヴァース公爵令嬢の父親であるヘイヴァース公爵が堂々と現れた。

「お祖母上……」

「娘の一大事だ。呼ばぬはずはなかろう」

 ヘイヴァース公爵の後ろには黒衣をまとった高位の魔導師が付き従っている。
 王太后が魔導師を派遣し、転移魔法で呼び寄せたのは明らかだった。

 エイドリアン・ヘイヴァース公爵は美しい男だ。

 豪奢な金色の髪と宝玉のような碧の瞳、形の良い唇。
 そして鍛えられた体躯と経験に裏打ちされた威厳のある眼差しは、玉座に座る王がかすんでしまうほど印象深い。
 彼が謁見の間の最奥の扉の前から玉座の前を目指してゆっくりと歩くと、貴族たちは無意識のうちに道を開けた。

「それが、お前の娘だそうだ」

 木箱の前にたどり着いたヘイヴァース公爵に他人事のような声でアレクサンドラは告げる。

「……」

 視線を箱の中に向け男は口を引き結んだ。

「魔導師ガドル。公爵領との往復ご苦労であった。悪いが、今一つ働いてもらうぞ」

 黒衣の魔術師は胸に手を当て深く頭を下げる。

「はい。何なりとお申し付けください」

「ここに、王宮で使用していた公女の所持品がある。早速だが、ハンカチの中の爪、箱の中の残骸ともに本人の物なのか鑑定しておくれ」

「な……」

 さすがのジュリアンも思わず驚きの声を上げるが、じっとうつむくヘイヴァース公爵は動かぬままだ。
 そうしている間に騎士や侍従、そして魔導師ガドルたちは鑑定するための支度を行う。

「では、始めます」

 アレクサンドラから預かったものを木箱のそばに並べ、ガドルは両手を上げた。

 彼が小声で歌のようなものを唱えると小さな風がおこり、ぱあっと赤い光がそれらを包んだ。

「……結果が出ました。これらは全て、公女様であることに間違いないかと……」

 ガドルの言葉に、皆は我に返る。

 木箱の中の髪、ドレスの破片、ハンカチの中の爪、そしてヘアブラシや耳飾り。
 それらすべてが赤い糸のような光で繋がっていた。

「そうか……。残念なことだ」

 アレクサンドラの声が広間に虚しく響き渡る。


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