犬飼ハルノ

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征司、蒼、高遠

梅雨

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 雨が、降る。

 確かな重みの、雨が降る。



 梅雨の入り口の雨は、草木に確実な潤いを与えるために降っているのかのように激しすぎず、弱すぎず、たんたんとした雨音を立てる。

 打ち付けられる地面も木の枝先も、それを静かに受け止め、内に秘めていく。

 そんな雨の幕の間からほのかに甘くねっとりとした花の匂いが届く。

 目を閉じて、その匂いの主はどの花だったかと思いを巡らせていると、ゆっくりと土を踏みしめる音と、傘をはじく雨音が近付いてきた。



「ここでしたか」



 目をあげると、端正な顔が穏やかに見下ろしていた。


「・・・高遠」


 絶え間なく降る雨の中、彼は自分が頬杖をついて休んでいる東屋に入ることなく、一歩引いたまま佇んでいた。


「入っても?」


 尋ねられて、静かに肯く。

 一礼して、すっと東屋の中に入って傘を畳み、持参したもう一つのそれとともに端の方に立てかける所作は、まるで茶道の手前の一つかのように無駄が無く美しい。

 尋ねずとも、黙って入ってくればいいのに。

 いつも、そう、思う。

 しかし、彼はいつでも自分が呼ばない限りは空間を異にする。

 それが、高遠なのだ。



「失礼します」


 短く断って、ふわりと頭の上にタオルが掛けられた。

 そうされて、ああそういえば、自分は濡れていたんだと思い出す。

 静かに水滴をぬぐわれて、その優しい指先の感触に目を閉じた。


「・・・あの、釣書の中で・・・」

「はい」

「とりあえず国立大を出ている子に、絞ってくれ。それから先は、また考える」

「はい」


 いつでも、答えは静かだ。

 降り注ぐ雨のように静かで、そして、自分の中に何かを確実に染み込ませていく。


「高遠」

「はい」


 柔らかな幕を取り去って、見上げた。

 彼自身の前髪から一筋、ぽつん、と、水滴が落ちた。

 自分を探して、彼が長い間庭を歩き回ったことは明白だった。

 でも、彼は、何も言わない。


「それで、いいな?」

「・・・はい」


 これから、妻を娶り、子を成す。

 一族のために、必要なこと。

 自分は、そのために生まれ、生かされている。



 それでも。



「高遠・・・」


 腕を引くと、初めて瞳が揺らいだ。


「征司さま・・・」


 名を、呼んでくれた。



 唇に笑みが浮かぶのを、自分でも意識した。



「ここに、来てくれ」


 彼の胴に両腕を回す。

 ぎゅっと引き寄せると、僅かばかりの抵抗を感じた。


「征司様、それは・・・」


 初夏の暖かさに急激に枝を伸ばし始めた木々に隠されているとは言え、ここはただの東屋。

 いつ、誰に見られてもおかしくない。

 そう言いたげな瞳を、封じたくなる。


「だから、なに?」


 見られたとしても、構わなかった。


「高遠」


 力を込めると、ゆっくりと身をかがめてきてくれた。


「この雨では、何も、見えない・・・」


 囁くと、甘い香りが下りてくる。

 雨に濡れたスーツから、彼の匂いが増したように感じられた。



 漆黒の瞳。

 禁欲的な唇。

 それでも。



「・・・」


 小さく、高遠が囁きかえした。

 それは、言葉の形を成さない。

 でも、大切なもの。

 胸の奥に、火が、ともる。



 唇で、吐息で、心を交わす。

 けっして、声に出来ない言葉の代わりに、指を絡めた。



「たかとお・・・」



 唇が、静かに下りてくる。

 確かな力に抱きしめられて、胸が震えた。


「たかと・・・」


 溢れる心を封じられ、背中に回した指先に力を込めた。



 雨が降る。

 全てを覆い隠す、帳のような、雨が降る。
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