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第1章 ささやきの彼方に / Whisper Not

第7話 あなたは誰?

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陽が高く昇りはじめた頃、リゼは廃村の広場に立っていた。

白く滲む日差しの下、破れた幟がかすかに揺れて鳴る。その音は、まるで何かの囁きのようだった。

崩れた屋根や割れた窓枠、剥がれかけた看板。かつて人がいた気配だけが残された場所に、彼女はひとり、足音を響かせて歩いていた。

瓦礫の間に咲いた小さな花を避けるように、リゼはそっと足を運んだ。

木々に囲まれた廃村。地図上には名前も残っていない、朽ちた家屋と草に埋もれた道が、かつての営みをかすかに伝えてくる。

今日の依頼は、周辺の魔物の調査。
だがそれよりも、この場所に踏み込んだ瞬間から感じていた妙な違和感が、リゼの意識を強く引いていた。

「……誰もいない、はずなんだけどな」

独り言が、ひどく場違いに響いた。
一歩踏み出しかけたとき——

「うしろ——ッ!」

聞こえた気がした。
誰かの声。

確かに、自分に向かって叫ばれた気がした。反射的に体が動いた。振り返るより早く右に跳ねる。
直後、魔物の爪が彼女のいた空間を切り裂いた。

砂埃が舞い、リゼは地面に転がりながら体勢を立て直す。それは異様な姿の魔物。皮膚はただれ、片目が潰れている。

腐臭すら感じるような気配に、背筋が強張った。
両手には短剣。低く構え、じりじりと間合いを図る。

魔物は吠えながら距離を詰めるが、リゼの視線は冷静だった。呼吸を整え、跳びかかってきた瞬間に地を蹴る。

閃いた刃が、魔物の首筋を正確に捉えた。
呻く間もなく、それは崩れるように倒れ伏した。

しばらくその場に立ち尽くし、肩で息をしながら茂みに目を向ける。
何もいない。けれど、消えない感覚があった。

「いま、……誰か、呼んだ?」

誰に向けたわけでもない声が、静かに広場に溶けていく。まるで応答を待つように、リゼは背後を振り返った。

そこには何もいなかった。



日が変わっても、奇妙な感覚はまた現れた。

リゼは遺跡の奥に続く洞窟を、ゆっくりと進んでいた。

足元を照らすランタンの炎がかすかに揺れるたび、壁に伸びる影が脈打つように動いた。

空気は湿っていて重たく、足音がぴちゃりと水たまりを踏むたび、音が反響する。
それ以外は何も聞こえない。静かすぎるほどだった。

彼女は何度か後ろを振り返った。
人の気配はない。なのに、背中にまとわりつくような視線の感覚が拭えなかった。

天井の低い通路を身をかがめて進んでいたとき、ふと立ち止まる。

岩肌をつたう水滴が、肩口に落ちる。ぴちゃりという音に続いて、背後の影が微かに揺れた気がした。

——ひとつ、多い?

ランタンの明かりの範囲に収まるはずの影が、壁に二重に映っていたように見えた。

見間違いかもしれない。でも、皮膚の下を這うような冷たいざわめきは、それだけで十分に“本物”だった。

洞窟の出口が見えてきたとき、リゼは足を止め、そっと振り返った。暗がりに沈む通路を見つめながら、彼女はぽつりとつぶやいた。

「……誰か……見てる?」

耳に届いた自分の声に、ほんのわずかに目を見開く。言うつもりなどなかったのに、自然とこぼれていた。

けれど、その答えはどこからも返ってこなかった。



薬草採取の依頼を選んだ日、リゼは草原を歩いていた。

高く澄んだ空の下、陽光を反射する草原がどこまでも続いている。帽子が風に煽られ、手で押さえながら、彼女はゆっくりと丘を越えていく。

その足取りは、まるで誰かの気配を探しているようだった。

ふと立ち止まり、空を見上げる。
風が吹き抜け、草の波がざわめいた。

「……誰かの“視線”が……」

ぽつりと漏れたその声に、自分で驚いたように瞬きをする。
すぐに、もうひとつ言葉がこぼれた。

「違う、“声”かな」

自分の声が、自分に問いかけているようだった。
理由はわからない。でも、確かに何かが届いていた気がした。

それが“視線”なのか、“声”なのか——答えは曖昧なまま、でも、感覚はあった。

そして、ほんの少し呼吸を整えてから、リゼは草原の風に向かって言った。

「……ねぇ、あなた、誰?」

それは誰に届くでもない、問いだった。
けれど、胸の奥に残っていた違和感と温もりが、言葉となって滲み出た瞬間だった。



夜になり、宿へ戻ったリゼは、ひとり湯屋に向かった。

扉を開けると、湯気とともにほのかな香草の匂いが立ち上る。

衣服を脱ぎ、湯に身を沈めた瞬間、張り詰めていた肩の力がふっとほどけていくのがわかった。

湯の熱がじわじわと肌を包み、呼吸がゆっくりと深くなる。閉じた瞼の裏に浮かぶのは、今日の草原で交わした言葉だった。

——誰かの“視線”が。
——違う、“声”かな……
——ねぇ、あなた、誰?

言葉にしたときには、自分でも驚いていた。
けれど今は、その感覚が不思議なほど、身体に馴染んでいる。

あのとき——
廃村で反射的に跳ねた瞬間。
洞窟の奥で、無意識に漏らした言葉。
そして草原で、風に届いた問いかけ。

全部が、偶然だったとは思えなかった。

リゼは湯に背を預けるようにして、天井を仰いだ。誰もいない湯屋。静寂のなか、湯面がわずかに揺れている。

「気のせい、なんかじゃないよね」

ぽつりと呟いた声が、湯気に溶けて消えていく。
微かに笑ったような表情のまま、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。

その胸の奥には、名前のない温もりが、確かに息づいていた。
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