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第4章 仮初の舞踏会 / Masquerade

第40話 その向こうへ

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薄暗い天井がぼやけて視界に広がっていた。

ユウは瞼を重たく持ち上げ、焦点の定まらないまま、石造りの天井をただ見上げていた。

感覚がゆっくりと戻ってくる。

頬に触れるのは粗い布の感触、鼻をくすぐるのはランプの油の匂い。冷たいはずの床ではない──柔らかなベッドの上に、横たわっていた。

「ユウ!」

耳を打ったのは切迫した声だった。

振り向くと、泣きはらしたような目のリゼが身を屈め、必死に彼を抱き起こしていた。両腕で支えられ、上半身がゆっくりと起き上がる。

彼女の顔が近い。息遣いも、震える指先も、すべてが現実の重みを持って迫ってくる。

「大丈夫? わかる? ここがどこか……」

声は震えていたが、その目は逸らさなかった。必死にこちらを見て、何度も確かめるように問いかけてくる。

ユウの喉が乾き、ひどく重くなった。唇を動かしても声にならない。ようやく絞り出せたのは、掠れた一言だった。

「……本当に、来ちゃったんだ」

リゼの瞳が大きく揺れた。彼女は言葉を失ったように口を開きかけ、しかしすぐに唇を噛んで俯いた。心臓が早鐘のように打ち続ける。

頭の奥では「ありえない」と叫ぶ声が響くのに、手のひらに伝わる温もりがそれを否定する。

今ここにある現実感と、夢かもしれないという非現実感が、波のように押し寄せてはぶつかり合っていた。

「これは……夢じゃない」

ユウは小さく呟いた。

目の前で揺れるリゼの髪、泣きそうな声、震える体温。すべてが、触れれば壊れてしまいそうなほど脆く、けれど確かに存在していた。

胸の奥で、怖さと安堵が入り混じった。

画面越しの「向こう側」だったはずの彼女が、いまは目の前にいる。越えてはならない境界を、自分は越えてしまった。

その実感が、じわりと身体の芯まで沁み込んでいく。

ユウの胸に額を押し当て、リゼは嗚咽をこらえるように息を震わせた。ぽたり、と涙が落ちる。

「……もう、離さない」

その声は掠れていて、けれど揺るぎない強さを帯びていた。

ユウは目を見開いた。彼女の腕が自分をしっかりと抱き締めている。細いはずの腕が、鎖のように決してほどけない意志を刻み込んでいた。

「リゼ……でも、俺がここにいることで……」

言葉を探しながら、ユウは喉を詰まらせた。
自分がこの世界にいること。それは彼女に新しい重荷を背負わせることに他ならない。

リゼの周囲にさらに多くの危険を呼び寄せるのは明らかだった。

「俺が関わったせいで……君まで危険に晒される。そうなったら、俺は……」

自分を責める言葉が喉奥で崩れた。
ユウの視線は床に落ちる。けれど、リゼは顔を上げ、真っ直ぐに彼を射抜いた。

「違う」

きっぱりとしたその声に、ユウは息を止めた。

「一緒にいることこそが……私を守ることになるの」

涙を滲ませた瞳が、強く光っていた。

「あなたが一人で背負うから、壊れそうになるんだよ。だったら一緒に背負えばいい。怖くても、苦しくても……あなたと一緒にいるなら、私は何度だって立ち上がれる」

ユウの胸が締めつけられる。
リゼの震える手が頬に触れる。その温もりが、言葉以上に真実を告げていた。

「だから、言わないで。『離れた方がいい』なんて」

「…リゼ」
(君が言ったんじゃないか、なんて言えないな)

彼女の涙が頬に伝った。それは弱さではなかった。むしろ決意の証のように輝いていた。

ユウは何も返せなかった。ただその温もりを受け止めることしかできない。

けれど、胸の奥深くで確かにわかった。
──自分は、彼女に必要とされている。
それは恐怖をも超えて、心を震わせる力を持っていた。



宿の階段を上る足音がして、静かな空気が破られた。扉が開くと同時に、カヤが両手に荷物を抱えたまま顔を出した。

「ただいま……って、え?」

言葉が途中で止まった。
部屋の中、ベッドに腰かけるユウと、その肩を抱き寄せるようにして座るリゼ。

現実離れした光景に、カヤは目を瞬かせた。

「ちょ、ちょっと……この人、誰?」

呆然とした声が室内に響く。リゼは一瞬だけ言葉を失った。胸の奥で鼓動が跳ねる。そして迷いを振り払うように顔を上げた。

「……私の、大事な人」

口にした瞬間、頬が熱くなる。
ユウは息を呑み、耳まで真っ赤に染まった。

「お、おいリゼ……!」

慌てて否定しようとしたが、言葉はうまく続かない。

「だ、大事な……?」

カヤは両手の荷物を床に落としかけ、慌てて抱え直す。

「ちょっと、え?え? リゼ、そんな……」

混乱で顔を赤らめるカヤと、さらに混乱して赤面するユウ。部屋の空気は妙な方向にねじれていった。リゼは、少しだけ苦笑を浮かべた。

「……ごめん。でも、もう隠す意味なんてないから」

カヤは頭を抱えながら、部屋を見渡す。

「いやいやいや……連れ込むなら言ってよね。大事な人って事は、あれでしょ?違う世界の、ひと?この状況まずくない?」

「わかってる」リゼは真っ直ぐに答えた。

「でも、それでも一緒にいる」

短いやりとりに、揺るがない決意が滲んでいた。
カヤは深くため息をつき、結局それ以上何も言えなかった。

重苦しい空気の中に、かすかに笑いが混じる。



観測室のモニタが一斉に赤い光を弾けさせた。

《越境反応 検知》──警告の文字が重なり合い、表示が雪崩のように流れていく。

「境界が…なんだこれは!?」

「制御…アンコントローラブルです!」

「観測点が…潰された!リゼの座標が消失しました!」

報告が錯綜し、室内は騒然となった。

誰かが椅子を蹴倒し、別の誰かは書類を抱えたまま立ち尽くす。恐怖と焦燥が波のように押し寄せ、誰も収拾できない。

「これは帰還者の仕業じゃ……!」

「いや、クラヴァルだ!あの女が境界を破ったんだ!」

「違う、リゼからの反応が──!」

混乱と怒号が渦巻く中、真宮が静かに口を開いた。

「静かに」

凛とした声が空気を切り裂き、喧騒が一瞬で凍りつく。眼鏡の奥から鋭い視線を走らせながら、真宮はモニタを見据えた。

「問題はただ一つです」

彼女は淡々と語り始めた。

「境界そのものが“人為的な干渉”で拡張された。
観測者の影響でフレームが膨張することはあっても──越境はありえない。それが、いま起きた」

ざわめきが再び走る。
だが彼女の声は揺るがない。

「つまり、こちらと向こうの隔たりは“触れ合える段階”に入った。誰が意図したにせよ、それは国にとって最大の脅威です。」

「異世界に“感知できる術”が存在するという事実、そして境界を越える可能性が立証されてしまった──」

「この二点だけで、十分すぎる」

重苦しい沈黙が落ちた。オペレーターの一人が震える声で呟く。

「……そんな、じゃあ侵略も……」

「可能性は否定できません」

真宮は短く答えた。

「そして問題は、どこからの干渉かが断定できないこと。」

「クラヴァルかもしれない、リゼかもしれない、あるいは我々の知らぬ第三の因子かもしれない。」

「──特定できない状況こそが、最大の危機です」

その言葉に、室内の空気がさらに重く沈む。
真宮は一度だけ小さく息を吐き、背筋を伸ばした。

「……以上。至急、官邸への報告を準備します。これは研究の段階を超え、国家安全保障の問題です」

誰も反論しなかった。赤い警告がなお瞬き続ける。その光は、未来に何が待つのかを誰にも教えてはくれなかった。

全員が沈黙に飲まれる中、真宮だけがわずかに視線を逸らした。赤い光のちらつくモニタを見つめながら、唇が動く。

「……渡ったのは、あなたでしょう? 城野君。どうか無事でいて」



リゼの部屋は、深夜の静けさに包まれていた。

窓から差し込む月明かりが、薄いカーテンを透かして揺れ、二人を包み込む。ユウはまだ体の力を失ったまま、ベッドに横たわっていた。

リゼはその傍らに座り、彼の額に手を添えていた。越境の余波で痛む身体は、未だ震えを残していたが、確かな現実感がそこにはあった。

「……もう、画面越しじゃない」

ユウは掠れた声で呟いた。

天井を見上げるその瞳には、恐怖と、信じ難いほどの安堵が混ざっている。リゼはその言葉に静かに頷いた。

彼の髪を指先で撫で、震える声で言葉を紡ぐ。

「そう。あなたは……ここにいる」

もう幻ではなく、確かに隣にある命。抱きしめれば、体温が返ってくる。リゼは震えを押し殺しながらも、彼を抱き寄せた。

沈黙が落ちる。けれど、互いの心音だけが確かに響いていた。やがて、リゼが顔を上げた。

赤く濡れた瞳で、ユウを真っ直ぐに見つめる。

「ねえ、ユウ……そういえば、まだちゃんと言ってくれてないよね」

声は小さく、けれど拒めない切実さを帯びていた。

「言ってほしいの。あなたの言葉で。そうしたら……私も、ちゃんと答えるから」

ユウは息を呑んだ。何度も喉で詰まってきた言葉。けれど今なら。彼女がここにいて、手を伸ばせば触れられる距離にいるのなら。

「……リゼ」

名前を呼んだだけで胸が熱くなり、視界が滲む。
鼓動は破裂しそうで、呼吸は震える。けれどもう逃げられなかった。

「……好きだ」

短く、けれど震えもなく、確かな響きで告げた。
魂を削るように絞り出した言葉は、空気を震わせ、リゼの心を貫いた。

リゼの瞳から、堰を切ったように涙が零れ落ちた。泣き顔のまま笑おうとするその表情は、痛々しいほどに愛おしく、どんな宝石よりもまぶしかった。

「……私も。ユウが、好き」

互いの言葉が重なった瞬間、部屋の空気がやわらかく震えた。二人は互いを抱き寄せ、確かめ合うように寄り添った。

胸と胸が重なり合い、震える鼓動が同じリズムで打ち鳴らされる。

──もう離さない、と互いの身体が語っていた。
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