ステラチック・クロックワイズ

秋音なお

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4話③

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「やぁ、おかえり。話はできたかい?」
「……まぁ」
「そうかいそうかい」
 変人が当たり障りなく声をかけてくる。結局、俺はあの後真っ直ぐ司書室に向かった。どこかで道草を食う気にもなれなかった。そもそも他の場所に居場所なんてない。自分の教室だって苦しいんだ。肺呼吸をする人間なのに、水中での呼吸を強いられているようで苦しくてたまらない。もがかなくちゃいけない。過去が、現実が俺を縛りつける。いくつもの記憶が俺の深部に絡みついていた。そして心臓を締めつける。それを防衛本能と呼べば聞こえもいいが、ただの障害だ。生きたく思えど、生きにくくなるしがらみだ。
「……先輩?」
 下を向いたまま、顔を上げられなかった。顔を上げなくてはなにかあったことがばれてしまう。だが、上げようにも上げてしまえば正常ではないことが、ぐちゃぐちゃになっていることがばれてしまう。八方塞がりだ。
 俺は泣かない。これくらいのことでは泣かない。俺は泣くような人間ではなかった。黒くなにかの積もった表面張力の今は、こうするしかできないが、でも涙は出なかった。口を開けば何かが溢れてしまいそうで、止まらなくなってしまいそうだった。口を噤むことしかできず、俺はそのまま倒れるように自分の席に不器用に座った。
「……妹ちゃん」
「……ん」
「ちょっとコンビニで三人分の飲み物を買ってきてくれないかい? 僕はコーヒーで」
「いや、でも……」
「ここは僕がいるから」
「……わかった、遅くなるけど許してね」
「……助かるよ」
 それじゃ、とステラはリュックサックを背負うとそのまま、ぱたぱたと部屋を出た。廊下を駆ける音も次第に小さくなり、ついには聞こえなくなる。
 沈黙が訪れた。
「……これで二人だね」
「……あんた、コーヒー飲めなかっただろ」
「この際、そんな細かいことは気にしなくたっていいじゃないか」
 口から出る言葉はどれも変な言葉、突っかかるような余計な一言。言うつもりのなかった言葉。だけど、言わなくてはこの場が保てないとなぜか本気で思った。
「……少年、君はよく頑張っていると思うよ」
 頭に彼の手が乗る。俺が思っていたより大きく、節のある指をしていた。それがゆっくりと撫でてくる。
「君のそんな顔を見たのは、一年ぶり、かな」
「……どんな顔だよ」
「さぁ、どんな顔だろうね」
「焦らすなよ」
「ごめんごめん」
 彼はわざとか、いつもと同じ調子を崩さなかった。
 それがありがたくもあり、どこかでずるくも思えた。
「……君が、人のことを嫌いな顔、かな」
「……そうかもな」

 自分のために生きることをわからない。
 生き方がわからない。
 だって今まで、空っぽでも生きていけたんだから。
 それなりに身を任せて流れに逆らわなければ、それだけで生きていけた。
 でももう違う。選択をしなくてはならない。
 いっそ、誰かの言うとおりにでも生きていけたら楽だったのに。
 変なところで俺は自我を持ってしまった。
 そんなことすらできない。
 人間不信が邪魔をする。

「ここ、無理に出なくたっていいんだよ」
「……っ」
「図星、みたいだね」
「…………」
「君の人生は君のものだよ」
「………………わかってる」
「でも、君は手放そうとしている」
「……………………かもな」
「死なせないよ」
 いやに低い声で彼は言った。
「…………………………なんだよ、それ」
「本心だよ、僕の」
「俺が死んでなにか変わるんですか」
「変わることは、多分ないだろうね」
「じゃあ、どういう気持ちでそれ言ってんの」
「死なせたくないから、そう言っているんだよ」
「そんなことを聞いてるんじゃない」
 表面張力が決壊する。
 ほどけ、溢れ、醜いものが晒される。
「あんたに、一体なにがわかるんだよ」
 そうやってヘラヘラして、好きなように生きて、楽しそうに生きて、まさに勝ち組じゃないか。こうやって俺たちと関わっていたら給料ももらえて、それなりに社会的地位も手に入るんだろ。幸せだって、家族の温もりだって、あんたは俺の知らないものばかりを持っているくせに。満たされ、恵まれているくせに。
 そんなあんたの生きろなんて、綺麗事じゃないか。
 なにもない俺とは違う。なにもかもが違う。
 そんなあんたに、一体、俺のなにがわかるって言うんだ。
「……確かに。そうだよね。君だけじゃアンフェアだね。僕が悪かった。最初から、こうしておいたらよかったね」
 そう言うと彼は白衣を脱ぎ始める。そしてその下に着ていたカットシャツの袖のボタンを外すとそのまま袖を捲り、左腕の内側を見せてきた。
 言葉が、出なくなる。

「僕もね、実は君たちと同じ側の人間なんだ」

 そこにあったのは数えられないほどの赤茶色をした線状の傷跡。
 リストカットの跡、だった。
「……あんた」
「安心してくれ。もうずっと前のことさ。もうしていない」
 そう言うと彼は捲った袖を戻した。
「……妹にも、心配をかけてしまったからね」
 悔やむよう、彼は言う。

『……兄さんも、悪い人じゃないんですけどね』
『見た目も発言も周りと外れていて、困る時がないわけじゃないんですけど。……でも、あれが兄さんらしい個性なんだと思っています』

 ふと浮かんだのは、ステラの言葉だった。
「僕は、君のことをわかるなんて傲慢なことは言わないよ。僕がどんなに過去に苦しんでいたって、君と妹の苦しみが違うように、僕の苦しみも君とは違う。同じものだと扱うつもりはないよ。……でもね少年、苦しくて苦しくてたまらなくて、逃げ出したくなったことがあるのは僕も同じだよ」
 白衣まで羽織り、普段通りの姿に戻ると彼は、失礼するよ、とポケットから小箱を取り出す。煙草を模したシガレット菓子だった。それを一本取り出すと咥える。
「そこは本物じゃないんだな」
「あまり肺が強くなくてね。でも大人には喫煙所の付き合いって言うのもあるのさ。そういう時用に持ち歩いているんだよ。それにこいつはメンソール風味で気分を変えるのにも使えるからね」
 いや、副流煙の方が肺への負担強いけどいいのか、と思うが本人が納得しているのであればいいのだろう。あえて突っ込まないことにした。
「ここは元々、僕のために生まれた場所なんだ」
「……どういうこと、だ?」
「あれ、知らない? 僕はこの高校の卒業生、だよ」
「……初耳」
 彼はあまり自分のことを語らなかった。
「学生の頃は生徒会長なんかもしていてね。校則も色々と改革もしたんだ。制服のユニセックス化なんかも僕が発案でね。ほら、意外とやり手でしょ?」
「あんたはすごい、それはここにいて思うよ」
「おや、それは嬉しいね。いつもはあんなにシスコンだって言うのに」
「それとこれは別だろ。……でも、どうして、あんたはそんなに追い詰められるようになったんだ」
「……簡単な話だよ。目立つ人間って言うのは良くも悪くも人の目を引くんだ。そして僕の場合は、あまりよく思われなかった」
「生徒会長、だったのに、か」
「うん。僕は校則も変えたし、色々なところに無理を言って僕の意見を押しつけていた。あの時の僕は、学校をより良いものにしたい、その一心だった。でも、出しゃばりすぎたんだろうね。僕は昔からこんな見た目をしていたし、変わった人間だったからね。良く思わない人は一定数いたよ。特に、中年の大人からは反感を買ってね。学生のくせに何がわかるんだってよく言われたかな」
「……そんなの、おかしいだろ」
 どうして、わかりあえないのだろうか。
「あぁ、もちろん。こんなのはおかしいよ。でも、これが現実だ。学生は未成年で、教師は大人なんだよ。あくまで学生は、未成年は大人の管理下にある。そしてできること、負える責任も大きく違う。だから、これは仕方ない。僕はそれを、君と同じ年で知った」
 なんだか右手が疼くね、と彼は冗談のようなことを言うが、そんな軽く聞き流せるようなものではなかった。
「悔しくてたまらなかったよ。僕は間違っていない。未だに思うよ。僕が発案した時には意味がわからないと突っ撥ねられたものも、数年経って僕がいなくなった後にいつの間にか採用されていた。それはまるで、僕が発案者だったからダメだと言わんばかりだった。それくらい、僕は嫌われていてね」
「……そう、だったのか」
 俺はずっと、あんたのことは病みの一つも知らない人間だと錯覚していた。
「でも幸い、と言うのかな。僕のことを理解して受け止めてくれる先生がいた。それが、僕の前にこの学校の司書をしていた女の人だった。頑張りすぎてるから、いつでも辛い時はここに来てもいいって甘やかしてくれて。僕の弱音もいつだって聞いてくれて。あの人がいたから、僕は今生きてる。実はこの白衣もあの人がくれたものでね。僕が化学が得意だったから、もっと伸ばせるようにって誕生日にくれたんだ。今じゃ、司書という化学とは離れたところにいるけど、僕の拠り所になってくれているんだ。ほら、羽織るだけでリスカの痕も隠せるからね」
 ポキッとシガレット菓子を噛むと、彼はカリポリと咀嚼して飲み込む。
「あの人がいてくれたから、僕はこうして生きている。だから、僕もあの人がしてくれたように、誰かを救いたいと思ってこの学校の司書になったんだ。もちろん、なるのにも一悶着あったけれど結果的になることができた。そして、ここを引き継いだんだ。僕が過去に救われたように、誰かを救うために。……まぁ、僕はまだ未熟者だし、なにもできないんだけどね」
「……あんたらしくいたらいいんじゃないのか」
「へぇ、君らしくないことを言うね」
「思ったことを言っただけだが、訂正した方が良かったか?」
「まさか。……照れ隠しだよ」
 彼は笑うとシガレット菓子を二つ取り出した。
「君も食べるかい?」
「甘くないなら」
「じゃああげるね」
 俺はそれを受け取ると彼を真似て軽く咥える。
 言い方は悪いが、ハッカというか歯磨き粉のような清涼感。
「……なぁ」
「なんだい」
「……俺はまだここにいていいんだよな」
 梅垣の言葉が呪縛のように残っている。
「いていいさ」
「でも、いつかは」
「そうだね。いつかは、出ていかないといけない。僕だって、本音を言えば君に前を向いてほしい。僕がそうであったように、なにか自分なりの答えを出して進んでほしい。でも、その決断をするまでに急ぐ必要はないと思っている。君には君のペースがあるからね。僕はそれを、できるだけ尊重したいと思うよ」
「……信じていいんだな」
「僕と君の仲だよ。一年以上、一緒にいたじゃないか」
「……まぁな」
「梅垣先生には僕の方からも少し話してみるよ。あまり生徒を追い詰めないでくれないかって。あの人、僕がいた時からあんな感じだったからね。結構相性の合わない子も多かったんだよ」
「……そうだったのか」
「だからあまり、考えすぎなくていいんだよ」
「……ありがとな」
「お礼なんていいんだよ、少年。……あ、そういえば」
「……どうした」
「最近気になる妹ゲーが出たみたいなんだけど買って来てはくれないだろうか? 初回限定盤にはボイスドラマCDもつくらしくて、今度の週末でいいから朝一で並んでもらえたら助かるんだけど……」
「あんたまじで一回殴らせろ」
 いい話が全部台無しじゃないか、馬鹿。
 ……でも、それがあんたのいいところなんだろうな。
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