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5話④
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――一年前。
「どうしたんだい? 今にも死んでしまいそうな顔をして」
「…………別に」
「……あれ、図星だったかな。僕としてはジョークのつもりだったんだけどなぁ」
全てを投げ出したくなって屋上へと行くと、そこには先客がいた。白衣姿に桃色のロングヘアー。見た目は女性にしか見えないのに、本当は男性という事実に脳が一瞬バグりそうになる。うちの学校の司書だった。
「一般生徒は普通、屋上への立ち入り禁止だよ」
「……さっせん」
「まぁ、僕も別に君を叱りたいわけでもないからさ、すぐに帰ったら見逃すから……って、よく見ればいつも図書室に来てくれる烏屋くんじゃないか」
「……ども」
彼は俺が図書室の常連であることに気づくと近づいてくる。
「一体どうしたんだい? 君がこんな所に来るなんて意外だね。もっと真面目な子だと思っていたんだけどなぁ」
「……どうも」
「なにかあったのかい?」
俺と彼の間には、常連や図書委員という関係以上のなにかがあった。俺はよく本を読んでいたし、なにより彼の仕事の手伝いも率先して担っていたため、それなりの馴染みがあった。ただ、こうして図書室を介さないフリーの状態で話すのは初めてだった。
「……そういや、君が好きだったあの作家さん、自殺しちゃったね」
「……覚えてたんですか」
「そりゃそうだとも。君はいつだって彼の作品を手元に置いていたじゃないか。嫌でも目に入ったよ」
ここでその話題はどうなんだと思ったが、その話をすることがどこかで心地よかった。
「彼と同じことをするつもりかい」
「……さぁ」
楽西てと。それが、俺が何よりも心から好きだった作家であり、今日自殺が発覚した作家の名前だった。このペンネームは作家本人が自殺願望に苛まれていたところから自戒としてつけたものらしい。処女作のあとがきにて本人が言っていた。
彼の作品の主人公は全ての作品で捻くれていた。だが、それぞれの主人公にはそれぞれに心を閉ざした理由があり、その繊細な心情描写が大好きだった。不器用ながらも周囲の人間に触れ、温もりを知り、最終的には前を向いて生きていく。
そんなありきたりでどこか希望に満ちたストーリーに何度も救われた。自己投影をしていた。俺には決してできないことをしてのける主人公たちは憧れだった。幼子がヒーローに心焦がれるように、俺は彼の作品の主人公に憧れていた。彼の作品の主人公たちはどれも少しずつ俺の人生に似ていて、心を拭ってくれた。
でも、もうそんな主人公たちが新しく生まれることなどない。
彼の死因はマンションからの飛び降りだった。作業用の書斎には一枚のルーズリーフが置いてあり、そこは遺書として存在する文字で埋められていた。
『どんなに本を書いたって、小生は少しも幸せになれなかった』
遺書はそんな文から始まっていた。
彼は俺たちの希望であったが、何より彼も俺たちと同様に弱者であった。救われていた読者は忘れていたが、彼だって本当は、救いを求める側の人間であった。
『作品は報われるための自己満足であった。一番に救いたかったのは、誰でもない、小生であった。なのに、なにひとつ救うことができなかった』
二十代という若さで彼は早くも人生を終えてしまった。彼は彼なりの人生を全うしたんだと思うしかなかった。幸いと言っていいのかわからないが、彼の作品はどれも一冊で完結するものだった。続刊が永遠に出ないなって悲劇は起きないことに安堵する反面、それはどこかで彼がいつ死んだって許されるための保険のようにも思えた。
最早、この自死という終演も楽西てとという作家の演出のようにも感じた、
「僕も君がきっかけにはなるけれど、いくつか彼の作品を読んでいるんだ。独特だよね。無理に明るく生きなくてもいいって、指南書のように迷う人間を救ってくれる。世に溢れている、生きていたらなんとかなるって考え方を尊重しつつも、彼らしくアレンジしてて僕は好きだよ」
「……まぁ」
「だから、君のように悩む少年少女に人気だったんだろうね。或る意味、こういう万人受けしにくい作品の方が、良いことを言ったりしているものだ」
「……わからなくはない」
「だろ?」
そう言うと彼は俺の頭を撫でようとするが、手を伸ばすも身長差が十センチ以上あるために上手くいかない。それが悔しかったのか、俺の鳩尾にぽす、と軽いジョブを打つ。あまりにも理不尽。
「君は主人公にならないのかい」
「……あ?」
「君にはまだ、生きていてほしいんだよ」
彼は白衣のポケットから一冊の文庫本を取り出し、俺に見せてくる。
「……どうして、それ、を」
楽西てとの処女作『メタモルフォーゼ』だった。
俺が一番好きな作品。
「君がよく読んでいたのに僕はこの作品をまだ読んだことがなくてね。せっかくのタイミングだし、飛び降り自殺を選んだ作者らしく屋上で読むのも中々に乙なものだと思ってね」
「その考え方はよくわからないが、良い作品だよ、それは」
「あぁ、本当にそうだ。だがすまないね。僕はまだ完読していないんだ。是非、まだネタバレはしないでほしい」
「さすがにしないって。それは読書家にとってご法度だろ」
「ははは、たしかにそうだね」
彼の持つ文庫本には三分の一程のところに栞が挟んであった。
「だから、もう少し待っててくれないかい?」
「……なにを」
「死ぬのを、だよ」
彼は文庫本をポケットにしまうと、俺に背を向ける。
「この作品の主人公が、君に見えたんだ」
「……そうか」
否定の言葉は浮かばなかった。それはあながち間違いではなかった。俺が一番自己投影できる作品がその『メタモルフォーゼ』だった。作品の主人公が俺に似ているとは、俺も思っていた。俺の分身のような主人公が、周囲の温もりに支えられながらもがき、前を向く姿が美しい作品だった。俺にはできないから羨ましい。俺にはできないことをする分身の姿は、本当に。
「君はもがかないのかい?」
「……俺は十分もがきましたよ」
「嘘だね」
彼は言い切った。
「君はまだ主人公なんかじゃないよ」
「……なに言ってんだ」
「君には、今の君には、あの主人公のようにもがく姿を支えてくれるような居場所があったのかい?」
「……それは、なかった」
そんなものがないから、小説の世界になんか縋っているんだろう。
「僕の所に来ないか」
「……は?」
「もう一度、もがいてみないかい?」
それが、この日々の始まりだった。
☆ ☆ ☆ ☆
「……そんなことがあったんですね」
「もう、一年前なんだよな。そこから流れで司書室にいるようになって、そのまま今もいるって感じかな」
「……なるほど」
「今となってはあそこが俺の唯一の居場所でさ。来年は俺も受験生だしそろそろ現実を見ないといけないんだろうけど、でもやっぱりあそこがなくなったらって思うんだ」
「……先輩」
「俺は怖いよ。クラスメイトはなにも悪くない。なんなら、悪い人なんてものはきっといないんだ。俺が勝手に思っているだけで、そこには根拠がない。言ってしまえば俺は甘えているだけ。でもやっぱりあの雰囲気が、空気が怖いんだ。人間不信なのかもしれない。梅垣のような人間がいたらと思うと不安になる。俺は、俺は……」
こんな未完成な俺で、なにができるんだ。言葉の端や裏側、声のトーンを気にしながら団体戦の皮を被った孤独な個人戦をしていかなくてはならない。
だが、人が怖い。
俺は、これからどうしたらいいんだろうか。夢も希望もないのになにをすればいいんだ。期待されず、誉められることもなく、じゃあなんのために頑張ればいいんだ。でも、頑張らなくちゃいけなくて。その狭間にいなくちゃいけない。
「……頑張りすぎなんです。先輩のばか」
かっこつけないでください、とステラは俺の頭に手を伸ばす。
柔らかい温もりがふわりと降りてくる。
「先輩は頑張っています。……だからもうなにも言わないでください。先輩だって、誰かに甘えていいんです」
そのままその温もりは俺の頭を、垂れた頭の髪を掻き分けるように撫でる。くすぐったいような、懐かしいような、切望した感触だった。
懐かしい、のは、そうか、そうだったのか。
俺は思い出したように息が漏れる。
……これは、幼い頃まだ生きていた母に撫でられたあの感触だ。
まだ生きていた頃。
甘えん坊だった俺の頭を、いつも撫でてくれていたっけ。
記憶の底に隠れ、埃を被っていた感覚が目を覚ます。
あの時、まだ純粋だった頃の俺。
俺は、独りではなかった。
愛されていた。
愛されていないわけではなかった。
ずっと閉じこもっていたのは、俺だった。
「……そう、だったの、か」
まだ、許されるだろうか。
随分と遠回りをしてしまった。
勘違いをしたまま、生きてしまった。
まだ、俺は主人公になれるだろうか。
あの作品のような、主人公に。俺の心焦がれた主人公のように。
気づくのに一年も時間がかかってしまった。
それでもまだ、間に合うだろうか。
「……私たちがいますから」
「……でも」
「でも、じゃないです。私は先輩がいてくれて、毎日が楽しいんです。先輩のおかげ、なんです。それなのに、私だけがしてもらうばっかりなんてずるいじゃないですか。アンフェアだと思います」
「……すまん」
あの小説のシーンが浮かぶ。主人公がヒロインに弱みを晒し、受け止めてもらうシーン。そんなこと気にするなよって、笑い飛ばされるシーン。密かに羨ましかったシーン。それが今、俺が主人公の現実で起きている。
俺も主人公になれるのか。
俺という人生の主人公に。
「……先輩も泣くんですね」
「……うるせぇ」
「安心しました。先輩もちゃんと人間なんですね」
「あたりまえだろ」
「……はい。あたりまえ、です」
ぽとん、と雫が落ちた。それは、今まで俺を覆っていた殻のようだった。端から落ち、中にいた俺が目を開ける。外の世界が眩しい。そりゃ、涙が出たって仕方がない。
「……そう、だな」
俺は乱雑に瞼を拭うと、そのままガトーショコラを一切れ、口に入れる。甘かった。コーヒーを口に含むとそれは消え、苦みだけが口に残る。口の中で何かが足りなくなり、またガトーショコラを口にする。そして、またコーヒーを飲む。甘みと苦みが交互にすれ違う。それはまるで人生のようだった。
最後の一切れを口に入れ、コーヒーと共に流す。喉に痞えた今までの俺を飲み込まなくては。俺が俺を、受け入れるために。
「次は、私のことも頼ってください、ね」
「……あぁ。…………ありがと、な」
一年前の俺からは想像もつかない言葉が出た。
主人公なりたての俺の声は、まだやっぱり濡れていた。
「どうしたんだい? 今にも死んでしまいそうな顔をして」
「…………別に」
「……あれ、図星だったかな。僕としてはジョークのつもりだったんだけどなぁ」
全てを投げ出したくなって屋上へと行くと、そこには先客がいた。白衣姿に桃色のロングヘアー。見た目は女性にしか見えないのに、本当は男性という事実に脳が一瞬バグりそうになる。うちの学校の司書だった。
「一般生徒は普通、屋上への立ち入り禁止だよ」
「……さっせん」
「まぁ、僕も別に君を叱りたいわけでもないからさ、すぐに帰ったら見逃すから……って、よく見ればいつも図書室に来てくれる烏屋くんじゃないか」
「……ども」
彼は俺が図書室の常連であることに気づくと近づいてくる。
「一体どうしたんだい? 君がこんな所に来るなんて意外だね。もっと真面目な子だと思っていたんだけどなぁ」
「……どうも」
「なにかあったのかい?」
俺と彼の間には、常連や図書委員という関係以上のなにかがあった。俺はよく本を読んでいたし、なにより彼の仕事の手伝いも率先して担っていたため、それなりの馴染みがあった。ただ、こうして図書室を介さないフリーの状態で話すのは初めてだった。
「……そういや、君が好きだったあの作家さん、自殺しちゃったね」
「……覚えてたんですか」
「そりゃそうだとも。君はいつだって彼の作品を手元に置いていたじゃないか。嫌でも目に入ったよ」
ここでその話題はどうなんだと思ったが、その話をすることがどこかで心地よかった。
「彼と同じことをするつもりかい」
「……さぁ」
楽西てと。それが、俺が何よりも心から好きだった作家であり、今日自殺が発覚した作家の名前だった。このペンネームは作家本人が自殺願望に苛まれていたところから自戒としてつけたものらしい。処女作のあとがきにて本人が言っていた。
彼の作品の主人公は全ての作品で捻くれていた。だが、それぞれの主人公にはそれぞれに心を閉ざした理由があり、その繊細な心情描写が大好きだった。不器用ながらも周囲の人間に触れ、温もりを知り、最終的には前を向いて生きていく。
そんなありきたりでどこか希望に満ちたストーリーに何度も救われた。自己投影をしていた。俺には決してできないことをしてのける主人公たちは憧れだった。幼子がヒーローに心焦がれるように、俺は彼の作品の主人公に憧れていた。彼の作品の主人公たちはどれも少しずつ俺の人生に似ていて、心を拭ってくれた。
でも、もうそんな主人公たちが新しく生まれることなどない。
彼の死因はマンションからの飛び降りだった。作業用の書斎には一枚のルーズリーフが置いてあり、そこは遺書として存在する文字で埋められていた。
『どんなに本を書いたって、小生は少しも幸せになれなかった』
遺書はそんな文から始まっていた。
彼は俺たちの希望であったが、何より彼も俺たちと同様に弱者であった。救われていた読者は忘れていたが、彼だって本当は、救いを求める側の人間であった。
『作品は報われるための自己満足であった。一番に救いたかったのは、誰でもない、小生であった。なのに、なにひとつ救うことができなかった』
二十代という若さで彼は早くも人生を終えてしまった。彼は彼なりの人生を全うしたんだと思うしかなかった。幸いと言っていいのかわからないが、彼の作品はどれも一冊で完結するものだった。続刊が永遠に出ないなって悲劇は起きないことに安堵する反面、それはどこかで彼がいつ死んだって許されるための保険のようにも思えた。
最早、この自死という終演も楽西てとという作家の演出のようにも感じた、
「僕も君がきっかけにはなるけれど、いくつか彼の作品を読んでいるんだ。独特だよね。無理に明るく生きなくてもいいって、指南書のように迷う人間を救ってくれる。世に溢れている、生きていたらなんとかなるって考え方を尊重しつつも、彼らしくアレンジしてて僕は好きだよ」
「……まぁ」
「だから、君のように悩む少年少女に人気だったんだろうね。或る意味、こういう万人受けしにくい作品の方が、良いことを言ったりしているものだ」
「……わからなくはない」
「だろ?」
そう言うと彼は俺の頭を撫でようとするが、手を伸ばすも身長差が十センチ以上あるために上手くいかない。それが悔しかったのか、俺の鳩尾にぽす、と軽いジョブを打つ。あまりにも理不尽。
「君は主人公にならないのかい」
「……あ?」
「君にはまだ、生きていてほしいんだよ」
彼は白衣のポケットから一冊の文庫本を取り出し、俺に見せてくる。
「……どうして、それ、を」
楽西てとの処女作『メタモルフォーゼ』だった。
俺が一番好きな作品。
「君がよく読んでいたのに僕はこの作品をまだ読んだことがなくてね。せっかくのタイミングだし、飛び降り自殺を選んだ作者らしく屋上で読むのも中々に乙なものだと思ってね」
「その考え方はよくわからないが、良い作品だよ、それは」
「あぁ、本当にそうだ。だがすまないね。僕はまだ完読していないんだ。是非、まだネタバレはしないでほしい」
「さすがにしないって。それは読書家にとってご法度だろ」
「ははは、たしかにそうだね」
彼の持つ文庫本には三分の一程のところに栞が挟んであった。
「だから、もう少し待っててくれないかい?」
「……なにを」
「死ぬのを、だよ」
彼は文庫本をポケットにしまうと、俺に背を向ける。
「この作品の主人公が、君に見えたんだ」
「……そうか」
否定の言葉は浮かばなかった。それはあながち間違いではなかった。俺が一番自己投影できる作品がその『メタモルフォーゼ』だった。作品の主人公が俺に似ているとは、俺も思っていた。俺の分身のような主人公が、周囲の温もりに支えられながらもがき、前を向く姿が美しい作品だった。俺にはできないから羨ましい。俺にはできないことをする分身の姿は、本当に。
「君はもがかないのかい?」
「……俺は十分もがきましたよ」
「嘘だね」
彼は言い切った。
「君はまだ主人公なんかじゃないよ」
「……なに言ってんだ」
「君には、今の君には、あの主人公のようにもがく姿を支えてくれるような居場所があったのかい?」
「……それは、なかった」
そんなものがないから、小説の世界になんか縋っているんだろう。
「僕の所に来ないか」
「……は?」
「もう一度、もがいてみないかい?」
それが、この日々の始まりだった。
☆ ☆ ☆ ☆
「……そんなことがあったんですね」
「もう、一年前なんだよな。そこから流れで司書室にいるようになって、そのまま今もいるって感じかな」
「……なるほど」
「今となってはあそこが俺の唯一の居場所でさ。来年は俺も受験生だしそろそろ現実を見ないといけないんだろうけど、でもやっぱりあそこがなくなったらって思うんだ」
「……先輩」
「俺は怖いよ。クラスメイトはなにも悪くない。なんなら、悪い人なんてものはきっといないんだ。俺が勝手に思っているだけで、そこには根拠がない。言ってしまえば俺は甘えているだけ。でもやっぱりあの雰囲気が、空気が怖いんだ。人間不信なのかもしれない。梅垣のような人間がいたらと思うと不安になる。俺は、俺は……」
こんな未完成な俺で、なにができるんだ。言葉の端や裏側、声のトーンを気にしながら団体戦の皮を被った孤独な個人戦をしていかなくてはならない。
だが、人が怖い。
俺は、これからどうしたらいいんだろうか。夢も希望もないのになにをすればいいんだ。期待されず、誉められることもなく、じゃあなんのために頑張ればいいんだ。でも、頑張らなくちゃいけなくて。その狭間にいなくちゃいけない。
「……頑張りすぎなんです。先輩のばか」
かっこつけないでください、とステラは俺の頭に手を伸ばす。
柔らかい温もりがふわりと降りてくる。
「先輩は頑張っています。……だからもうなにも言わないでください。先輩だって、誰かに甘えていいんです」
そのままその温もりは俺の頭を、垂れた頭の髪を掻き分けるように撫でる。くすぐったいような、懐かしいような、切望した感触だった。
懐かしい、のは、そうか、そうだったのか。
俺は思い出したように息が漏れる。
……これは、幼い頃まだ生きていた母に撫でられたあの感触だ。
まだ生きていた頃。
甘えん坊だった俺の頭を、いつも撫でてくれていたっけ。
記憶の底に隠れ、埃を被っていた感覚が目を覚ます。
あの時、まだ純粋だった頃の俺。
俺は、独りではなかった。
愛されていた。
愛されていないわけではなかった。
ずっと閉じこもっていたのは、俺だった。
「……そう、だったの、か」
まだ、許されるだろうか。
随分と遠回りをしてしまった。
勘違いをしたまま、生きてしまった。
まだ、俺は主人公になれるだろうか。
あの作品のような、主人公に。俺の心焦がれた主人公のように。
気づくのに一年も時間がかかってしまった。
それでもまだ、間に合うだろうか。
「……私たちがいますから」
「……でも」
「でも、じゃないです。私は先輩がいてくれて、毎日が楽しいんです。先輩のおかげ、なんです。それなのに、私だけがしてもらうばっかりなんてずるいじゃないですか。アンフェアだと思います」
「……すまん」
あの小説のシーンが浮かぶ。主人公がヒロインに弱みを晒し、受け止めてもらうシーン。そんなこと気にするなよって、笑い飛ばされるシーン。密かに羨ましかったシーン。それが今、俺が主人公の現実で起きている。
俺も主人公になれるのか。
俺という人生の主人公に。
「……先輩も泣くんですね」
「……うるせぇ」
「安心しました。先輩もちゃんと人間なんですね」
「あたりまえだろ」
「……はい。あたりまえ、です」
ぽとん、と雫が落ちた。それは、今まで俺を覆っていた殻のようだった。端から落ち、中にいた俺が目を開ける。外の世界が眩しい。そりゃ、涙が出たって仕方がない。
「……そう、だな」
俺は乱雑に瞼を拭うと、そのままガトーショコラを一切れ、口に入れる。甘かった。コーヒーを口に含むとそれは消え、苦みだけが口に残る。口の中で何かが足りなくなり、またガトーショコラを口にする。そして、またコーヒーを飲む。甘みと苦みが交互にすれ違う。それはまるで人生のようだった。
最後の一切れを口に入れ、コーヒーと共に流す。喉に痞えた今までの俺を飲み込まなくては。俺が俺を、受け入れるために。
「次は、私のことも頼ってください、ね」
「……あぁ。…………ありがと、な」
一年前の俺からは想像もつかない言葉が出た。
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