ステラチック・クロックワイズ

秋音なお

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10話④

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「……おや、少年。これは一体どういうことかな?」
「に、兄さんっ、こ、これはっ……!」
 俺がまだステラのことを抱きしめていたというのに、あの変人はデリカシーもなく司書室へと入って来るなり口を開いた。普段の変人ならばここは気を利かせてしばらく留守にしてくれるというのに、今日はズカズカと二人の時間を遮ってくる。
「あんた、ほんとタイミングが悪いな」
「いやぁ、どういうことか僕の勘が働いてね。このままだと不純異性交遊に発展するかもしれないと思って」
「これがどう発展したらそうなるんだよ」
「ほんとですっ、に、兄さんのばかっ」
 俺らは変人の暴論へ反論するが抱き合ったままではどうも気恥ずかしいためアイコンタクトを送り、一度体を離す。体の表面には先程まで密着していたステラの温もりがほんのりと残っていた。不思議な感覚だった。
「え? だって少年。君だって一般的で健全な思春期男子高校生だろう? あのままムードのまま、ちゅーのひとつくらいしたいと思って当然じゃないのかい?」
「あんたはほんとに一回黙れ」
「あれ、違ったかい?」
「……ノーコメントな」
「へぇ? 否定しないってことは、イエスってことでいいんだね」
「……あんたほんとに性格悪いな」
「え? なんのことかなぁ」
「…………そ、そう、なんですか? 先輩…」
「い、いや、それは、な……」
 ……一体これはなんの拷問だ?
 何がどう話が転がれば、ついさっき結ばれた恋人とその兄の前で「彼女とキスをしたいと思ったか」という問いへの答えを迫られるというのだろう。兄の前ならばまだしも、本人の前というのはどうもはぐらかしづらい。本当に意地が悪い。
 後で一回殴る。
 ……答えなんて、したいに決まっているのに。
「……ステラの純情を弄びやがって。あんたそれでもステラの兄か?」
「人聞きの悪い言い方だなぁ、少年。僕はそんな悪者じゃないよ。それに、君がただ素直に答えたらいいだけじゃないか。僕はそう思うけどねぇ」
「それをステラ本人がいる場で聞いてるあんたがずるいって言ってんだ」
「……どう、なんですか」
 ほら見ろ。ステラも食い入るように俺の方を見てくるじゃないか。俺からの答えを待っている。上目遣いの瞳は儚いエメラルドにしか見えなくて、その表情がとてもずるく思えた。
 なんだよ、あんたたち兄妹はずるい仕草が得意な人種なのか?
「……思って悪いかよ」
 口から出たのは言い訳のような強がりの言葉だった。
「……これで満足か」
「あぁ、大満足だよ」
 ステラではなく、変人がニヤッと頬を上げる。
「俺はあんたに言ったつもりないんだが」
「あぁ、わかっているとも。あくまで僕は妹の気持ちを代弁しただけだよ」
「に、兄さんっ!?」
「あれれ、違ったかい?」
「……ち、違うわけがない、じゃないですか」
 思わぬ暴露に頬を真っ赤に染め上げるステラ。
 ステラには悪いが、かわいいと思ってしまった。
「ちなみにステラ、君はどう思ってるんだい? 少年とキスしたいのかい?」
「兄さん!?」
 変人の攻撃の標的は俺からステラへと変わったのか、早速追撃が行われている。
「さ、さっき答えたと思うんですけど……」
「あれはあくまで少年がキスしたいって言ったことへの気持ち、だろう?」
「そ、それじゃダメなんですか……?」
「それは少年に聞いてみないとねぇ。ほら、少年。君だってステラの口から直接聞きたいだろう?」
「……ま、まぁ、そうだな」
「せ、先輩までっ!?」
 先輩は味方なんじゃないですか!? と声を漏らすステラがかわいい。
 ……ごめんな、俺も健全な男子高校生だから気になるんだ。
 それに、ちゃんとステラの口からも聞きたいんだ。
 それに最初に俺に言わせたのはステラもだろ?
 まぁ、これでおあいこってことで。
「……どう、なんだよ」
「……言わせないでください。恥ずかしいです」
「ずるいだろ」
「……ずるくないです」
 いや、ずるいじゃん、なんて言葉が口を飛び出すほんの数刹那。
「……これが答えです」
 すっと背伸びをしたステラの顔が俺の顔に迫ってくる。
 そしてそれはどこまでも近づき、止まることを知らず、そして。

 俺の右頬へ控えめに唇が触れる。
 ステラからのキス、だった。

「……私の勝ち、ですね」
「……ばか」

 ステラは赤い頬にえくぼを作って見せる。
 やっぱり、ステラはずるい人だと思った。


 ☆ ☆ ☆ ☆


「なぁ、ひとつ話があるんだが。今、いいか」
「…………その話、良ければ後日でもいいだろうか。僕は今、妹が君にキスするところを見てしまって絶賛傷心中なんだ」
「だったらなんで煽ったんだよ……」
「いや、ほら、ねぇ。……まさか、本当にするなんて思わないじゃん」
「知らねぇよ」
 ステラが俺の頬にキスをしたのはもう数分前のことだというのに、変人は未だにがっくりと落胆している。その背後には暗くどんよりとした負のオーラすらも見えた。
「真面目な話をしたいんだが」
「……しかたないな」
 彼は背中に数十キロの重りを背負っているかのようにゆっくりフラフラと立ち上がると、机に右手を当て、自身の体を支えるように立つ。
 あんた、妹のキスくらいでそんなになってて大丈夫か?
 妹が結婚するってなった時、死んだりしないよな。
「……それで、なにかな。僕に話っていうのは。君がそんなふうに畏まるのは僕が知る限り、これが初めてだ。一体なにを僕に話してくれるんだい」
 彼はなにかを悟ったかのように目を細め、俺の顔から視線を逸らした。俺の方を向いてはいるが、俺の顔は見ていない。
 少し、感傷的な表情だった。

「ここを、出ようと思っている」

 それは宣言のよう自戒であった。
「もちろん、今すぐ明日からっていうわけじゃない。俺自身にまだ完成された覚悟がないし、タイミングも微妙で歯切れが悪い。来年度、四月からにはなるが、俺はここを出てクラスメイトと共に、一般的な高校生として頑張りたいと思っている」

 口に出してしまった。もう、取り消すことはできない。
 俺は自分の意志で、この籠の中を出ると決めた。
 きっと、いや、必ず、これから先も迷いもがく場面に直面する。
 だが、もうここに縋らないと決めた。
 俺が彼女に手を引かれたように、次は俺が先導していく番になりたい。
 そんな心情が生まれていた。

「……そっか。少年、君は一皮剥けることができたんだね」
「そんな大層なことはしてない。……精々、自己評価するとしても、薄皮が一枚捲れたくらいだろ」
「でも、君は成長したよ。僕は一年以上君と共に過ごしてきたけれど、君はあの頃に比べて大きく変わった。あの頃の君に見せてあげたいくらいだよ。僕は、そんな今の君の姿が嬉しいな」
 あまりにも彼がしみじみと言葉を並べるものだから、その言葉の響きがどうも心に沁みていく。彼がここまでストレートに感情を吐露するのはこれが初めてだった。
「……あんたには本当に感謝している」
「なにを言っているんだい。僕はなにもしていないよ。頑張ったのは君だ、僕じゃない」
「……素直じゃないな」
「あれ、そうかい?」
「謙遜しなくていいと思うけどな」
「……きっと君のが移ったんだよ」
「そーかいそーかい」
「……あぁ、そうだとも」
 君が変わろうと思ったから変われたんだよ、彼はそう言うと俺の頭へと手を伸ばす。が、頭へとたどり着く前に彼はその手を止め、空を切るようにその手を下ろした。
 表情にはなにか、躊躇いの色が見えた。
「……君はもう強くなったから撫でなくていいね。子ども扱いみたいだし」
「……強くはないと思う」
「でも、君はもうここがなくたってやっていける」
 大丈夫だよ、と言う彼の声はどうも小さかった。
「君は、君の本来あるべき姿を見つけることができた。素晴らしいじゃないか。……僕は今まで、君のことを見守ることしかできなかった。僕は君と同じ弱い人間だったからなにかしてあげられると思い込んでいたけど、でも僕がしてあげられたことなんて本当はなかったんだ。だから、もしかすると君はずっとここにいるかもしれないって思うこともあった。それも、君が選ぶのならそれで正解なんだと思っていた。でも、君はちゃんと前を向いてここを出るって決心をしてくれた。おめでとう、よく頑張ったね。君は僕の自慢の生徒だよ」
「……でも、あんたがいなかったら。あんたとあの時に出会ってなけりゃ、俺は死んでたと思う」
「素直に受け取ってくれよ、少年。君は頑張った、そして結果が現状だ。なぁ、それでいいじゃないか」
「……素直じゃないのは、あんたの方じゃないのか」
「だからさっきから言っているだろう。君が素直になった分、今度が僕が素直じゃなくなったのさ」
「……そうですかい」
 あんたのいつもの雄弁さはどこに行ったんだろうな。
 そう思ったが口には出さなかった。
 言葉にするのはこの場において余計だと思った。
「……兄さん、私も先輩と同意見です」
 ステラが、空白の時間を埋めるように言葉を続けた。
「私も、ここを出て頑張りたいと思います」
「……ステラ、君も変わったね。僕が知らない間に、君たちは前を向けていたんだね。ははは、僕は気づけていなかったよ」
「……私は、私一人の力じゃないんです。先輩がいてくれたから、ここがあったから、そして、兄さんがここに連れてきてくれたから、変わることができた。先輩がいてくれるなら、頑張れるかもしれない、そう思えるようになりました。……それくらい、素敵な人、なので」
「罪な男だね、少年は」
「……はい。本当に、です」
 ステラは揶揄うように小さく笑った。
「……僕は、君たちの意思を尊重するよ」
 彼は儚い顔をしていた。
「僕の役目はあくまで君たちが前を向いて、君たちが本当に納得した将来を選択するまでの付き添いだからね。君たちがそうするって決めたのであれば、あとは応援するだけさ。これから先、きっと君たちには各々突破すべき試練が待っている。でも大丈夫だよ。君たちなら乗り越えられる。……僕は、君たちのこれからを楽しみにしてるからね」
 そう言うと彼は俺たちに背を向け、白衣の両ポケットに両手をそれぞれ突っ込んだ。
「ちゃんと頑張ってくれよ、二人とも」
「……あぁ、わかってる」
「……はい、兄さん」
 良い返事だ、と彼は呟くと黙り込んでしまう。
 ……あんたも強がるタイプかよ。
 ……ったく、どうしてこうも変なところが似るんだろうな、人って。
「……今日はもう帰るからな」
 もう放課後だし、と言い訳のような理由をつける。
 ここにいたら、あんたはこれ以上強がるだろうからな。
「ほら、ステラ、準備しろ。一緒帰るぞ」
「え、でも……」
「……いいから」
「……わ、わかりました」
 アイコンタクトを送り、ステラにも部屋を出るように促す。
 たまには俺があんたを拭ったっていいだろ。
「泣くなよ、あんた」
「……なにを言っているんだい、少年。僕が泣くわけがないじゃないか」
「まぁ、それもそうか」
 あんた、寒がりだったもんな、なんて嘘を思いながらバッグを手に取る。
「じゃあ、先帰るから」
「……うん、気をつけて帰るんだよ」
「あぁ」
「チョコレートに彼女、素敵なものばかりを手に入れたからって浮かれないようにね。車に跳ねられても知らないよ」
「はいはい、気をつけますよ。子供じゃあるまいし」
「……あぁ、そうだね」
 相変わらず背を向けたままの彼に痺れを切らすように俺は部屋を出る。

「……じゃあな、白樫せんせ」

 一瞬、彼が俺の方を振り向いた気がしたが、知らないふりをして部屋を出る。
 これが、俺が彼のことをちゃんと「先生」と呼んだ、最初で最後の瞬間だった。
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