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揺らぐ花緑青
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その少女はいつも絵を描いていた。
リノリウムで作られた部屋に独り佇み、静かに毎日を繰り返している。
日が昇ると共に目を覚まし、月が天井に現れる頃に目を瞑る。
そんな特筆するまでもない日々を少女は送っていた。
少女にとって絵を描くというのは唯一の趣味だった。
部屋には中身の完全に満たされたスケッチブックが積まれている。
それらの数が少女の人生の単位になっていた。
一冊五十ページ程のスケッチブックが何十冊と床に散乱している。
表面が埃被ったもの。
色の少し褪せたもの。
まだ比較的新しいもの。
ページの端々に小さな傷の多いもの。
ひとつとして同じものはなく、それもまた、少女の人生の振り幅を表していた。
少女にとって、少女を遺す方法がこれしかなかったのである。
少女は今日もスケッチブックを開いた。
それは今までとこれからも変わることのないルーティン。
目の前には白紙のページが広がっている。
何十回、何百回。下手すると何千回と見た光景だ。
そこに少女はお気に入りの色鉛筆を用いて、作品という足跡を宿していく。
使う鉛筆は一色だけ。
色の名前は、花緑青と言った。
明度が低く、くすんだエメラルドと称するに相応しいその色は、少女の命に似ていた。
かつてはヨーロッパにて流行した顔料、花緑青。
成分に毒を含んであると知られて以降、使われることが無くなったと言われている。
そんな背景も愛していた少女は、この部屋で描いた絵の全てに花緑青を使っていた。
人物画、風景画、静物画、幾何学模様。
何を描くにしろ、少女は花緑青しか使わなかった。
今日は人物画を描こうと思い立った少女は、紙面を掠めるように優しく鉛筆を震わせる。大まかな形とバランスを確かめるように線を交わらせ、ゆっくりと命を創っていった。ゼロから物を作ると言うよりも、百の塊を削り、掘り出すように絵を描いていく。少女にとって創造や芸術というのは作り出す、生み出すというよりも見つけ出すという感覚に近かった。心臓に残っている名称のつかない何かを指先に集め、重ねるように線でなぞる。線が集まり形となり、形がいくつも寄りあって部位となり、またそれらが構成となって人と成っていく。その一部始終を自身の目で見届けるこの時間が、少女の思う何物にも変え難い幸せだった。
絵が完成した時、外はもう橙に染まり、遠くで一羽のカラスが鳴いていた。手元では何時ぞやの青年が控えめに笑っている。実物よりも美化してしまったが、少女はこの作品の出来を心から自画自賛していた。春風のような癖毛も、水面のような瞳も、落葉のような頬も、氷点下の声も、少女には全てが正解に見えた。
スケッチブックを閉じて深呼吸。
そして重い咳を四つ、五つ、六つ。
掌には鮮やかな赤が見えた気もするが、気づかないふりをしてそっと拭った。
どうせ消えることのない、この身に居座る悪魔の仕業だ。
今更目を合わせたってどうしようもないんだから。
少女はマグカップでぬるいアップルティーを飲んだ。
もう味もあまりわからない。
微かな酸味だけを舌が曖昧に感じ取った。
ただ、液体を飲み込むという動作を真似事のように繰り返す。
できなくなっていくことに怯えるように抗うしかなかった。
色白くか細い病弱な右手で右目を隠すが視界はほとんど減らない。
なんなら、自身の顔に触れているのかすらも曖昧な認識だ。
眼球に触れても痛覚が仕事をしない。
耐え難い現実だ。
少女の体は、人間だと言うのに感覚が人間から乖離していく。
それは視認できないほどの時速だとしても、確実に進んでいた。
それが少女にとって夜のように怖い存在だった。
両手で顔を覆い、視界を完全にブラックアウトさせる。
言うまでもなく、暗闇の中では何も認識することができない。
少女は俯き、しばらくの時間をそのままで過ごした。
花緑青の揺らぎだけが、少女の魂をなだめている。
リノリウムで作られた部屋に独り佇み、静かに毎日を繰り返している。
日が昇ると共に目を覚まし、月が天井に現れる頃に目を瞑る。
そんな特筆するまでもない日々を少女は送っていた。
少女にとって絵を描くというのは唯一の趣味だった。
部屋には中身の完全に満たされたスケッチブックが積まれている。
それらの数が少女の人生の単位になっていた。
一冊五十ページ程のスケッチブックが何十冊と床に散乱している。
表面が埃被ったもの。
色の少し褪せたもの。
まだ比較的新しいもの。
ページの端々に小さな傷の多いもの。
ひとつとして同じものはなく、それもまた、少女の人生の振り幅を表していた。
少女にとって、少女を遺す方法がこれしかなかったのである。
少女は今日もスケッチブックを開いた。
それは今までとこれからも変わることのないルーティン。
目の前には白紙のページが広がっている。
何十回、何百回。下手すると何千回と見た光景だ。
そこに少女はお気に入りの色鉛筆を用いて、作品という足跡を宿していく。
使う鉛筆は一色だけ。
色の名前は、花緑青と言った。
明度が低く、くすんだエメラルドと称するに相応しいその色は、少女の命に似ていた。
かつてはヨーロッパにて流行した顔料、花緑青。
成分に毒を含んであると知られて以降、使われることが無くなったと言われている。
そんな背景も愛していた少女は、この部屋で描いた絵の全てに花緑青を使っていた。
人物画、風景画、静物画、幾何学模様。
何を描くにしろ、少女は花緑青しか使わなかった。
今日は人物画を描こうと思い立った少女は、紙面を掠めるように優しく鉛筆を震わせる。大まかな形とバランスを確かめるように線を交わらせ、ゆっくりと命を創っていった。ゼロから物を作ると言うよりも、百の塊を削り、掘り出すように絵を描いていく。少女にとって創造や芸術というのは作り出す、生み出すというよりも見つけ出すという感覚に近かった。心臓に残っている名称のつかない何かを指先に集め、重ねるように線でなぞる。線が集まり形となり、形がいくつも寄りあって部位となり、またそれらが構成となって人と成っていく。その一部始終を自身の目で見届けるこの時間が、少女の思う何物にも変え難い幸せだった。
絵が完成した時、外はもう橙に染まり、遠くで一羽のカラスが鳴いていた。手元では何時ぞやの青年が控えめに笑っている。実物よりも美化してしまったが、少女はこの作品の出来を心から自画自賛していた。春風のような癖毛も、水面のような瞳も、落葉のような頬も、氷点下の声も、少女には全てが正解に見えた。
スケッチブックを閉じて深呼吸。
そして重い咳を四つ、五つ、六つ。
掌には鮮やかな赤が見えた気もするが、気づかないふりをしてそっと拭った。
どうせ消えることのない、この身に居座る悪魔の仕業だ。
今更目を合わせたってどうしようもないんだから。
少女はマグカップでぬるいアップルティーを飲んだ。
もう味もあまりわからない。
微かな酸味だけを舌が曖昧に感じ取った。
ただ、液体を飲み込むという動作を真似事のように繰り返す。
できなくなっていくことに怯えるように抗うしかなかった。
色白くか細い病弱な右手で右目を隠すが視界はほとんど減らない。
なんなら、自身の顔に触れているのかすらも曖昧な認識だ。
眼球に触れても痛覚が仕事をしない。
耐え難い現実だ。
少女の体は、人間だと言うのに感覚が人間から乖離していく。
それは視認できないほどの時速だとしても、確実に進んでいた。
それが少女にとって夜のように怖い存在だった。
両手で顔を覆い、視界を完全にブラックアウトさせる。
言うまでもなく、暗闇の中では何も認識することができない。
少女は俯き、しばらくの時間をそのままで過ごした。
花緑青の揺らぎだけが、少女の魂をなだめている。
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