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第二章 蕾ト穢レ
第9話 小手毬
しおりを挟む小手毬の花が、ぽこり、ぽこり、と蕾をつけている。
地面の上に寝そべって、ぼんやりと、その小手毬の木を見上げながら、私は春の空気のにおいをかいだ。
その白い小花が密集した花樹の枝に向けて、そっと右腕を持ち上げる。つるりと振袖がすべりおちて、手首が、肘が露わになる。
落ちた振袖の柄も小手毬だ。地色は黄、微かに水色の流水が入る。
美しい、私のために仕立てた、特別でただ一つだけの振袖だ。私の顔にも肌にも、本当によく映えた。
伊達襟も、好きなものを選ばせてもらった。
こんな召し物のまま、いまのまま死ねたらどれだけいいか。
そう思いながら選んだ一揃えだった。
――いや、既に生きてはいないのだけれども。
伯王が色々と選んでそろえてくれたので、品も一流。間違いのない、上等なものだ。こんな贅沢が許されていいものなのかしらと、すこしばかり不安は残るけれど、抗っても仕方がないことは、もう分かっている。伯王は、上質なもの以外は持っていないし、与えてもくれないのだ。
振袖の帯は自分では締められない。だからもちろん、締めてくれたのも伯王だ。背後でぐっ、ぐっ、と締められる時、身体が僅かに押されて揺さぶられる。そんな時、彼がどんな顔をしているのか、当然私は知らない。見てみたい気もするけれど、見ない方がいいのかも知れないとも思う。
着付けられるのは、帯だけではない。
一糸まとわぬところから、腰巻きをつけられるのも、目の前で跪かれて足袋を履かされるのも、全て伯王の手によって行われる。肌襦袢も、裾除けも、襦袢も――何もかもをだ。
跪いた、目元の涼しい男が、私の肌に触れながら私を見上げる。
もう、恥ずかしいなどという感傷は、どこかへいってしまった。
伯王は、白銀色の髪を短く刈っている。肌の色も白い。眉も、睫も白銀。睛の色だけが金色。冷たい。とても、冷たい印象の男だ。
その冷たさは、特に眼差しに集約されている気がする。
恐ろしくはない。ただただ向けられる眼差しが、冷静で遠いのだ。
それはやはり、彼が人ではないからだろう。人間に対する捉え方が我が事ではなく冷たい。私に対しても、別段打ち解けた態度をとる訳ではない。
それでも、それが不快にはならないのが不思議なところだった。
その外見は若い。三十を少し回ったかぐらいのものだろう。しかし間違いなく、人よりはるかに長く生きている。所作の端々からそれが汲み取れた。自然、彼に対すると、私も背筋が伸びる。
また、彼は色々なところに縁故があるようだった。だから私の纏うものは、各地の縁故から譲り受けたものなのだ。ただ豪奢なだけではない。選りすぐりのものを集めて、私の肌に纏わせている。全てを着け終わった時、伯王は――ようやっと満足そうに、少しだけ笑うのだ。
私は拭いきれぬ困惑を飲み込みながら、じっと自分の様子を見降ろす。
帯揚げは、山形の桜桃の精が自身の実で染めたものだし、帯締めは、伊賀の組紐。着物は京友禅。簪は加賀。
そんな贅沢なものを当たり前に与えられている。身に余る事に惑わぬはずもない。
生きていると思いも寄らない事がおきる。
――いや、既に生きてはいないのだけれども。
私は七十六で死んだ。老衰だ。
連れ合いは、その十三年前に他界していた。私はどうやら七十目前で痴呆になり、二、三年、息子の嫁に迷惑をかけた後、どうにもならなくなって特別介護老人ホームへ入居させてもらい、そこで息を引き取ったようだ。
亡くなる目前まで私が口にしていたのは、生前、姑から譲り受けた桐箪笥とその中身のことだったらしく、時折嫁が、昔の着物を持ってきて、私に触らせてくれていたようだ。
親の私が言うのもなんだが、息子の出来は今一だったが、本当に明るくて優しい、器量のいい嫁をもらってくれた。最後まで私に笑っていてくれた。私のせいで、やはり疲れた笑顔だったし、私が死んだ時も、自分の力がいたらなかったから、だから老人ホームに預けなければならなかったのだと、そんな風に、影で一人泣いていた。
息子は、夫に似て察しが悪いから、そんな嫁のことには気づいてもいないだろう。
嫁の胸の痛みは、舅と姑をそれぞれ見送った時、私が一人で泣いたのと、よく似ていた。
嫁が運んでくれた着物は、昔から嫁ぎ先に伝わっていたものもあれば、私が実家から持ち込んだものもあった。姑から継いだものは高級なものが多かったが、実家から持ち込んだのは使い古した薄い紬ばかり。それでも、どちらも大切だった。大切にされてきたものばかりだった。
優しい優しい嫁だった。
だから、死んだ後、自分が若い娘の姿になっていたことに驚きはしたけれど、その傍に伯王が立っていて、伯王が私の姿をそうしたことを聞かされて、最初に願ったのは、振袖を一揃え誂えてほしいということだった。
せめて夢の中で嫁にあって、礼が言いたかった。
伯王は私の願いに肯いてくれたし、その振袖で嫁の夢枕に立ち、直接礼を言うことができた。たくさん話ができた。彼女の抱える哀しみについても、人生についても。これが本当に最後の別れになると知っていたから、たくさんの話ができた。
だけれど、その願いを聞いてもらう代償として、伯王は私が彼の傍らにつくことを望んだ。
私はそれを聞き入れた。
生きていると思いも寄らない事がおきる。
――いや、既に生きてはいないのだけれども。
伯王の仕事は煩雑だったが、生きている時はずっと色々な仕事をしてきたので、それほどの苦労もなかった。
もちろん、傍につくということの意味が、ただ雑務の手伝いのためだけではないことは分かっていた。それ程おぼこいフリをする必要がある人間でもない。
なぜ私のようなつまらない者を伯王が選んだのかは分からないけれど、何かしら、理由はあったのだろうと思う。一度聞いてみたが答えなかったので、それ以降問うた事がない。
さすがに、はじめのうちは夫のことが多少脳裏を過ぎった。
もう十数年も前に死に別れていたし、それも現世でのことなのだから、もう気にしなくてもよいものなのかも知れなかった。が、存外引っかかるものではあったらしい。二夫に見えるのは――などという育ちでもなかったつもりだが、死別というものと、離縁というものとは全く違うものなのだなと死んでから知った。
だけれど、直に慣れた。
薄情なものだなとおかしくなったが、薄情だったのはあちらも同じなので、もういいでしょう。
――来世では関わりたくありません。
納棺の時に夫の胸に白菊を置きながら、内心そうつぶやいたことを思い出す。
その程度にしか結び合わなかった夫婦なのだろう。
どこにでも転がっている。そんな夫婦は。
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