雪々と戀々

珠邑ミト

文字の大きさ
上 下
19 / 40
第二章 蕾ト穢レ

第18話 『帽子屋』

しおりを挟む


 瞼が痙攣しているのがわかる。
 ぴくぴくとしたものを、幾度かしばたたきながら開くと、すでにとっぷりと日が暮れているのが分かる暗さが待ち受けていた。一度、ぎゅっと強く瞼を閉じてからはっきりと開く。すると、目の前に見知らぬ男の赤い髪があった。
 三十がらみの、若い男だ。その面相をにこりと微笑ませる。

「お目覚め、重畳ちょうじょうの至りでございます、小手毬こでまり姫様」
「――あなたは」

 私が横たわっていたのは、見慣れぬ小上がりだった。ぐさの香りがふわりと青々しい。新しくしたばかりなのだろうか。ゆっくりと身を起こしながら辺りを見回す。

 カウンターの前に並んだ五つの回転式スツール。濃い茶色の木材で統一された店内のあちらこちらには、世界各地から集められたらしい飾り物や置物が並んでいた。趣味は悪くなさそうだった。

「ここは……お店、なのかしら」
「はい。私が営む喫茶店で、『帽子屋ぼうしや』と言います。申し遅れました。畔柳くろやなぎ閼伽あかと申します」

 慇懃いんぎんこうべを垂れる男の顔をじっと見つめてから、私はひとつ大きく息を吸い込んだ。なぜだろうか。身体の感覚がおかしい。いや、おかしいというより、妙にしっくりと馴染んでいるのだ。
 不思議に思いつつ、ふと自らの両掌に目を落としてみれば、そこに映る己の手からは、長らく感じていた借り物めいていた印象がすっかりと払拭されていた。

 どうして。
 一体、ほんの少し眠っている間に、何があったのかしら。
 何か――されたのだろうか。

「お身体の具合に、違和はございませんか?」

 畔柳くろやなぎ氏の問いはまるで心の内を読んだかのようなタイミングでかけられたので、さすがの私もいぶかしむし、少しは警戒した。だけれど畔柳くろやなぎ氏の目の内に、何かしらの企みや悪い気持ちは感じ取れなかったので、いったん彼を信頼する事にした。

「あの、連れ合いは……私には連れ合いがいるのですが」
「はい。はくおうですね。お通しします。立てますか?」

 畔柳くろやなぎ氏の手を借りて小上がりを降りる。奥の戸の前に立てば、私達二人の影が並んで映じた。畔柳くろやなぎ氏の手が扉に掛けられ、すっ、と引かれる。

 
 さあっと、風が流れた。
 明らかに変じた気配、空気、そしてなんらかの強い意志。

 
 扉の先に続いていたのは、有り触れた和風住宅の縁側だった。右手には障子があり、左手は庭に面している。庭は心なしか、とても明るい。月の光が強いのか。そう言えばそろそろ満月の頃合いだ。
 先へ進んだ畔柳くろやなぎ氏が縁側の半ばで止まる。その手が右手側の障子にかかる。すっと少し、人の身一人分だけ開かれる。中に入る。その更に奥は襖でへだたれている。

 ああつまり、この先は奥座敷なのだ。

 音もなく襖へと近付く畔柳くろやなぎ氏の後に従う。襖もまた、難なくあっさりと開かれた。人の身一人分だけ。


 襖を開けた先には、一人の男が正座していた。


 笹の葉のように細い眼。狐のような表情。髪の色は青く、奇妙な異国の衣装をまとっている。なんというか、あちらの村で見ていた、人でないものたちに気配がよく似ていた。

松岡まつおか小手毬こでまり姫が目覚められた」

 畔柳氏の肩越しに、松岡、と呼ばれた男が微笑んだ。

「入られよ。小手毬姫」

 松岡某は、そっとこちらへ手を伸べた。私は畔柳氏の隣をすり抜けた。物も言わず、松岡某のかたわらに立ち尽くす。
 松岡某は、狐のように鋭い眼をした男でまるで人間らしからぬ気配をもっていたが、それでも、辛うじて人の世のものだった。

 青いその髪の背後には、飾り障子の丸窓がある。そこから淡く零れるような光が差し込んでいるけれど、それをいろどる意匠が何なのかは、私には判じ得なかった。

 私は立ったまま松岡某を見下ろす。何故だか、この松岡某に対しては不思議な印象が解けなかった。嫌悪ではないし、不快でもない。つかみどころのない飄々としたところはあるのだろうが――誰かに似ている気がして……。


 ああ。
 ああ、そうか、夫か。
 夫に気配が似ているのだ。


 いやでも、夫に感じているような不快はない。
 ――ああ、いや、違う。あの、どろり肺腑に絡み付くような不快がさらりと消えているのだ。
 夫。ああ、そんなものもいたか。
 それがどうしたというのか。
 あんなもの、あんないい加減でふわふわとしたものに、何故ああまでして固執していたのか。

 ふふ、と笑った。
 おかしかった。
 本当に、とてもおかしかった。

「小手毬姫。これを」

 松岡某が、そっと自らの脇に手を伸ばした。そこには木箱があった。彼は、それを丁寧な所作で自らの手前に動かす。ふと畔柳くろやなぎ氏は何をしているのかと振りかえれば、氏は襖の向こう側にいた。あたかも越境を禁じられているかのように。


 視線を再び松岡某へと戻した。


 松岡某の指先が、箱に掛けられていたうぐいす色の組紐を解く。す、と音を立てて蓋を外す。中には、山吹色の正絹に包まれた何かがあった。そこへ、つ、と松岡某の手が伸ばされる。
 中から取り出され、山吹色の中から現れたのは、小さな皿だった。それは、驚くほど美しい深手の白磁の皿で、小さく金の絵付けがされていた。松岡何某が差し出すのでよくよく見てみると、それはつくろった跡だった。

「これは…」
めいはくおう。かつて、貴女のために造られたものだ」

 思わず目を見張る。

「はくおう……私のため?」

 松岡某は「ああ」と首肯する。

「貴女をけるために。伯王は、あなたのためだけの器だったのだから」

 ふわりと微笑みながら語る松岡某の視線は、どこか遠い遠い過去を見つめているような、そんな気がした。

「かつて、小手毬の木の精だった貴女は、植わっていたとある旧家の衰退と共にその寿命を終えて、やがて現世うつしょで人となった。そして、かつて貴女を伯王に活けることを生業としていた、その旧家への出入りの花屋の生まれ変わったものと、添うことになった」
「それが、主人ですか」
「ええ。あなたの前世の。あなたはもうマダラの手によって娑婆しゃばけがれを落とし、小手毬に戻っている。だから、あなたの御主人と呼ぶのは……」

 ――伯王の手前気が引ける、と松岡は苦笑した。

「人にあらざる者が次の世で人になる時には、人でなかった時に人との間に生じたえにしを手繰って糸を結ばないとならない。あなたの場合は、その花屋しかなかった」

 松岡某は、姿勢を正し、伯王を包んでいた山吹色の正絹の布を畳みなおした。

「伯王は、何としても貴女を取り戻したかった。旧家の落ちぶれた時に、一度は割られて壊れたその身体を、なんとか直してくれと、人の姿を借りてまで出てきた。僕達の師匠のところへね」
「師匠」

 松岡某は、ふぅと微笑む。

はくおうは、永らく割れた姿のままにあった。飾るべき貴女の枝がないのだから、貴女がいなければ元に戻るべき理由がない。アレの執心は、全て貴女に帰結する。――だが、貴女が人として生まれ、人としての寿命を終えると知ったとき、時は来たれりと人の形をとって出た。そして、僕達の師匠が金で繋いでつくろった」

 ことり、と。松岡の手を離れ、はくおうは畳の上に置かれた。心なしか、うれしそうに見えた。




しおりを挟む

処理中です...