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第二章 蕾ト穢レ
第17話 蕾と穢れ
しおりを挟む門前にはすでに伯王が待機していた。
そして、藤堂の腕に抱えられたリンドウを目にするや否や、聡い白髪白肌金睛の主は状況を察する。抱えられた女の性情は沈着冷静かつ朴訥と承知している。それがその顔を男の肩に伏せたまま小刻みに震え「まだ? 蛇いるとこ越えた? 着いた?」と小声で繰り返しているとあらば、何かしら男がやらかしたものと分からいでか。当然、藤堂の表情も若干ながらバツが悪い。
この伏見の地偉智が呆れたように眉間に皺を寄せる様などそうそう目にできるものではない。
「隠の。お主……」
(――言うな。これは此方で後々片をつける)
「なに藤堂、着いたの? もう着いた?」
(ああ着いた着いた。もう何も見たくないものは見えんよ)
溜息交じりに微笑んで藤堂はリンドウの身を下ろしに掛かるが、それでもリンドウの警戒は解けない。薄眼をあけつつ辺りを確認しながら、足だけは地に着けるも、まだ彼女の両腕は男の首に絡んだままである。
(ほら、もう伏見のの屋敷だ。それともまだ儂に抱えていてほしいか?)
そこでようやく我に返ったリンドウが慌てて藤堂から身を離した。にやりと口の端を持ち上げて笑う藤堂は肩をすくめて(やれやれ)と頭を横にふるう。
(全く、この女ときたら。この儂にここまで運ばせておいて連れないものだ。どうせ運ぶのならば褥の上まで眼を瞑らせておけばよかった)
「馬鹿!」
リンドウの手が「ばしり」と藤堂の腕を叩く。しかし筋肉のみっしりとした男の太い腕になど、当たるだけこちらの手が痛み痺れるので、ただ損だ。事実痺れた手を数度振り払うようにしてから、リンドウは険しいままの表情を伯王に向けた。
「僕達は一体何時まで君達のイチャイチャに付き合わされないといけないんだ?」
ぼそりと呟く青髪の松岡にリンドウが「いちゃついてません!」と叫ぶも、受け取る松岡の表情は哀れげなる様を見せてわざとらしく天を仰ぐ。
「ああああ、全く酷い話だ。三十路を越えて独り身の侘しさを持て余す憐れな男共の前では全てが眼の毒だ。少しは遠慮をしてもらいたい」
間髪入れず、松岡の右肩に赤髪の畔柳の左手の甲が「ぱしり」と突っ込みを入れる。
「ちょっと待ってください冬青。そこを何故複数で言うのです」
「何故って、お前もだからだろう閼伽井。侘しい三十路の独り身男は」
「――大切な仕舞い仕事をしに来た時に、どうして貴方はそういう事をハッキリキッパリカテゴライズするんですか。私は仲間に背中から撃たれたような気分で今にも死にそうですよ」
やり取りの内容は切羽つまるものの、二人の表情はにやりと笑んでいる。つまりこれはリンドウと藤堂をおちょくっているのだ。
「お二人とも……!」
「うむ。戯れるのにも飽きたな。行くか」
さっくりと切り替えて屋敷の中へと進み行く青髪の男の背を恨みがまし気に見送りつつ、リンドウは藤堂と共にその後に続いた。伯王の傍らを過ぎりがてら、ついと視線を金睛に合わせる。
「――小手毬姫は」
リンドウの問いに、伯王は瞼を伏せ、白い短髪を横にふるった。
――果たして。
リンドウらが通されたのは、以前彼女自身も踏み入った事のある客間である。
客間の調度は至って簡素だった。一枚板の座卓と、赤ビロウドのソファセット。縁側は庭に面しており、開け放たれた掃き出し窓から庭を見下ろす。
小手毬の木が植わっている。
そして、その下には艶やかな振袖を纏う、七十ほどと思しき老女が横たわっている。しあわせそうに微笑みながら。
(まこと、洗うのが難しい姫だな)
左横から藤堂がつぶやくのに、リンドウも思わず首肯する。
本当に、この姫君の執着は、怒りは重かったのだ。
故に、人の殻を捨てた後も、その御魂に「夫への恨み」という色形が移ってしまったままなのだ。
藤堂の向こうで青髪の松岡が「ふぅ」と細く静かな、そして長い溜息を吐く。
「僕ではこれはどうする事もできなかった。姫自らは、本来の御魂に戻っていると知覚しているが、事実はそれに反したままだ」
リンドウの眉間も曇る。
姫自身からは、自らの外観が人形のように美しく若い娘、つまり本来の魂の姿になっていると見えている。しかし事実はそうではない。姫の魂は、老いたる初枝の殻を被ったままなのだ。
「……二十年も」
「ええ。二十年です」
背後にいた赤髪の畔柳が静かに呟きつつ一歩進み出、リンドウの右隣に立つ。これで四人は、その眼前に伯王の後ろ姿と庭に横たわる老女を横並びで見守る形となった。
リンドウが畔柳へと目を向ければ、彼は困ったように微笑んで見せた。
「本当に申し訳ありません、リンドウさん。手間をおかけしますが」
畔柳の言葉に、リンドウは頭を振る。
「いえ。これこそが斑の本懐ですので」
ぼそりと小声で呟いてから、リンドウは小さく吐息を漏らす。
今一度見る姫――初枝の殻を被った――は、静かに眠っている。
その身にまとう一式は、伯王が各地の縁故から譲り受けたものだ。それは取りも直さず、小手毬姫本人の知己だという事でもある。皆が皆、姫の目覚めと帰還を待っているのだ。
帯揚げは、山形の桜桃の精が自身の実で染めたもの。
帯締めは、伊賀の組紐。
簪《かんざし》は加賀。
そして、黄色地の小手毬の振袖はその真骨頂たる京友禅。いくら地面を擦ろうが汚れない。袖に流れる流水が、さらさらと音を立てている。鳥は飛び交い、また元の枝へと帰ってくる。花は散る。流水に巻かれて、どこか遠くへと流れて行く。この振袖の果てには、限りがない。
そう。これこそが小手毬姫の本質なのだ。
人の世の執着に呑まれ、穢れを御魂に移してしまった、かつての麗しき蕾の姫よ。
人の世で受けた不当な侮りに対する怒りの念は、それを捨てられねば捨てられぬ程に自らの不明を露呈させ、その未熟によって姫本人が慙愧の念に囚われる。
しかし、これはマダラとしては好機として働く。結果として姫の「怒りの殻」――穢れは分厚くなり、これが魂抜きを行う為の、借りの肉体として機能するのだ。
それにつけても伯王の愚かさよ。
もう誰にも姫を手渡したくないと、自らの屋敷に押し込んで捕らえて隠して。そんな事をするから、この老女初枝が死んだ時に誰もその異常に気付けなかったのだ。隠すから、魂の洗いにマダラが出向けず、姫は二十年もこの状態のままで停滞する事になった。
今ひとつ、リンドウは吐息を零すと、ようよう腹をくくる。
「――さて、では参ります。皆さま、各々の領分はお任せいたしました。過たず、姫の解穢と回帰を成し遂げられますよう」
ふっと伯王が振り返り、リンドウを見やる。その金睛は不安気だった。しかし、これもすでに腹は括れているのだろう。引き結んだ口元が、終わる歪んだ蜜月に対し哀切の念を送っている事は十二分に見て取れた。諦めは、ついているのだ。
「伯王。いきますよ」
「――頼むマダラの。すまない」
リンドウの額が、赤く、赤く、赤く、一際強烈に赤く染まる。
マダラのリンドウという女。額の赤光で魂寄せし、自由自在に肉から抜いては別の肉へと運び入れる。
姫を、本来の御魂へと戻すのだ。
ただし、今回は、普段とは少しだけ勝手が違う。
――姫にはすでに、御魂を移すべき本来の肉体が存在していないのだ。
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