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第三章 自由ナ蟻
第23話 杉内昌親
しおりを挟む「どうしたの?」
リンドウは怪訝そうに店主の顔をうかがった。
店に入った時は「おお」と笑みを見せたが、次の瞬間唐突に殺気を発したのである。けだし、めずらしい。善いのか悪いのか他に客がいなかったからよいようなものの、これほど唐突に殺気を放つような男が店主で、客商売が立ち行くものかと、一寸心配になった。
「――保?」
珍しくリンドウが店主の名を呼ぶと、保は「はあ」と唇の形を一瞬歪めてから「ああ、なんでもない」と表情を少し和らげた。
ただ、相変わらず外を気にしている。
「何かいた? まだ蛇女の現れる刻限じゃないはずでしょう」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、なに」
「悪い虫が湧いていた――んだろうさ」
意味が分からない。
肩をすくめながら、リンドウはいつもの定位置に腰を下ろした。二人掛け用のソファは変わらず柔らかく、身体の半分以上が沈みこむ。店主がテーブルの上にメニューを置こうとしたが、ふと手を止めた。
「ああ、今日はいらないんだったな」
「そう、ありがとう。後でまた頼むわ」
店主が手にしていたメニューの裏には、リンドウの墨書きが入っている。これをテーブルにおいた段階で、リンドウの姿は他の客から視えなくなる。これが簡易結界として働くのだ。
店内は、見慣れたコバルトブルーと卵色、それからサーモンピンクの三色で染められている。
「ごめんなさい、そんなに時間はかけないから」
「いいよ。ゆっくり使えよ」
ほどなくして、ちゃらん、と扉の鐘が鳴る。しばらく前に店主がこの鐘を着けた。「深い理由はない、気分だよ」と言っていたが、瞬きの回数が増えていたのでリンドウは嘘だと思っている。
鐘の音と共に扉から入ってきたのは、小柄な老人だった。キャメルのコート、北欧柄のニット帽。手には黒の革製トランク。
皺の深い顔は水気が少なく、微笑に眼は隠れるほどで、眉は白い。全く好好爺の態である。
「お久しぶりです、先生」
すっと立ち上がったリンドウは、綺麗に頭を下げた。長い髪を一本簪でまとめているから、いつものように髪が肩口からこぼれるようなことはない。代わりに、簪の端に飾られた、黒い細かな粒のキラキラとした石飾りがしゃらりとしなだれ落ちた。穴を穿ち、鎖に通して十粒ほど連ねてあるようだ。
リンドウはあの緑のコートをすでに脱ぎ、己の傍らに畳んでおいている。
老人を迎えた今の彼女は、薄桃色のニットに、モスグリーンの不織布で出来たロングの巻きスカートという出で立ちだ。更にスカートの上に巻き付けるようにして、シザーケースのような鞄がその身に着けられている。
これはリンドウの好みの身形、というのとは少し違うのを保は知っている。どちらかといえば、ヒトの波にうまく紛れられるよう、無難な形を選んだに過ぎないのだ。わざわざ気を砕いてそうしなければならない女の横顔を、店主は密かに見つめる。
これも呼吸をするように無難な形を選べるようになったなと、ふと保は思う。
リンドウの生まれと育ち、加えて関わって来た世界はヒトのそれとは重なりながらも少しズレている。幼い頃などはうまく立ち回れずによく泣いていた。年嵩の近い子どもは違和に容赦がない。自分達と似た姿形をしているのに「何かが自分達とは違う」と感じとってしまえば、途端に仲間の輪から外すのである。弱き者特有の危機察知能力に由来するものなのだろうが、真に残酷だ。
夕景の公園。砂場にうずくまって一人泣いているリンドウを何度見たか知れない。その背に向けて、名を呼んだ。振り返る小さな少女は、その大きな目に涙をいっぱい溜めている。頷きながら手を伸ばし「帰ろう」と微笑みかけた。リンドウが泣き声を上げながら保の腕に飛び込んできたのも、もう遠い日の事になる。
今やすっかり図太くなった。大抵の事は薄く笑って受け流し、飄々訥々と熟してゆく。立派に手管は練られたと言えよう。これを進歩と呼ぶなら、そうなのだろうし、妥協と言うのならば、そうとも言える。それだけだ。
「こんにちは、お久しぶりですね、リンドウさん」
好好爺は、帽子を外しながら、にこにこと頭を下げた。その頭髪も無論、白い。季節柄の寒さから、渇いた老人は一層寒々しく白く見える。
先生こと、杉内昌親は、うんうんと何かに頷きながら、とことことリンドウの方へ歩を進めた。身動きは軽快である。趣味は五十年来の山登りと言うだけの事はある。
「さ、早速見せていただきましょうか。――桑名の翁も気が長くはないからね」
「ええ、本当に、ご無理を申しまして」
リンドウと杉内は対面して腰を下ろした。
「こちらです」
と、リンドウは、シザーケースの中から、縮緬の巾着を取り出した。緋色の無地の縮緬である。
「どれどれ」
杉内は懐から取り出した眼鏡をかけて、縮緬を受け取ると、テーブルの上において紐を緩めた。その中に、ごつごつとした手を差し入れる。
取り出したのは、黒いものだった。
いや、ただ黒いのではない。さらさらと輝いている。
「おお、これは凄いね。とても強い。――玄い」
「はい。並みの物とは比べられません」
小さな小さな粒を連ねた、数珠のようなものだった。色は漆黒だが、研磨とカットが入っているのか、店内の些細な照明でもぎらりと光る。それが、たくさん。
長さはある。首から掛けられる程だ。輪になっている。その両端に、黒絹のタッセルが、あしらわれている。タッセルの元には透かし細工の銀が飾られている。
杉内はにこりと笑った。しかしその細められた目に宿る光は鋭い。
「佳い造作だね。そして、よくこれだけのブラックダイヤモンドをそろえられたものだ。それからこれは――親珠や四天珠を意識して配置してあるんだね」
言いながら、黒い石――ブラックダイヤモンド、の合間に点々と配置されている、赤い石を指した。
おや、と杉内が少し目を見張った。
「これは、ルビーかと思ったが、えらいものだな、金緑石か」
「はい、私も驚きました」
金緑石――アレキサンドライトである。
リンドウと杉内の濃密なやり取りに、刹那の決着がついたか。店主は注文を取るために、カウンターの外に出た。
リンドウの肩口で、また、簪の飾りがしゃらりと揺れた。
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