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第三章 自由ナ蟻
第25話 赤目の静音
しおりを挟む藤堂の歩みが止まった。
リンドウの後をつけて、それから、店先を通り過ぎざまに久我保のことをからかい、そのままだらりだらりと歩いて、目的の場所に入った。
船岡山である。
低い山だ。山というのもはばかられるほどの山だ。
しかし、それでもこの土地の気は凄烈だ。鬼の身には少々厳しい。低い山頂に立ち、傍の樹に手を触れる。しかしすぐに放した。硬質な気にあふれているのがそれだけでわかる。生半に手出しは不要と、さすがの藤堂でも思う。
我知らず襟を正した。背筋が伸びるのは、そこが神の領域の手前であるからだ。――いや、正に、神の領域の入口に他ならない。
他の神ならばいざ知らず、この神は天地の理に根差している。敵に回れば、地に根差す存在である藤堂などひとたまりもない。不遜の権化とリンドウには揶揄される藤堂でも、さすがにそのあたりはわきまえていた。
――と、藤堂の眼が、疑念で細められた。つと左に向く。
一人の女があった。
ざ、と藤堂は一歩後ずさった。間違いなく、その瞬間まで女はそこにいなかったのだ。
黒い髪は長く一筋の癖もなく、背中へぞろりと垂らされている。肌は白い。まなじりと唇には朱を刷いている。紬の着物は桜桃染めで、この季節であるのに単だ。博多の半幅は黒。帯締めは、赤い。白い素足に黒塗り千両、鼻緒は細めの赤別珍となまめかしい。総じて印象は――婀娜だ。
(何奴)
藤堂の、重い問いかけに、女は笑みを浮かべた。
(静音です)
女の即答は、明確であった。が故に、わからなくなった。
知らぬ女である。
知らぬ女に何者だと問うて、明白に名乗られても素性ははっきりとはしない。当たり前だ。藤堂は慣れぬ靄靄とした感情に苛立った。
女――静音は、ほほほと声を出して笑った。
(さすが、隠の藤堂。類稀なる地偉智よの。潔いご面相をなさっておるわ)
藤堂は憮然として女を睨んだ。
藤堂もまた、女に劣らぬほど白い、白磁のような肌の主だ。すらりとした長身の、恵まれた体躯でもある。これは人であった頃から変わらない。当時としては破格の高身長である。
短く刈り上げた黒髪。鋭い眼は悟りを開いた仏のように澄んでいるが、まことのような顔をして嘘を吐き、人の判断を迷わせる。美貌ではないが一度目にすれば容易に忘れられぬ顔立ちだ。
(お主が何者かは知らんが、先約がある。相手をしている暇はない)
(玄武様に呼ばれておいでだろう。承知しております)
ここで、藤堂はようやくその違和に気付いた。
いや、違和ではない。この女に違和を感じない己に気付いたのだ。
(貴様――何者か!)
瞬時に硫黄の匂いが立ち込める。藤堂の気が周囲に充満する。しかし、静音は涼しい顔をするばかりだ。つとその嫋やかな右手を帯にやる。扇が守り刀のように入れられている。それを抜いた。
(いきり立つな。ほんに騒々しい男よの。貴殿がざわめくと地脈が乱れるだろう。大いに迷惑だ)
ば、と音を立てて扇を開く。手首をぐるりと返し、一陣の風を起こした。
――豪!
藤堂は思わず目を塞いだ。手を目の前にやる。起こるはずもない突風が扇から藤堂に流れたのだ。
ややあって、眼を微かに開けると、静音はパチンと音をたてて扇を閉じた。
藤堂が沸かせた硫黄の気は、残滓もなくかき消えていた。
(藤堂殿、私は不動明王様の眷属である。玄武様の使い、蛇女の代わりに参った)
(不動明王の――)
今更ながらに、藤堂は女の目に気付いた。
まなじりの朱に気を取られて気付かなかった。静音の瞳は、炎のように赤い…それはまるで、リンドウの額の赤光のように煌めいて燃えていた。
(隣人ではあるが、相見えるのは初めてであるな。――赤目の静音だ)
藤堂は、そこでようやく警戒を解いた。
(貴女が赤目のか。――無礼をいたした。本来ならこちらから一度なりともそちらへ参るべきだったが、何故か参じること相成らず……)
(わかっておるよ、承知の上だ。そうしていたのは私たちだからな)
(そうしていた? 何故に)
静音は、扇を再び帯にさした。
(話せば長くなるが――ひとまずは、玄武様の元へ参るか)
(……ああ)
(地脈に乗れ。飛ぶぞ。あと、少々遠いので気を抜かずについてこられよ)
ずるり、と女の身体が地に沈んだ。同時に、引き摺られるように藤堂の身体も地に沈む。
(待て、どこに向かうのだ)
鼻まで地中にずるりと埋もれた状態で、静音は赤い眼を細めた。
(但馬だ)
(た――)
ずるり、と藤堂の身体もまた、地の中へ引きずり込まれ、視界は闇に呑まれた。
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