29 / 40
第三章 自由ナ蟻
第28話 雪氷と春蓬
しおりを挟む*
春の野辺には花が咲く。
白い蝶、黄色い蝶。
ふわふわひらひら、互いに纏わりついては高く低く飛び回る。
わずかばかり、それらの睦まじいのを目で追ってから、久芳は再び視線を地に落とした。さらり、肩口から射干玉の黒髪が零れ落ちる。灰桜色の小袖が、抜けるように白いその肌を更に白く見せていた。
さらさらちょろちょろと、小川のせせらぎが背後から耳に届く。冬の内は、山から流れくる雪氷交じりだった水も、打って変わったぬるみよう。日の光を受けて煌めく水面は、いつか寺で見た、宝物の水晶の数珠のようだった。
冬を越えた土手には、萌え出でたばかりの蓬が繁茂している。それを丁寧に毟り取り、笊に上げてゆく。今、家では養母がとっておきの糯米を蒸している。それに混ぜて草餅にするのだ。
「よいせ」、と、吐息交じりの独り言で、久芳はゆっくりとその身を起こした。動作の遅いのは性分だった。幼い頃に付けられた「亀の久芳」というあだ名を、しかし当人は別段嫌ってはいなかった。
一段高くなった視界は、何故だろう、それだけで世界を明るくきらきらしく見せてくれる。それはきっと、久芳がそれなりに穏やかな暮らしを送っているからだろう。一山越えたその向こうからはもう違う。一寸先は闇の戦場だ。
羽柴の手が伸び、国人と争い始めてから、もう幾年が過ぎたか。戦も長引けば風景になって解ける。最初は雷の轟かと怯《おび》えた銃の音にも慣れてしまった。
慣れるべきではなかろう。しかし、戦の世は厭じゃと言うても久芳に出来る事など何もない。厭だと口に出すのも憚らねば。久芳の住まう大家村は、羽柴の手と組む事を選んだのだから。
流れの中、身を潜めて、ゆっくりと歩く。
黙って、心の内など明かさずに、静かに類に害が及ばぬよう。
「さあて、帰りましょうかね」
のんびり独り言つ久芳は、それでも見るべきと見ざるべきは分けているつもりだった。視界を閉ざして危険となるものから目を逸らすは逃げで愚行だ。ままならぬ苦難に拘泥して、いつまでも考えから外せぬのもまた執心に近い。自ら不幸を手繰り寄せているとも言えよう。
そうはならぬよう。
中庸をゆっくりと歩くのだ。一歩ずつ。一歩ずつ。
山野には若い緑が萌え初める。
田に水が入るにはまだ少し遠い。
この年、大家村の春は、殊の外あたたかく、そして穏やかだった。
久芳は一色の家に生まれたが凋落を経て養い子に出たから、お姫さまなどと呼ばれる身分ではない。こうして日々の食事を賄うのも、畑仕事に繕い物も、全部自分の手でもやる。それでもやはり恵まれたほうなので、親しく村人らと関わるといっても限度がある。多少は身分差を想われて避けられたりもする。そういったあたり、女の生きる場は如実だったりする。それに、やはり他の村人達に比べれば労苦などないと言っていいに等しかった。手伝いはいくらでも得られた。手習いも許されたし、それはまあどこぞに嫁に出す時によりよい縁談がくるようにとの事だったのだろうが、やはり優遇ではあったのだ。
と、「おおいおおい」と声がする。
「おや」と久芳がきょろきょろ首を巡らせ辺りを見回せば、左斜め前方、畦道を駆けながら、こちらへ向けて手を振る男が見えた。
「おおい、久芳殿―」
思わぬ顔に、久芳はきょとんとした。
「栃尾様――」
栃尾加賀守祐善である。軽快に駆けつけてきた祐善が目の前に立ち止まったので、ああ本当に己に用があったのかと久芳は驚いた。
「そんなに慌てて。どうなさいましたの」
祐善は額に汗しながらも破顔している。何がそんなに嬉しいものかよくわからなかった。
「久芳殿。よき報せじゃ。よき話を持ってきたぞ」
「はあ、よき話ですか。どこぞにややでも生まれましたか? それとも戦が終わりましたか?」
「いやいや、そうではない。――いや。そうでもあるのか。戦を終わらせてくれる御仁との話だからな」
「はあ」
祐善は歯を見せて大きく笑った。
「御養父殿との話はつけてきたぞ。久芳殿。今から嫁に行ってくれ」
「―――――――はい?」
0
あなたにおすすめの小説
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
課長と私のほのぼの婚
藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。
舘林陽一35歳。
仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。
ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。
※他サイトにも投稿。
※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
27歳女子が婚活してみたけど何か質問ある?
藍沢咲良
恋愛
一色唯(Ishiki Yui )、最近ちょっと苛々しがちの27歳。
結婚適齢期だなんて言葉、誰が作った?彼氏がいなきゃ寂しい女確定なの?
もう、みんな、うるさい!
私は私。好きに生きさせてよね。
この世のしがらみというものは、20代後半女子であっても放っておいてはくれないものだ。
彼氏なんていなくても。結婚なんてしてなくても。楽しければいいじゃない。仕事が楽しくて趣味も充実してればそれで私の人生は満足だった。
私の人生に彩りをくれる、その人。
その人に、私はどうやら巡り合わないといけないらしい。
⭐︎素敵な表紙は仲良しの漫画家さんに描いて頂きました。著作権保護の為、無断転載はご遠慮ください。
⭐︎この作品はエブリスタでも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる