雪々と戀々

珠邑ミト

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第三章 自由ナ蟻

第36話 畔柳

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 ぎゅうと押し込めたような冷えが足元からのぼってくるような、重いはいぐもりの日だった。

 片側車線が三本ある太い国道を、多少留意しながらリンドウは横断する。
 自身が車を走らせるのは、その国道と交差する県道上だ。そのまま真っすぐ走れば駅に着けるのだが、右手に赤と黄色の目立つ看板が見えた時点で左折する。曲るやいなや交通量が、がくんと落ちた。

 一本奥まった路地に入るだけで、瞬く間に住宅街と呼べる区画になる。やや勾配のある地域で、なだらかな丘陵に色とりどりの屋根を乗せた戸建てが、しがみ付いているようにも見えた。

 やがて、見慣れた進入禁止の標識が左手に現れた。その向かいに狭い駐車場がある。ステアリングを右手に切ってその駐車場へ入る際、少々ではない段差に車体がうねった。
 駐車場入口の右手には、小さなプレハブ小屋のようなものが建てられている。こちら側へ向けて小さな窓があいており、その中から顔馴染みの老女が老眼鏡越しにじっとこちらを睨んでいた。
 霜の降ったパーマ頭の彼女は、気に入りの膝掛けをかけ、日がな一日そこでテレビを見て過ごしている。その足元では、小さな古い型の電気ストーブが、赤々とした光を発散しているのが見て取れた。
 窓の前で一旦停止すると、老女は目付き悪く睨み上げてきた。しかし、ひるむ事はない。互いに顔なじみであるし、彼女の機嫌が悪いわけではない事はリンドウも承知している。

「こんにちは。終日でお願いします」

 規定料金を前払いすると、老女はにやりと口許だけを釣り上げた。

「今日は余計なモンがいてないね」
「わかりますか」
「わかるさ。空気が臭くない」

 老女の視線は、やはりリンドウのかんざしに注がれている。
 苦笑しつつ会釈し、リンドウは車を発進させた。空きスペースに駐車し、降車してキーをかけた。首筋から忍び込む寒さに、ひとつぶるりと身をすくめる。プレハブ小屋へ視線を送ったが、老女は顔を上げる事なく、もう小型インチの民放に集中している。この切り替えの早さが好ましいとリンドウは薄く笑った。

 左右確認の上、みちを小走りで横切り、進入禁止表示の向こう側へ踏み込んだ。

 そこは、煉瓦造りの登り階段になっている。

 ゆっくりと階段を登る。これが中々の急勾配だ。目的の店は、この煉瓦階段坂を登り切った左手の中腹あたりにある。そこから店の玄関ドアをくぐるためには、更に急勾配な階段を登らなければならない。たどり着くだけで体力を消耗するという、なかなか大変な店だった。それでも、なんとかいつも通りに全ての階段を登りきり、見慣れた玄関扉の前に到達した。
 店の扉はひどく小さい。大抵の成人男性にとっては不都合極まりないだろう。藤堂であれば直角に近いほど背中を丸めねば潜れない。リンドウですらドアかまちで額を打ちかねないのだ。しかし、扉の脇からおおいかぶさっている雪柳と柊が、何やら店全体を隠れ家めいて見せることで、その扉の小ささも一種の演出のように思わせるのだった。
 リンドウの視線がちらとずれ、扉に貼りつけられた一枚のプレートを捕らえる。
 プレートには、『帽子屋ぼうしや』と猫脚のような字体で屋号が記されていた。その下には『春夏冬中あきないちゅう』と縦に記された板が一枚引っ掛かっている。ちなみに、店内の洗面所には『音入おといレ』というプレートが貼られているのをリンドウは知っていた。

 ドアを開けると、がらん、と牛の首を振ったような音が頭上から降ってきた。ふわり、過剰ではないぬくもりがリンドウの全身を包み込む。
 ほっと安堵の吐息が漏れ出た。
 カウンターの内側でグラスを拭いていた店主が顔を上げる。赤い髪をした三十がらみの男は、袖をまくった黒いシャツに黒いパンツ。それから白いギャルソンエプロンをまとっていて、やおらにこやかに声を掛けてきた。

「いらっしゃいませ、リンドウさん。――お待ちしてましたよ」
「こんにちは、畔柳くろやなぎさん」

 会釈をしながら店内に進み入る。見回せば来客は他にまだない。リンドウはカウンター席の一つに腰を下ろした。
 カウンター前に並ぶのは五つの回転式スツール。店内は変わらず濃い茶色の木材で統一されており、あちらこちらには、世界各地から集められたらしい飾り物や置物が並んでいた。

「キリマンジャロでよかったですよね」
「はい」

 畔柳くろやなぎ閼伽あかはやはりふわりと微笑むと、お冷を一杯リンドウの前においてからコーヒーの支度をすべくくるりと背を向けた。

「あの、松岡まつおかさんは?」
 リンドウの問いかけには背を向けたまま「師匠の迎えに」と手短に答えた。

 リンドウは、あらためてこの店主の横顔を盗み見る。
 産まれ落ちたその時から、そうだったのではないかと疑いそうになる、はんなりとした微笑。落ち着きすぎるほど落ち着いた物腰。細く長身な身体はすっきりと伸びて、身長に見合うだけの手脚の長さがある。彼の人柄に惹かれてこの店に訪れる常連客は多いが、反面この店主の素姓を知る者は皆無に近い。
 ややあって、畔柳がわずかに身を乗り出し「どうぞ」と、湯気を立てた白磁のカップを、リンドウの前におく。

久我くがさんほどの腕ではありませんが」

 と畔柳が言うので、リンドウは「御謙遜を」と眉間に皺を寄せて笑った。

「久我さんは、お元気ですか」
「ええまあ、たもつは……元気は、元気です。機嫌はずっと悪いですが」
藤堂とうどう地偉じいが絡みますからね、今回の件も」
「――ええ」

 リンドウの視線がカップの内側に落ちる。
 黒い液体は、ゆらゆらと一瞬ごとに熱を放出してゆく。冬の中にあってはその喪失も瞬く間、あっという間に冷めてしまう。白磁の内側に触れているわずかな部分だけが茶色く映っていた。
 リンドウはようよう指をカップに伸ばし、かたり、とこれを持ち上げた。中に満たされていた上質のキリマンジャロに一口つけて、「はあ」と溜め息をこぼす。それを聞きとめたのか、店主がちょっと眉をあげた。

「そんなにご機嫌斜めだったんですか? 久我さん」
「――しばらく留守にするって、お店閉めて出て行っちゃったんですよ」
「ええ?」

 さすがの事に、カップを拭きながらで話を聞いていた畔柳が手を止めた。

「どういうことですそれは」
「マダラの法則がズレた事で〈スポンサー〉が降りたと」
「――ああ」

 畔柳の顔が盛大に歪む。

「それはつまり、「伊勢いせ」が正式に席を立ったと?」
「はい」
「ああ……それは手痛い」

 まだらが産む者は、その伴侶によって変わる。
 神を産ませたくば人を当てる。
 鬼を産ませたくば神を当てる。
 人を産ませたくば鬼を当てる。
 しかしこの法則がリンドウでズレた。長年実質神か鬼かしか伴侶を選ばなかった斑が、母の代で人間を選んだのだ。それがリンドウの父である。しかし結果生まれたリンドウは神ではなくマダラの人だった。
 そう、母が「人」を選んだ事によって、根幹となる法則自体がズレる事となったのである。
 この結果、マダラに纏わる者らの間に激震が走った事は想像にかたくない。結果、マダラに産ませたい者がある各組織陣営がその援助対象を変える運びとなったのだ。

「ええと、リンドウさんの代でズレたんですよね」
「はい。そもそもマダラが人を選んだ事がなかったようなので」
「ええと、だからつまり」

 リンドウは心底厭そうな顔で首を横に振った。

「神を産ませたくば「鬼」を当てる。
 鬼を産ませたくば「人」を当てる。
 人を産ませたくば――「神」を当てる。
 なので、「鬼」を産ませたい陣営スポンサーの下へ行きました」

「それは、まさか」
「――「遠野とおの」です」

 リンドウの振り絞るような言葉にさしもの畔柳も「ああ」と自らのあごでさすった。

「……これは厄介なことに」
「はい」

 リンドウの視線が再びカップの内に落ちる。もう、ゆらゆらと昇る白い湯気はなかった。



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