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日和見日記

日本で二番目

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 登頂してから、初めての部活、俺は部室にて着替えを済ませていた。
 まだ次の登山の予定は聞いていないが、俺は登山を楽しみたいという気持ちを抱くようになった。そのために、しっかりと体力をつけ、次の山行に備えようと思ったのだ。
 一昨日山に登ったわけだが、昨日は筋肉痛で寝床から起き上がるのに難儀した。しかも目覚めたのは昼前である。 
 一つの山に登って消費されるカロリーは莫大なものだろう。毎日のトレーニングに加え、定期的な山行によって、三年後に高校を卒業するころには、屈強な深山太郎になっているかもしれない。

 コンコンと戸がたたかれ、綿貫が部室に入ってきた。
「深山さん、こんにちは。今日も走るみたいですね」
「ああ、お前も走るか?」
「そうですね、そうします。では着替えてきますね」
 ふと思うことがあったので、部室を出ていこうとする綿貫に声をかけた。 
「わざわざ、四階まで上がって来なくても、端から、更衣室に行けばよくないか?」
「どうしてですか?」
 いや、どうしてって、
「二度手間じゃないか」
「そんなに手間ではないですよ。それに私たち部活仲間なんですから、顔を合わせて挨拶ぐらいしないと、寂しいじゃないですか」
「いや全然」
「私が寂しいんです。深山さん言ったじゃないですか。私たちは気の置けない友達だって。友達に会いたいと思ったらおかしいですか」
 ほう、俺に会いたいとは、物好きなもんで。
「まあ、お前が手間じゃないっていうなら俺は構わないが。なんせ、ここは俺占有の部室ではないからな」
「はい。というか、いい考えが思いつきました」
「なんだ」
「ここで一緒に着替えればいいんです」
「はい?」
 今なんと?
「ですから、部室で一緒に着替えればいいんです。深山さん後ろ向いててください」
「いやいやいや、待て待て。お前何言ってるんだ。お前には羞恥心とか貞操観念ってもんがないのか」

 すると突然、綿貫がうふふふと笑い出す。
「冗談ですよ、深山さん。慌てすぎですよ。顔が真っ赤です」
 はあ、できればそういう冗談はやめてほしい。……いや待てよ。
「いいんじゃないかその考え」
「えっ、いや、ですから冗談ですって」
「この部屋で、一緒に着替えるんだろう。山岳部員が山岳部の部室で着替える。合理的じゃないか」
「あの、深山さん聞いてますか? 冗談だったんですけど。もしかして怒ってます?」

「いや、怒ってないって。別に着替えているところを見ようってんじゃない。部屋を間仕切りで二分して、分けて使おうって言っているんだ。入り口から見て手前を男子、奥を女子って風に。下の更衣室は混むだろう。だからそれでいいなら、そっちの方がいいかなと思ったんだが」
「ああ、なるほど。いい考えですね。賛成です。では早速飯沼先生に相談して、使える間仕切りがないか聞きに行きましょうか」
「いってらっしゃい」
 部室から出ようとしていた綿貫は、振り返り、
「深山さんも行くんですよ」
 とお前は何を言っとるんか、ぐらいの感じで言った。

 ……余計な提案したかもな。よく考えれば間仕切りって四階まで運ぶのすごく大変じゃないか。
 綿貫は俺の服の袖をつかみ部室から引っ張り出した。今となっては使える間仕切りがないことを祈るばかりである。

 結局、使用可能な間仕切りはあった。俺と更衣室で着替えを済ませた綿貫との二人で、一階の器具庫から四階の山岳部部室まで間仕切りを運ぶことになったのである。
 こんなときに限って、雄清は委員会でいないし、佐藤は筋肉痛が収まるまで休養ときている。俺とてまだ全快ではない。
 そうは言うものの、お嬢様に重たいものを持たせるわけにもいくまい。階段で間仕切りを持って運ぶとき、俺が下になった。間仕切りの形状を考えると力のモーメントのつりあいを考えるまでもなく、ほとんどの力が俺にかかることが分かる。綿貫のする働きは板が倒れないようにバランスをとる程度だ。全身筋肉痛にさいなまれる山行明けの体には酷な仕事であった。

 間仕切りを運び終え、俺は部室で喘いでいた。すでに汗だくだ。腕をあげることもままならない。
「深山さんお疲れさまでした。すみません私が変な冗談を言ったばかりに」
「いや、部屋を仕切る考えを出したのは俺だ。言い出しっぺが逃げるわけにもいくまい」
「そうですか。本当にありがとうございました。ほとんど深山さんが持ってたでしょう。私全然重たくなかったですもん」
「いやいや、箸より重たいもの持ったことないお前に、下をやらせるわけにはいかんだろう」
 綿貫は分かりやすくむくれる。
「もう、馬鹿にしてますよね?」
「ばれた?」
 そう言ったら、彼女はふっとやわらかく笑った。

「今日は部活やめにするよ。ちょっと疲れた」
 俺がそういったところ、
「そうですか。私も一人でやってもしょうがないのであがりますね」

 そんなわけで仕切った部室を早速使うことになった。間仕切りの向こうから人の息づかいと、布の擦れる音がするというのは妙なものだ。
 ……断じて変なことを考えているわけではない。いや、ほんとに。
 
 着替え終わった綿貫が、間仕切りの向こうから出てくる。
「帰りましょうか」
「ああ」

 校庭には、野球部、陸上部、サッカー部の活気に満ちた声が響き渡り、校舎のあちこちから、ブラスバンド部やら、アカペラ部やら軽音部やらの賑やかな演奏と歌声が聞こえてくる。これが、わが神宮かみのみや高校の日常的な風景である。
 尾張で一、二を争う、偏差値を誇りながらも、ほとんどの生徒は部活動に意欲的に取り組んでいる。
 校訓が質実剛健であると聞いたとき、なんとも理想主義な学校であろうか、と煙に巻かれた気持ちになったが、どうやら勉強ばかりしている御仁が優秀であるとも限らないらしい。
 データを取るのは難しそうだが、部活動に対する意欲の度合いと、学習の成績とでは一般に考えられているより正の相関が強いのではないだろうか。
 まあ、要するに優秀な人間は精力、好奇心が旺盛で何事もそつなくこなしてしまうという事だろう。

 ぼんやりとそんな事を考えていると、一、二歩離れた所を歩いていた綿貫が俺を呼び止めた。
「深山さん」
「なんだ」
「大変申し上げにくい事なのですが……」
「言ってみろ」

「兄に関する調査の事で手伝ってほしい事があるんです。もちろん深山さんにしてもらうのが、私の立てた仮説を客観的に検証してもらう、という当初の約束を忘れたわけではありません。こんなことを頼むのは約束を反故にするようなことだと重々承知しております。ただ、私一人の力では処理しがたい事柄なんです」
「とりあえず、どんなことか言ってみろ」
「ここじゃなんですから、この前の喫茶店にでも行きましょうか」
「長い話なのか?」
「いえ、すぐにすみます」
「だったらここで話してくれないか」
「……わかりました。実は父と母の他に、兄の周りで亡くなっている人がいたのです」
「誰だ?」
「兄と同い年で、同じ山岳部だった高橋雅英さんです」
「病気か?」
「いいえ、山岳事故です。北岳の登攀中とうはんちゅうに亡くなりました。これは部活ではなかったんですけど」
「その人がメモにかかれていた『亡者』である可能性はあるのか?」
「事故当時、雅英さんとアンザイレンしていたのが私の兄だったんです」

 言うべき言葉が見つからなかった。

 こいつの兄貴の綿貫隆一は、事故に責任を感じていたのだろうか。その可能性は十分にある。命綱で繋がっていた相棒だけが死に、自分は生き残った。精神的に病んでもおかしくない。
 昨年その思いが抑え難いものになり、家から飛び出してしまった。そんなことはあり得る話だ。

「私は高橋さんのお家に伺って話を聞きたいのですが、深山さんについてきてほしいんです」
 俺は数秒考えてから、
「話を聞いてどうする。高橋家は息子を死に追いやった山と、同伴者をよくは思っていないだろう。もしかしたら行っても怒鳴り付けられて、門前払いに遭うだけかもしれない」
 と言った。

 そうしたら綿貫は俺の目をじっと見た。
「では深山さんはこの問題を避けて真相にたどり着けると思いますか?」
「……無理だろうな」
「そうでしょう。他に方法はないんです。ですから、お願いです、私と一緒に高橋さんのお宅に行ってくれませんか」
「しかしなあ」

「お願いです。私だと見落としてしまう大事なことがあるかもしれません。深山さんがいれば解決に大きく近づけるかもしれません。力を貸してください。深山さんがいないと駄目なんです」

 ……はあ、俺はつくづくこいつに甘いな。
「分かった。今回だけだぞ」
「はい、ありがとうございます。明日の放課後でよろしいですか」
「ああ」
「よろしくお願いします。では」
「ん」
 綿貫は自転車にまたがり、帰途につく。

 気づけば入学当初の望みであった「平穏な高校生活」がすっかり立ち消えているのに気づき、俺は一人、苦笑いをした。

 翌日の放課後、綿貫と約束したように、俺たち二人は高橋家へと向かうべく、電車の駅へと向かっていた。
 今日はさすがに俺も綿貫も軽い調子ではいられない。なぜなら、高橋家の人々の古傷をほじくり返すようなことをしに行くのだから。
 いやに湿度の高い、尾張の初夏。梅雨前線が今どのあたりにいるかは分からないが、もうそろそろ梅雨入りしてもおかしくないだろう。沖縄あたりはすでに梅雨に入っているかもしれない。

 帰宅ラッシュ前の列車の中は閑散としている。なんとなくほのぼのとした雰囲気を感じる。
 俺がぼんやりとそのようなことを考えていると、
「今日は、高橋雅英さんのお母様がお話をしてくださるそうです」
「電話で連絡したのか?」
「ええ、突然押し掛けるわけにもいきませんから」
 それもそうか。

 俺たちは電車を降り、駅舎から出た。すると綿貫が地図を広げ(綿貫はスマートフォン端末など持ち合わせていない。俺もだが)、高橋家までの道順を模索する。赤い丸が付けられているところが目的地なのだろう。
 一分ほど地図を眺めてから、綿貫は会得したかのように歩き始める、……のだが、十メートルほど歩いてから停止してしまった。
 地図をくるくると回しては首をかしげている。お嬢様は地図を読むのが苦手と見た。一人で見知らぬ土地を歩いたことなどほとんどないのだろう。
 なるほど、俺を引き連れたがった理由がなんとなくわかったぞ。それから何十秒かうなっていたが、とうとう諦めたらしく、苦笑いしてこちらを見る。
「深山さん」
「わかったよ。貸してみろ」
 俺は綿貫から地図を受け取り、太陽の方角を確認して地図上の北を実際の北に合わせてから一分ほど眺め、歩き始めた。地図の読み取りなんてもんは方角さえあってれば大抵困らないもんさ。

 それから、十分ほど歩き高橋家の表札の前に立っていた。道路が直角に整備された街であったから、ほとんど迷うことがなかった。綿貫に地図を渡す。
「深山さん、すごいですね。このあたりに来たのは初めてでしょう」
「そうだが、地図を読むのは慣れでもあるからな。お前も何度か、地図をもって、知らない街を歩く経験をしたらすぐにできるようになるだろう」
「なるほど。でも意外でした」
「何がだ」
「深山さんってあまり出歩くのお好きじゃないと思ってたんですが」
 ああ、そういえばそんなことを話した気もする。

 そういわれるとそうだな。俺は知らない土地を歩き回る経験が豊富なわけではない。その点は綿貫と条件が同じであるはずなのだが、なぜ俺は地図を読むのに苦労しないのであろうか。俺の能力が秀でているとは思えない。とすると、綿貫が単に地図を読むのが苦手であるということになる。
 女は地図を読むのが苦手だという話を聞いたことがある。綿貫に関して言えばその都市伝説まがいの説は成り立っているが、その説を実証する強力な論拠にはならんな。

「そうだな、まあどれくらいで慣れるかは個人差もあるだろう。とりあえず方角だけは確認してから歩き出したほうがいいぞ」
「そうですね。頑張ってみます」
「それはそれとして、ドアホン押さなくていいのか?今日の目的は単なる散歩じゃなかったろう」
「はい、そうでした」

 綿貫は前に出て一呼吸を置いてから、ドアホンを押す。
「はい」
 女性の声が聞こえる。
「綿貫さやかです」
「おまちください」
 しばらくしてから、ドアが開き、初老の女性が出てきた。五〇を過ぎたぐらいの年齢だろう。おそらく高橋雅英の母親かと思われる。

「お初にお目にかかります。綿貫さやかと申します」
「深山太郎です」
高橋郁子たかはしいくこです。遠いところをわざわざどうも。どうぞおあがりください」
 俺たちは家へと足を踏み入れた。

 客間へと通され、俺も綿貫も遠慮したのだが、郁子さんはお茶菓子を出すと言って、台所へと向かった。 

 その間に綿貫に話しかける。
「なあ、どんな話を聞くんだよ」
「雅英さんが亡くなったのは兄が高校一年生のときです。その時私はまだ小学校の低学年でした。私は当時のことをあまり覚えていません。覚えているのはたくさんの人が家に出入りしていたことくらいです。
 事故の後、私がもう少し成長してからは兄も叔父も叔母も誰も事故のことについては触れませんでした。私は事故のことについて詳しく話を聞きたいのです。
 もちろん叔父には尋ねました。ですが、叔父が話してくれたのは記事的記録だけだったんです。私がせっついても叔父は口を閉ざすばかりで、私が知りたいことは知れませんでした。
 雅英さんのお母様から当時のことを聞き出すのは最善の方法とは言えませんが、こうするより仕方ないのです」
「そうか。……高橋雅英の遺骸はまだ見つかってないんだよな」
「いいえ。事故が起きてから数日後には見つかったそうですよ」

 えっ。じゃあなんで今日ここに来たんだ。雅英の遺骸が見つかっているのならば綿貫隆一のいった「亡者を帰るべきところに帰す」という言葉にそぐわないじゃないか、と言おうと思ったところ、郁子さんが客間に戻ってきたので、綿貫に話し損ねた。
 しくじった。昨日の段階で確認しておくべきだった。今更引き返すわけにはいかない。重たい話を甘んじて受け入れるしかない。

「お待たせしました」
 郁子さんはお盆にお茶とお茶菓子を載せている。
「お気遣い痛み入ります。急に押し掛けたのは私どもですのに」
「いいえ、遠慮なさらず。綿貫さんの娘さんをおもてなししなかったら私が主人に叱られますので」
「ありがたく頂戴します」

 俺は綿貫家と高橋家の間柄がどういうものか気になったが尋ねるのは何だかためらわれた。大海原病院は大病院だ。ご主人に叱られると郁子さんはいった。もしかしたら患者として昔、世話になったのかもしれない。

「では改めて自己紹介しましょうか。雅英の母の高橋郁子です」
「綿貫隆一の妹の綿貫さやかです。それとこちらは私と同じ山岳部に所属している、」
 綿貫が挨拶せよと言いたげに見てくる。
「深山太郎です。今日は付き添いで来ましたので僕のことは気にしないでください」
「ご丁寧にどうも。……そうあなたたち山岳部なのね。神宮高校?」
「はいその通りです」
「じゃあ息子の後輩にあたるね。それで今日は息子のことについての話を聞きに来たのよね」
「はい。私が知っているのは雅英さんが登攀中に滑落したことだけで、細かい経緯を存じ上げていないのです。息子さんのことを話すのがつらいということは承知しております。
 ただ、兄を失った私にできるのは兄の過去を知ることだけなんです。兄の大親友であった雅英さんのことを知らないで兄のことを知れるとは思えません。
 もちろん無理に聞き出すことはしません。郁子さんがどうしても話したくないとおっしゃるのならば今日はすぐにお暇します」
「お兄さんを失ったって?」
 郁子さんはそう聞き返した。彼女はそのことを知らなかったようだ。
「はい。兄は昨年の夏から行方不明です。おそらく山で遭難したのだと思います」
「……そう。惜しいわね。隆一さんは優秀でしたのに……」
 彼女はしばらく言葉に詰まった。それから、
「……あなたがここに来ることを了承したのはわざわざ突き返すためではないです。雅英の事を想うと今でも胸が張り裂けそうになるけれども、私の知っている事は細大漏らさずあなたにお話しします」
 といった。

「はい、ありがとうございます」
「それと、私が話したくないならとおっしゃりましたけど、もし、私があなたに話をしたくなかったのだとしたら、今日あなたがここに来ることも承知しなかったでしょう。つらいわけではありません。ただもっと恐ろしいのは雅英のことを世間が忘れてしまうことなんです。死んだ息子のことを今やだれも口にしない。
 主人が死に、私が死に、娘が死んだら、誰もあの子のことを思い出すことはなくなるでしょう。そうなったら息子はもう一度死ぬことになるのです。私はたまらなくそれが悲しい。
 ここであなたに話をすれば、わずかではありますが、息子はこの世の人の心に長く生きることが出来るのです。私が話すのはそのためです。
 ですからしっかりと私の話を、息子の人生の話を聞いてください」
「はい、承知しました。しっかりとお聞きします」

 郁子さんは一呼吸置いてから、彼女の息子についての話を始めた。
「私の息子が山を始めたのは高校に入学してからでした。そうです、さやかさんのお兄さんに出会ってからです。
 山について話すあの子は本当に楽しそうな顔をしていました。ですが私は内心、心配で心配でたまりませんでした。少しでも足を滑らせれば命の危険があるような場所に息子は行っていたわけですから。
 しかし息子から山登りという楽しみを、高校で出会った大切な親友、あなたのお兄さんを奪うことはあまりに忍びなかったのです。
 ですから私はやきもきしながら息子の帰りを待つよりほかありませんでた。
 入学してから半年以上が経ち、私の心配も幾分か薄れていきました。息子は山でかすり傷一つ作りませんでしたから。
 それが悲劇の始まりだったのかもしれません。
 息子は冬山に行くと言いました。南アルプス、北岳です。さすがに私は心配になりました。冬山は勝手が違います。十分な経験を積んだ人間でさえ時には命を落とすこともあるのです。私はなかなか首を縦には振りませんでした。
 しかし息子は諦めませんでした。説得に説得を重ね。北岳登攀の前に十分な雪山講習と実地訓練を積みかつ熟練者の同伴を条件に北岳に入ることの了承を私と主人から取り付けたのです。ちょうどそのころ息子は家に籠りがちでしたから、山であっても外に出ることはいいことだと私たちは思ったのです。
 あなたのお兄さん、隆一さんも同行して、熟練者を加えた一行はついに北岳へと入ったのです。
 ここからは隆一さんに聞いた話です。
 山頂間近、その日は天気もあれることなく快晴だったそうです。メンバーの誰もが体調は万全で登頂は滞りなく達成されるものだと皆が確信していました。
 事故はそんなときにおこったのです。
 息子は足を滑らせました。同時にアンザイレンしていた隆一さんもバランスを崩し、二人は数メートル斜面を滑りました。
 隆一さんは冷静でした。手に持っていた、ピッケルで滑落停止をきちんと行い、崖下に落ちることを阻止したのです。息子は、滑落停止を試みたのかもしれませんが、体勢によっては滑落停止は練習通りに行うのが難しいそうです。おまけに息子はパニックになっていたでしょうから。
 滑落はやみました。ですが息子は宙づりになったそうです。
 息子はそこで正気に戻ったのでしょうか。数メートルと言えどもインストラクターの方が二人を救出するのには時間がかかります。
 隆一さんは華奢な方ではありません。そこら辺の高校球児より立派な体躯をしているでしょう。
 ですが不安定な雪山斜面で二人分の体重を支えることは容易なことではありません。息子もそのことはすぐにわかったでしょう。
 このままでは二人とも死んでしまうと。息子が判断を下すまで二分とかからなかったでしょう。息子は隆一さんとつなげたそのザイルを自ら断ち切ったのです。これが八年前におこった事故の全容です」
 郁子さんは最後のほうは涙を流しながら話していた。綿貫もその大きな瞳に涙をため眼を赤くしながら話を聞いていた。
「お話しいただきありがとうございました。つらいことを思い出させてしまってすみません。
 兄は雅英さんのことを一日でも思わなかったことはなかったでしょう。兄は時々遠くを見ているような表情をしていました。
 私は今日の話を聞いてわかりました。兄が見ていたのは心の中に刻まれた雅英さんの魂だったのだと。
 私は兄のことで今日の今日まで分かっていなかった重大なことを知れました。重ねてお礼申し上げます」
「いいのよ。私のほうこそ後ろめたい気持ちでいたから」
「どういうことですか?」
「……息子が死に、帰ってきたのは、隆一さんだけ。どうして息子だけが帰ってこないの? 私は隆一さんに詰め寄ったわ。 
 でも隆一さんは静かに頭を深々と下げ、私に謝ったの。雅英君を連れ戻さなくて申し訳ございませんでした、って。しばらくはあなたのお兄さんを恨んだ。
 ……でも気づいたのよ、隆一さんは何も悪いことをしていないって。むしろ、何にも興味を示さず、無感動だった息子の人生に光を与えてくれた。そんな隆一さんを恨むのはお門違い。
 いい年したおばさんが三十以上年の離れた男の子に八つ当たりしてるのよ。さすがに恥ずかしくなった。
 でも隆一さんに会うことはそれきりなく、今となっては彼に謝ることもできない。だから今日妹さんであるあなたに話せてよかった。隆一さんのせめてものはなむけに」

「お気になさらないでください。息子さんを亡くしたら誰だってそうなります」
「そういってくれるとありがたいわ」

 そこで、ガチャリと玄関のドアが開いた。
「あら、雅美が帰ってきたみたい。ご挨拶させるわね。私の長女よ。あなたたちの一つ上の学年ね。雅美、お客様よ。挨拶なさい」

 高橋雅美が客間へと入ってきた。来ているのは私学の制服であろう。
「こちら綿貫さやかさんと深山太郎さん。綿貫隆一さんと雅英の後輩にあたる子たちよ。神宮高校の山岳部ですって」
「こんにちは」
 雅美さんが挨拶をし俺達は揃って挨拶を返す。
「こんにちは」
 そこで綿貫が郁子さんのほうに対面して、
「では私たちはそろそろお暇します」
 すると郁子さんは、
「そう。でも帰る前に雅英の部屋を見て行ってくださいな。あなたのお兄さんの写真とかもあるわよ」
「よろしいんですか」
「ええ。雅美、お兄ちゃんの部屋を案内してあげて」
「いいけど」
  雅美さんは俺たちのほうに向き合って、
「ついてきて」
 といった。
 三人は二階へと上がる。雅英の部屋は二回の一番奥の部屋だった。
「どうぞ、ここがお兄ちゃんの部屋」
「失礼します」
 高橋雅英の部屋はずいぶんとさっぱりした部屋であった。彼自身が几帳面だったのか、それとも家族が死後に片付けたのかはわからないが。
 雅美さんは部屋をきょろきょろと見まわす。
「特にみるものはないと思うけどねえ。お兄ちゃんがつけていた日記はあるけど、見てみる?」
「拝見します」
 綿貫は雅美さんから日記を受け取りページをめくり始める。
「こっちはお兄ちゃんが部活でとってきた写真」
 俺は部屋の中を見て、気になるものを見つけた。
「あれは何です?」
 ベッドの上に飾られていた写真を指差して言う。山の写真である。山頂はずいぶんと急峻だ。日本の山なのだろうか。
「ああ、あれ。あなた、ほんとに山岳部なの?山登る日本人はみんなあの山が大好きだと思っていたんだけど。あれは北アルプスの槍ヶ岳よ。……お兄ちゃんの好きだった山」
「そうですか」
 槍か、名付けた人は随分とセンスが御有りで。名前からして登るのが大変そうなことがうかがえる。
 綿貫はしばらくの間日記を読んでいたが、読み終えたようで、ぱたんと冊子を閉じた。
 それから雅美さんはアルバムを持ってきて綿貫に手渡す。
「これ、お兄ちゃんの写真よ。あなたのお兄さんも写っているわ」
「ありがとうございます」
 綿貫は礼を言って、雅美さんからアルバムを受け取り、眺め始める。
 俺は部屋に置いてあるものを観察した。山の写真の他に、山岳小説、ザックにザイル、ピッケル、登山靴といった登山道具が整然と飾られていた。
 その時すすり泣くような音が聞こえた。綿貫がアルバムを見ながら泣いている。
「ごめんなさい。雅英さんと楽しそうに写真に写っている兄の顔を見たら急に涙が出てきて」
 そういって、ハンカチを取り出し、目頭を押さえる。
「高校に入って山を始めたお兄ちゃんはそれは生き生きとしていたわ。でも私にはわかんないよ。お兄ちゃんたちやあなたたちが山に登る理由が。私やお母さんを悲しませてまでどうして山に行かなければならないの? 山馬鹿もいいとこよ」
 と雅美さんが言った。俺も綿貫も何も言い返すことはできなかった。
 綿貫はお手洗いを借りても良いかと言って、部屋から出て行った。
 高橋雅美が俺のほうを見る。
「で、あなたたちどういう関係?ただの部活仲間ならこんなところまでついてこないよね」
「俺は……召使いみたいなもんですよ」
「あっそう。なるほどね。ああいう家に生まれるといろいろ大変よね」
雅美さんは綿貫の家がどういう家か知っているらしい。
「ちなみに、どういうご関係なんですか。綿貫家と高橋家は」
「お兄ちゃんと隆一さんが仲が良かった、ってだけじゃないのよね」
「というと」
「私の家はこう見えても昔、武家だったの。綿貫家とは血縁関係もあるわ。ご存知のように立場は向こうが圧倒的に高いけど。うちは足軽に毛が生えたようなもんだったから。私なんかは侍とか家柄とか、この平成の世には無用の長物だと思ってるんだけど、お父さんやお爺さん、親戚のおじさんは結構気にしているみたい。由緒正しい家の人とでないと結婚してはいかんぞって。ほんと馬鹿じゃないのって思ってるんだけどね。成人したらこんな家飛び出してやるって思ってる」
「そうでしたか」
「でもそういうのは綿貫さんのほうがもっと厳しいのよね。……あなた救い出してあげたら?あの子を宮殿の中から」
「僕は無理ですよ。魔法の絨毯も、ジンのランプも持ち合わせていませんから」
「ふーん。ディズニーすきなの?」
「無駄な知識が多いだけです」
 原典はディズニーではなく千一夜物語なんだが。

 帰り道、俺と綿貫は静かに道を歩いていた。
 俺は綿貫隆一の写真を見忘れていたことに気づいたが、いまさらどうしようもない。すんなりと諦めた。
 綿貫が急に話し出す。
「兄は、雅英さんを死なせてしまったことを悔いて山へと向かったのでしょうか。親友の死、それだけで、失踪するには十分だと思います」
 俺は答えるのをためらった。ここで綿貫に賛同すればおそらく綿貫の調査は完結するのだろう。そうなれば俺が手を煩わせることもこれで終いとなる。だが俺はそれが事の真相でないことを何となく感じていた。高校入学前、いや一か月前の俺なら、「そうだ」、といってこの話を終わらせてしまっていただろう。どっちみちこのまま調査を続けて真相らしきものにたどり着けたとしてもそれはあくまで仮説であり、真なるか否かは確かめようがない。そもそも結論が出せずに終わってしまうかもしれない。綿貫がこれで納得しているのならば真実でないとしてもいいじゃないかと以前の俺なら思ったはずだ。
 だが俺にはそれが出来なかった。口を開く。
「これは答えではない」
「どうしてですか」
「一つ、高橋雅英の遺骸はすでに家族のもと、帰るべき場所に帰ってきている。これは『亡者を帰るべきところに帰す』というお前の兄貴のメモにそぐわない。二つ、仮に親友の死に思い悩んで家を飛び出したとして、なぜ死後十年も経過した後だったのか?この空いた時間は何だ。普通人間が負った傷は時間がたてば癒えていくものだ。郁子さんもそうだったろう。傷が幾分か癒えたからお前に話をすることを承諾し、綿貫隆一にあたったことを反省したんだ。雅英の死がお前の兄貴の失踪に影響を与えたかもしれないがこれは間接的な原因でしかない。去年の夏になって隆一の心を強く揺さぶる何かがあったはずだ」
 綿貫は俺の話を聞いて、少し考えるような表情をしてから、
「なるほど、確かに深山さんのいう通りです。雅英さんは兄の友人ではありましたが、死後十年になって兄の心を突き動かしたと考えるのは道理ではないですね。
 でもどうしましょうか。また振り出しです」
 綿貫は肩を落として残念がる。
「まあ、そう気落ちするな。どんな調査も無駄にはならないさ。おまえだって兄貴のこと知れてよかっただろ」
「……そうですね。ありがとうございます。これからまた頑張ります」
 やれやれ、まだこいつのお守りはやらなきゃいけないようだな。
「ところで深山さん」
「なんだ」
「雅美さんと何話していたんですか?随分楽しそうでしたけど」
「ああ、ちょっと軽い冗談を言ってただけだ」
 綿貫さやかがおいえに縛られて生活するのがかわいそうだ、という話をしてたなんて本人に言えるわけがない。
「そうですか。でも珍しいですね。深山さんよく人見知りするのに」
「まあそうだな」
 駅に着く。綿貫は逆方向の電車である。
「今日はありがとうございました」
「ん」
「また学校で会いましょうね」
「あいよ」
 会いましょう、か。まるでデート終えた後の別れみたいだな。
 夕日に照らされた高架を歩く綿貫の後ろ姿を見て、俺はそんなことを思っていた。
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