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四方山日記
別に怒ってませんけど
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部室に戻ったところ、雄清《ゆうせい》しかいなかった。佐藤《さとう》も綿貫《わたぬき》も帰ったらしい。
「お望みのバックナンバーだ」
俺は手に持つ記事をヒラヒラと雄清《ゆうせい》に見せた。
「……ああ、貸してもらえたかい。よかった」
反応が薄いな。いつもならば大袈裟に喜ぶところなのに。
それから雄清は随分と落ち着いた口調で続ける。
「今回の件について、太郎はなにか気づいているようだけれども、教えては……」
「無理だな。すまないが」
「……まあ、いいさ。太郎がそうするのにはなにか意味があるんだろう。これでも僕は太郎の友人だ。それくらいのことはわかってやりたい」
俺は雄清の調子が少し落ち込んでいるのに気がついた。俺がせっかくバックナンバーを借りてきたのに、反応は薄かったし、事件の真相をあれだけ知りたがっていたのに、もはや興味をなくしている。何か他に心配事ができたようだ。
「どうした雄清。元気ないな」
「ああ、綿貫さん帰っちゃったんだよ」
「……俺はお前の話をしているんだが」
「……綿貫さん泣いてたよ」
なんと。
「なんで?」
「なんで、か。そうか、太郎はやはりそういうだろうね。あまりこういうことは言いたくないんだけれど、太郎は人に関心が無さすぎる」
「……どういうことだ」
「太郎さあ、選管室から出て行くとき、綿貫さんになんて言った? あの言い方と、あの態度。僕は太郎と付き合って、もう十年以上になるからあれくらいどうってことないし、太郎に悪気がないのはよく知っている。だけど、忘れているのかもしれないけど、綿貫さんは太郎と知り合ってまだ半年もたっていない。太郎と綿貫さんの仲が良いのは認めるけれども、お互いの理解が完全でないのも事実だ。それに加えて、綿貫さんは女の子だ。あんな冷たい言い方をしたら、傷つくのは当然だろうさ。半端に仲が良い分なおさらね」
「……俺が泣かせたのか」
「そうだよ。綿貫さんは何も言わなかったけれど。
留奈が一緒に帰っていった」
「謝った方がいいんだろうか?」
「それは太郎の判断に任せる。綿貫さんがどうして欲しいかは太郎の方が詳しいだろ」
女を泣かせるのは俺の生活信条にそぐわない。俺は誰かに害を為すことを極端に嫌っている。最近はそれもうまくいかないが。
「あいつに謝りにいく」
俺はそういって、部室を出て行こうとする。そんな俺の背中に向かって雄清は言った。
「さっきは、太郎は人に関心がないと言ったけれども、高校に入ってからはちょっとずつ変わってきた。たぶんそれは綿貫さんのお陰なんだと思う。太郎にとって綿貫さんは恩人であるはずだ。僕が十数年一緒にいてできなかったことを彼女はやりとげた。彼女は貴重な存在だよ。太郎にとって」
「あいつはもとから稀有な存在だ。俺に出会う以前から」
「だったらなおさら大切にしないと」
最後の言葉には何も言わずに部室をあとにした。
綿貫は学校の最寄り駅まで自転車で行き、駅から電車に乗って家の近くの駅まで行く。学校と駅の間は自転車だ。さすがに今からでは追い付かないと思ったので、一旦家に帰り、自転車で直に綿貫の家に向かうことにした。
九月はまだまだ暑い。ペダルを踏む足と、背中と、首に汗がにじみ、ツーと流れて行くのを感じる。直射日光を頭に受け、ややオーバーヒート気味になりながら、名古屋の、かつて武家屋敷が立ち並んだ、上田《うえだ》へと到着した。
かの名古屋空襲を逃れたという上田の町は、時間の流れから取り残されたような様相を呈《てい》している。
そのなかでもひときわ荘厳な建て構えであるのが綿貫邸。綿貫《わたぬき》さやかの生家だ。
その通用門の前に俺は到着した。
なんだか中に入るのが躊躇《ためら》われた。
ここの住民は、日本全国に関連病院がある大海原《おおうなばら》病院の医師として、幹部として、地域の、いや国全体の医療に貢献している。
多忙な彼らが平日の、しかも日の出ているうちから家にいる可能性はごくごく低いのだが、もしかしたらいるかもしれないと思って、なかなか門をくぐれなかった。顔を会わせるのは気が引けたのだ。
別に綿貫さやかの育ての親である叔父や叔母のことを嫌っているわけではないのだが、彼らには俺が萌菜《もえな》先輩に抱いたのと同じような気持ちを感じていた。
彼らが悪いわけではないのは十二分に分かっている。彼らとて綿貫という家の伝統に縛られた人間の一人なのだから。
無為にここに立っていても仕方がないので、俺は意を決して、呼び鈴をならした。
だが門の前で悩んだ時間は全くの無駄であったらしい。
虚しくベルが鳴るばかりで、家の中から人の出てくる気配はなかった。使用人ぐらいいても良さそうなものなのだが、本当に誰もいないらしい。
諦めて引き返そうと思ったが、綿貫がまだ帰っていないのならば、名古屋駅まで、彼女の通り道をたどるのは、妥当な選択だと思い、そうすることにした。
十分ほど自転車を押して歩いただろうか。名古屋の駅ビルが大分大きく見えてきた頃に、綿貫が前方から歩いてくるのが見えた。
「深山さん」
俺の名を呼ぶその声は、いつになく沈んだものだった。目の縁が赤くなっている。雄清が言ったように、彼女は本当に泣いていたらしい。
「綿貫……謝りに来たんだ。その……悪かった。もっと言い方を考えるべきだったよ。俺は別にお前のことを無下に扱いたかったわけじゃないんだ」
「そうですか」
綿貫はそれだけいい、俺を避けて先へ行こうとする。
「おい、綿貫。そう怒るなよ」
「別に怒ってませんけど!」
いや、怒っているじゃないか。
綿貫さやかは普段はお嬢様然とした楚楚とした女の子だ。学校の誰しも彼女が同級生に対しこのような態度をとるとは思わないだろう。佐藤や雄清に対してもだ。涙は見せるようだけれども。
俺が見ているこの姿は、恐らく俺にしか見せないものなのだろう。だからといって喜んでいるわけではない。女の泣き顔と不機嫌はこの世で一番取り扱いにくいものだ。それが好きな女であるならなおさら。
俺は立ち去ろうとする綿貫の腕をつかんだ。
「放してください」
「……なに子供じみたことをしているんだ。お前は俺にどうして欲しいんだ。わがままを言うのは構わないが、限度があるぞ」
「私が聞き分けがなかったらどうするんですか? ぶつんですか? それとも私のことなんかもう放っておきますか? それともお仕置きでもするんですか?」
「なにもしない。俺はお前に許して欲しいだけなんだ。罰なら俺が受ける」
俺がそういうと綿貫は俺のことをじっと見た。
「だったら私とデートしてください」
「なっ……」
言った本人は顔を赤くし、それきりなにも言わない。俺はつかんだ腕を放した。
それからポツリと言った。
「いいよ」
それを聞くと綿貫は踵を返して歩き始める。
どこかで見た光景だ、と俺は思いながらその後を追った。
歩き始めてしばらくの間はお互いなにも話さなかったが、
「深山さんのいじわる」
と小さく言うのが聞こえた。
「いじわるはしてないだろ」
と俺は言った。
それから綿貫はうつむいて言った。
「……ごめんなさい。幼稚なことをしました」
「別にいいさ。俺も悪かった。お互いさまだろ」
「私は……たぶん深山さんに甘えているんだと思います。それじゃあいけませんね」
綿貫の言葉に対し、俺は聞こえないくらい小さい声で呟いた。
「別に、……俺はその方が」
「なにか言いましたか?」
「いや、なんでもない」
他人に振り回されるのをあれほど嫌っていた俺がこのように考えるようになるとは。
なるほど、雄清が言ったように、俺は綿貫のお陰で少しずつ変わってきたのかもしれないな。
機嫌を直したお嬢様の横顔を見て、俺は一人そんなことを考えていた。
「お望みのバックナンバーだ」
俺は手に持つ記事をヒラヒラと雄清《ゆうせい》に見せた。
「……ああ、貸してもらえたかい。よかった」
反応が薄いな。いつもならば大袈裟に喜ぶところなのに。
それから雄清は随分と落ち着いた口調で続ける。
「今回の件について、太郎はなにか気づいているようだけれども、教えては……」
「無理だな。すまないが」
「……まあ、いいさ。太郎がそうするのにはなにか意味があるんだろう。これでも僕は太郎の友人だ。それくらいのことはわかってやりたい」
俺は雄清の調子が少し落ち込んでいるのに気がついた。俺がせっかくバックナンバーを借りてきたのに、反応は薄かったし、事件の真相をあれだけ知りたがっていたのに、もはや興味をなくしている。何か他に心配事ができたようだ。
「どうした雄清。元気ないな」
「ああ、綿貫さん帰っちゃったんだよ」
「……俺はお前の話をしているんだが」
「……綿貫さん泣いてたよ」
なんと。
「なんで?」
「なんで、か。そうか、太郎はやはりそういうだろうね。あまりこういうことは言いたくないんだけれど、太郎は人に関心が無さすぎる」
「……どういうことだ」
「太郎さあ、選管室から出て行くとき、綿貫さんになんて言った? あの言い方と、あの態度。僕は太郎と付き合って、もう十年以上になるからあれくらいどうってことないし、太郎に悪気がないのはよく知っている。だけど、忘れているのかもしれないけど、綿貫さんは太郎と知り合ってまだ半年もたっていない。太郎と綿貫さんの仲が良いのは認めるけれども、お互いの理解が完全でないのも事実だ。それに加えて、綿貫さんは女の子だ。あんな冷たい言い方をしたら、傷つくのは当然だろうさ。半端に仲が良い分なおさらね」
「……俺が泣かせたのか」
「そうだよ。綿貫さんは何も言わなかったけれど。
留奈が一緒に帰っていった」
「謝った方がいいんだろうか?」
「それは太郎の判断に任せる。綿貫さんがどうして欲しいかは太郎の方が詳しいだろ」
女を泣かせるのは俺の生活信条にそぐわない。俺は誰かに害を為すことを極端に嫌っている。最近はそれもうまくいかないが。
「あいつに謝りにいく」
俺はそういって、部室を出て行こうとする。そんな俺の背中に向かって雄清は言った。
「さっきは、太郎は人に関心がないと言ったけれども、高校に入ってからはちょっとずつ変わってきた。たぶんそれは綿貫さんのお陰なんだと思う。太郎にとって綿貫さんは恩人であるはずだ。僕が十数年一緒にいてできなかったことを彼女はやりとげた。彼女は貴重な存在だよ。太郎にとって」
「あいつはもとから稀有な存在だ。俺に出会う以前から」
「だったらなおさら大切にしないと」
最後の言葉には何も言わずに部室をあとにした。
綿貫は学校の最寄り駅まで自転車で行き、駅から電車に乗って家の近くの駅まで行く。学校と駅の間は自転車だ。さすがに今からでは追い付かないと思ったので、一旦家に帰り、自転車で直に綿貫の家に向かうことにした。
九月はまだまだ暑い。ペダルを踏む足と、背中と、首に汗がにじみ、ツーと流れて行くのを感じる。直射日光を頭に受け、ややオーバーヒート気味になりながら、名古屋の、かつて武家屋敷が立ち並んだ、上田《うえだ》へと到着した。
かの名古屋空襲を逃れたという上田の町は、時間の流れから取り残されたような様相を呈《てい》している。
そのなかでもひときわ荘厳な建て構えであるのが綿貫邸。綿貫《わたぬき》さやかの生家だ。
その通用門の前に俺は到着した。
なんだか中に入るのが躊躇《ためら》われた。
ここの住民は、日本全国に関連病院がある大海原《おおうなばら》病院の医師として、幹部として、地域の、いや国全体の医療に貢献している。
多忙な彼らが平日の、しかも日の出ているうちから家にいる可能性はごくごく低いのだが、もしかしたらいるかもしれないと思って、なかなか門をくぐれなかった。顔を会わせるのは気が引けたのだ。
別に綿貫さやかの育ての親である叔父や叔母のことを嫌っているわけではないのだが、彼らには俺が萌菜《もえな》先輩に抱いたのと同じような気持ちを感じていた。
彼らが悪いわけではないのは十二分に分かっている。彼らとて綿貫という家の伝統に縛られた人間の一人なのだから。
無為にここに立っていても仕方がないので、俺は意を決して、呼び鈴をならした。
だが門の前で悩んだ時間は全くの無駄であったらしい。
虚しくベルが鳴るばかりで、家の中から人の出てくる気配はなかった。使用人ぐらいいても良さそうなものなのだが、本当に誰もいないらしい。
諦めて引き返そうと思ったが、綿貫がまだ帰っていないのならば、名古屋駅まで、彼女の通り道をたどるのは、妥当な選択だと思い、そうすることにした。
十分ほど自転車を押して歩いただろうか。名古屋の駅ビルが大分大きく見えてきた頃に、綿貫が前方から歩いてくるのが見えた。
「深山さん」
俺の名を呼ぶその声は、いつになく沈んだものだった。目の縁が赤くなっている。雄清が言ったように、彼女は本当に泣いていたらしい。
「綿貫……謝りに来たんだ。その……悪かった。もっと言い方を考えるべきだったよ。俺は別にお前のことを無下に扱いたかったわけじゃないんだ」
「そうですか」
綿貫はそれだけいい、俺を避けて先へ行こうとする。
「おい、綿貫。そう怒るなよ」
「別に怒ってませんけど!」
いや、怒っているじゃないか。
綿貫さやかは普段はお嬢様然とした楚楚とした女の子だ。学校の誰しも彼女が同級生に対しこのような態度をとるとは思わないだろう。佐藤や雄清に対してもだ。涙は見せるようだけれども。
俺が見ているこの姿は、恐らく俺にしか見せないものなのだろう。だからといって喜んでいるわけではない。女の泣き顔と不機嫌はこの世で一番取り扱いにくいものだ。それが好きな女であるならなおさら。
俺は立ち去ろうとする綿貫の腕をつかんだ。
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「……なに子供じみたことをしているんだ。お前は俺にどうして欲しいんだ。わがままを言うのは構わないが、限度があるぞ」
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「なにもしない。俺はお前に許して欲しいだけなんだ。罰なら俺が受ける」
俺がそういうと綿貫は俺のことをじっと見た。
「だったら私とデートしてください」
「なっ……」
言った本人は顔を赤くし、それきりなにも言わない。俺はつかんだ腕を放した。
それからポツリと言った。
「いいよ」
それを聞くと綿貫は踵を返して歩き始める。
どこかで見た光景だ、と俺は思いながらその後を追った。
歩き始めてしばらくの間はお互いなにも話さなかったが、
「深山さんのいじわる」
と小さく言うのが聞こえた。
「いじわるはしてないだろ」
と俺は言った。
それから綿貫はうつむいて言った。
「……ごめんなさい。幼稚なことをしました」
「別にいいさ。俺も悪かった。お互いさまだろ」
「私は……たぶん深山さんに甘えているんだと思います。それじゃあいけませんね」
綿貫の言葉に対し、俺は聞こえないくらい小さい声で呟いた。
「別に、……俺はその方が」
「なにか言いましたか?」
「いや、なんでもない」
他人に振り回されるのをあれほど嫌っていた俺がこのように考えるようになるとは。
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