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下天の幻器(うつわ)編
第四十三話「一顧傾城」前編
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鈴原 最嘉率いる臨海軍が七峰宗都、鶴賀を攻めていた頃――
京極 陽子が統率する新政・天都原軍は、志那野の北部にて旺帝軍と睨み合っていた。
「志那野南部を早々に失い、更にこの北志那野の地まで危機に晒しました事、真に申し訳ありません」
地面に膝を着き、足下に深々と頭を下げる女は……
しっとりとした白い肌に細く涼しい瞳とキリリとした口元、如何にも勝ち気な美人であるが、その顔の右側半分をも覆う革製の最早”仮面”といえるくらい大きな眼帯を装着した将である。
「良いわ、一枝。相手が相手でしょう?」
木々が僅かにそよぐ程度の山風を受けて――
腰まである緩やかにウェーブのかかった美しい緑の黒髪が輝きながら小さく踊る。
「寧ろ貴女でなければ”三城”も残して持ち堪えるのは不可能だったわ」
その黒髪の美姫の白く透き通った肌と対照的な艶やかな紅い唇が、土に汚れるのも厭わずに平伏する家臣に向けて別段の怒りも無い静かさで告げる。
「は!姫様の寛大なお言葉!!この一原 一枝、次戦こそは必ずやご期待に添えるよう不惜身命の覚悟にて……」
主の気遣いに畏まる、真面目で生粋の武将たる一原 一枝。
彼女は陽子の切り札、”王族特別親衛隊”の一枚目にして新政・天都原軍、最強の武人であった。
「布陣も完了致しましたし、大方は陽子様の予測された通りですね」
そして暫く様子を見ていた、陽子の隣に控えた細い銀縁フレームの眼鏡をかけた女が、タイミング良く合いの手を入れて会話を先に進める。
膝を着いた一原 一枝と同じ”王族特別親衛隊”の十三枚目である十三院 十三子だ。
――彼女たち新政・天都原軍が陣を構えたのは志那野にある犀畳山である
元は旺帝領土であった志那野を奪還するために進軍してきた旺帝軍、木場 武春の部隊は瞬く間に南部を制圧し、そして北部の城々をも次々と奪還していった。
その強さは正に武神!!
旺帝最強の武将、旺帝八竜、”志那野の咲き誇る武神”は健在であったのだ。
そして、その快進撃の報を受けた旺帝本国は、ここがこの戦の勝負所とばかりに本国から大幅な増援を派兵して来た。
無論、旺帝とて北から攻め込んで来た”紗句遮允”率いる可夢偉連合部族国に対する防衛で常に兵力不足であったが……
ここは一気に旺帝領西部方面の不安要素を潰す好機と決断したのだろう。
結果的に兵力比は一時的には、新政・天都原軍一万五千に対して旺帝軍四万にまで開いたのだ。
そして二国が睨み合う戦場、志那野北部は南方に犀畳山が聳え、そしてその眼下に広がる川片平平地にその犀畳山から流れ出る百支川が幾つにも分岐する。
平地を幾つにも分断する川の流れとその川辺に小城や砦を並び立たせて各々の経路を繋ぎ、幾たびも外敵からの侵攻を退けてきた志那野旺帝屈指の城塞群。
旺帝、木場 武春の部隊による猛攻に、一度は制圧していた”十二”在る城のうち”九”を失った新政・天都原軍であったが……
やがてその窮地に志那野の北に隣接する新政・天都原領土である越籠領から援軍が駆けつける。
だが意外にも京極 陽子自身が率いて来た新政・天都原援軍二万は、死守した三城のどの城にも入城せず、敵に制圧された川片平平地に密集する旺帝軍の籠もる城々を大胆不敵にも素通りして、そのまま戦場南側の犀畳山に布陣したのだ。
「あれだけ堂々と通られては……旺帝軍も罠を警戒して迂闊に動いて来なかったと言うことでしょうか?」
一枝の問いに当の陽子で無く、副官の十三子が頷く。
「勿論それもあるでしょうが、抑も旺帝軍は我が新政・天都原に更なる援軍を送る余裕があるとは思っていなかったのでしょう。越籠領もそうですが、香賀美領、尾宇美領に守備兵を置いて更に志那野へと増援など余力はとても無いと」
だが現実は違った。
京極 陽子は自ら二万もの兵を率いて越籠領から志那野領へと入ったのだ。
そういう”戦略上”の虚を突いた援軍で在り、そしてさらには城には入らず城塞群の背後を”戦術上”の虚を突いた布陣をやってのけた。
「さすがは姫様です……ですが、あの”喰わせ者”がもし……」
一原 一枝は主の類い希なる才覚に感服しながらも、一抹の不安を過らせた瞳で陽子を伺う。
――そう、一原 一枝の不安とは……
先ほど話題に上がった、旺帝軍も分析していた新政・天都原軍の兵力不足を補った秘策にある。
京極 陽子は鈴原 最嘉が嫌がらせのために打った奇策を利用し、自国領内に招き入れざるを得なかった臨海軍をあてにして、尾宇美領の兵力をほぼ全て志那野の援軍に回したのだ。
謂わば臨海軍が新政・天都原の内部に置いた牽制のための兵力を逆手に取り、自国防衛の用心棒としてそのまま利用した事になる。
勿論それはかなりの危険を伴う判断で在り、普通はあり得ない行為だろう。
臨海が”その気”なら尾宇美は直ぐにでも盗れるという状況でもあるし、そうでなくても敵国が攻め込んで来ても尾宇美領を防衛をする義理は無いはずであるという、そういう懸念を一切考慮しない盲目的に臨海を……いや、鈴原 最嘉という人物を信用した方法であるからだ。
それは一原 一枝でなくても不安に思って当然であった。
――だが……
「鈴原 最嘉はね、京極 陽子に奉仕するためだけに存在しているのよ。ふふふ、それは例え敵対関係になったとしても関係無いわ」
聡明な彼女にして全く以て意味不明な言葉。
確かに現在は同盟国であるが、そうでなく敵対関係であっても裏切らないとは……
「はい、そうですね陽子様」
「……承知致しました、姫様」
しかし、あまりにも自信に満ちた美姫の綻んだ口元に、臣下の二人は何故かその不可思議な関係を肯定してしまう。
「これで敵の背後であり高所……後、水源を押さえられたわ、どうでるかしら?」
そして才色兼備の美姫は、艶やかな紅い唇に氷の微笑みを浮かべる。
――”凡そ用兵の法は、高陵には向かうこと勿れ、背丘には逆うること勿れ”……
合流に成功した陽子の援軍と合わせ、現状兵力差は新政・天都原軍三万五千に対して旺帝軍四万。
絶対的に有利な地形を手に入れた新政・天都原軍は数の不利を補って余りあるだろう。
「敵の動きがあるまで三堂 三奈の潮田城、六王 六実の葛雄城は堅守、一枝も久良城へ戻って引き続き敵の動きに注視してもらいます」
「承知した!」
十三子の指示に一枝が頷く。
そして――
「…………」
山腹から眼下の城塞群を見下ろす暗黒姫の双瞳は……
まことに希なる美貌の少女の極めつけ、漆黒の双瞳は……
対峙する物を尽く虜にするのでは無いかと思わせる美しい眼差し、恐ろしいまでに他人を惹きつける”純粋なる闇”
その”奈落”の双瞳は……
”どうでるかしら?”と発した自らの言葉とは裏腹に、
恐らくはこの先の何手先をも見越した”神機妙算”に光る知の結晶そのものであった。
――
―
――犀畳山の麓、川片平平地城塞群……
――”久良城”
コツ、コツ、コツ……
「…………」
連戦に次ぐ連戦で疲労困憊し、見張りを残した兵達も兵舎にて眠りこけ、そのため誰も無くガランとした城の中央広間にペタリと腰を下ろした独りの女。
長い黒髪を束ね、それを項付近でクルクルと無造作に纏めた女の肌理細かい白肌はしっとりと汗に濡れており、薄く赤い唇は小さく半開きに少しだけ早く熱い吐息を出し入れする。
コツ、コツ、コツ……
胸元を少し着崩した留袖着物姿から露出した折れそうなほど細い手には、鍔無しの白鞘、所謂”長ドス”を左半身に抱きかかえ、疲労した三十路ほどの女は自身に近づく足音の方へと、ゆっくりと細く切れ長な瞳を動かした。
コツ、コツ。
「…………珍しい事もあるもんさね、御姫様の御側を離れ、アンタが会いに来るとはねぇ?」
少々乱れた息と身につけた着物がしっとりと濡れた女は実に色気漂う美女である。
「これも仕事だ、志眞よ。流石のお前でも旺帝の木場 武春が相手では余裕が無いか?」
「…………」
女の近くで立ち止まり、見下ろしてそう問うのは老いてなお眼光鋭いひとりの将だ。
姓名を岩倉 遠海。
嘗ては”天都原十剣”に名を連ねた剣豪だ。
そして天都原国王位継承権第六位”紫梗宮”、京極 陽子の腹心の将でもある。
「そうさね、ありゃ正真正銘”化物”の部類さ、精も根も尽き果てるてもんさ、この短期間で四分の三もの城を持ってかれりゃね」
老将、岩倉 遠海を見上げて笑う女もまた同じ主を持つ将帥、
”元”天都原国軍総司令部参謀長にして”無垢なる深淵”の異名で恐れられる京極 陽子の子飼い部隊、”王族特別親衛隊”筆頭の十一紋 十一であった。
「半分は宮の作戦だろう。それで首尾はどうだ?」
岩倉 遠海はフンと笑い飛ばして聞く。
「はは、そうさねぇ?同じ旺帝軍でも諸住 清定の隊は叩いてやったよ……そう、不自然なほどに徹底的に!容赦の欠片も無く!」
妖艶な口元に笑みを浮かべながら、十一紋 十一は白鞘を支えにして”よっと”立ち上がる。
「重畳だ、”それ”に連なる”工作”の方も十三子殿の手の者が既に着手した。後は宮からの命を待つのみだが……志眞よ、お前も出陣れるだろうな?」
一応は問いかけ口調だが、決して否とは言わせない厳しい眼光の岩倉 遠海に見据えられながらも、白鞘を手にした女はそれが何のことも無いとばかりに、艶っぽく、頬まで垂れた前髪を掻き上げる。
「勿論さね、親父殿。元十剣、岩倉 遠海の名に泥を塗るような”岩倉 志眞”じゃぁないさ」
そして手にした鍔無しの白鞘……
納刀されたままの”長ドス”をするりと滑らせるように滑らかな動きで柔い肩に担いだ。
「一枝が戻り次第、次の段階へ移行、そして……仕舞いは鏖殺さね」
第四十三話「一顧傾城」前編 END
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