恋とレシーブと

古葉レイ

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恋とレシーブと3

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「きょーくん、起きた?」

 ふと呼ばれて瞼を抉じ開けると、光沢紙が擦れるような優しい声と、嗅ぎ慣れた甘い匂いがした。

「……寝てた?」
「寝てた」

 思考が霞む。ついさっきまでの出来事が夢だったのかと思い知る。視界がぼやける。夢はしかし現実の記憶で、俺からすると思い出とも言う。チョークの匂いと黒板の匂いと共に、湿気を含んだ夏の香りをタオル枕越しに嗅ぐ。そして漂う愛おしい人の匂い。

 顔を上げると、安藤あさみが目の前に居た。

 寒い教室の中、俺らは静かに息を吐く。

 俺の前で、あさみが柔らかな笑みを浮かばせる。藍色のブレザーに肩付近まで伸びた髪は赤茶色で、清楚さと爽やかさに磨きが掛かっている。制服に身を包んだあさみは胸元のワインレッドのリボンを揺らし、耳元に掛かる髪を掻きあげる。ふわふわとした雰囲気の笑みを浮かばせながら、空気を伝い漂う彼女の匂いは、男子高校生の天敵である。あるいはその逆の女神の如しだ。

 身長は百六十弱だったはずで、あさみを動物に例えると子羊だと思ったのは第一印象である。今は少し印象が違うんだが。

「悪い。何か眠くて」
「昨日も遅くまでテスト勉強頑張っていたもんね。きょーくん、涎が垂れてるよ」

 あさみが言う通り、今日まで期末テストだったのだ。常日頃から部活に勤しんでいる俺も、テスト勉強は一応する。学生の本分は学業である。というか赤点による補習が嫌だから、である。部活ができないのは嫌である。なので昨日も必死で勉強をしたわけだ。

 とはいえ俺が前回の中間テストで良い点数を取れたのは、目の前の彼女のおかげである。今回もおおよそ、彼女のおかげで赤点はない。

「で、あさみは何してるんだ?」
「うん。勉強」

 ようやく勉学の日々を終えたというのに、彼女は飄々と優等生の鑑としてここに居る。いやまったく優等生の鏡である。彼女の詰めの垢を煎じて飲んだ方がいいかもしれない。
 いや、指先を舐めた事はあるので、飲んだことはあるかも、とかどうでもいい思考に逃避行。彼女の手が持ち上がり、俺の前髪を撫でた。

「楽しい?」
「うん。勉強は楽しい」

 勉強が楽しい? そんな台詞を言ってみたいものだ。そんなあさみが真面目に粛々と勉強をしている姿は、確かに彼女らしい。俺の頭を撫でる意味は不明。

 そこで気づく。はて、涎? 指摘された言葉を思い出して、口元をタオルで拭う。ふと手にしていたのはあさみに借りたタオルだと気づき、しまったと思うがもう遅い。甘い匂いがするタオルをもう一度顔に押し当てる。ああ、なんだあさみの匂いかと思うと嬉しいやら恥ずかしいやらで、顔をタオルで隠して机にもう一度突っ伏す。深呼吸。

 しばらく黙っていると、しゅるしゅると紙の上を芯が擦れる音に違和感。プリント? タオルを退けて状況を確認すると、あさみの目の前にあるのは数学のプリントだった。

 はて? どうして彼女が、課題らしきものをしているのか。期末テスト前に提出するべき課題のはずだ。なぜ今? 俺じゃあるまいし、と考えて理解する。プリントの上部にある名前は、どこからどう見ても俺の名前だった。

「あさみ、それ俺の宿題」
「暇だったからサ」

 あさみがしれっと言い、何となく汚い字風に数学Ⅱの問題を解いていく。筆跡まで変えていらっしゃる。しかも字が俺っぽい。

「他人の宿題なんかしちゃダメだろ」
「提出期限も守れン男がナニ言ってんの?」

 何か粗々しく返されて凹む。なんのキャラだ。

 彼女はそう、子羊の皮を被った別の何かである。

「私はそう、暇つぶしに落書きしているだけだよ。気に食わなかったら後で自分でも解いてみるといいよ。面白いから」
「面白い、ですか」

 そう告げるあさみの手は止まらない。とりあえず彼女の手元を凝視する。教科書も見ずにすらすらと数学の問題を解いていくのは凄い。よく解けるもんだと思う。丁寧に解かれていく問題を眺めていると、つい魅入ってしまう。指先が綺麗だ。シャーペンを握る指先が、好きだ。
 俺の視線に、あさみは「どうしたの?」と首を傾げた。

「私が好きなのは数学と現国だけだよ」
「英語とか歴史も点数いいじゃないか」
「点数取れるからって好きとは限らないじゃない?」
「保健体育も?」
「それは大好き」

 俺の物言いにやや不服そうなあさみが、心持ち唇を突き出してそう答える。好き、か。数学が、現国が好きというあたり、本当に好きなんだろうなと思う。保健体育は冗談だと思いたい。

「数学のどこが好きなんだ?」
「解いたら答えが出るところ」
「現国は?」
「活字が好きだから。保健体育は、高校生で乙女だから?」

 きっぱりはっきりと告げられて、俺はなるほどなと感心する。高校生だから、っていうのだけは意味不明。とにかくすぱっと物事を断言できる彼女に、俺は惚れたのだろう。

「あと私は、きょーくんが、胸焦がれる程に大好きよ」
「っ……ぅん」

 目の前の彼女に真顔で吐き零されて、俺の呼吸が止まる。彼女はプリントに目を向けたまま、こちらを見る様子はなかった。

「あ、ありがとう……」
「なに? まさか照れてるの?」

 静かに告げられる愛の言葉もまた恥ずかしいものである。軽く言われているけれど、日々言われ慣れているわけでは決してない。教室に漏れた気持ちの吐露に、肺が痛い。

「まあ、それなりに」
「初心ね。子供みたい」
「いや、俺ら子供だから」
「……え?」

 まったくもって至極当然の言葉に、あさみはがばと顔を上げてこちらを見つめてくる。その眼差しはひどく驚いた様子で、驚愕というより唖然とした面持ちだった。

「忘れてた。私ら子供だったよね」

 ぺろっと舌を出して笑うあさみを改めて動物に例えると、飄々とした猫である。

《続く》
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