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第2話 聖母Ⅱ
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昼食を終え、お母様と食器の片づけをしている最中、台所に夫が足を運んできた。
「秋乃、それが終わったら診療所に行こう。明日から僕たちの職場になるんだから、下見しておきたいだろう?」
食後の散歩ついでに村の診療所を下見しに行こうという提案だった。
その診療所は村唯一の医療機関であり、村人たちの健康を一括で管理する重要な場所。
そして、私たち夫婦の新たな職場になる場所だった。
元々は村の名家出身の『御池 冬至』という名の医者が一人で開設し、経営し、村全体の医療を統括していたのだという。しかしつい最近、御池 冬至は心臓発作で急死した。
そうしてこの村唯一の医療機関が麻痺した矢先に、村出身で医者の資格を持つ夫・火村 史也に診療所勤務の打診があったのだという。
「明日からあなたと二人きりの職場だなんて、夢みたい」
実家から診療所までの道中、私と夫は寄り添いながらゆっくりと歩いて診療所へと向かう。
そして、その配偶者であり同じく医師免許を持つ私も診療所での勤務を打診された。こんな集落では他に仕事もないだろうし、なにより医者としての仕事を夫と共に続けられるのならこんなに有難い話は無い。
「東京の病院とは違って、規模も患者の数も天才女医様からすれば物足りないかもしれないけれど、きっとすぐに慣れるさ」
「もう、その呼び方は止してよ。ここではただの女医として細々やって行こうと思ってるんだから」
「はは、それもいいね。村人たちの健康と安全を守る、美人女医ってところかな」
「もう……茶化さないで」
道中、夫とそんな微笑ましいやり取りをしているうちに診療所に到着した。
外見は木造でいかにも古そうな建物。東京の大病院と比べれば雲泥の差だが、不思議と悪い気はしなかった。
私と夫だけの空間だと思えば、こんな古びた診療所でも居心地は良い。
診療所の仲も古い造りとなっていて、お世辞にも綺麗とは言えないような状態だった。
前任の御池先生が無くなってから使われていなかったそうだが、そこまで荒んでいる印象は無かった。
それに、診療所内の医療設備も申し分なく、元々の設備と私が東京から持ち込んできた設備を合わせれば十分すぎるほどだった。
「規模は小さいけれど、一通りの設備は揃っているし問題無さそうね。手術室まであるし、本当にここだけで村人全員の健康を管理していたのね、御池先生は」
「ああ、御池先生は長年一人で全ての患者の治療を担当していたからね。ただ、その苦労が祟ってまさかご自身が……」
この村出身の夫も、御池先生には大変お世話になったのだという。夫曰く、この村に御池先生を悪く言う人間は誰もいないというほど信頼の厚い人物だったようだ。
「明日から、あなたと二人きりで仕事ができると思うと嬉しい反面、御池先生の後任が務まるか……少し不安。あなたはともかく、余所者の私が……受け入れてもらえるかな」
「おいおい、君らしくもない。村のみんなも、君の噂を聞いて会うのを待ち望んでいたさ、東京から新しいお医者様がこの村のために移住してくださったって」
「ふふ……そうなんだ、なんだか照れくさいね」
夫の言葉に、私は少しだけ心が軽くなった。
これから少しずつでも良い。村の人たちにとっては頼りがいのある医者、家族にとっては逞しい母になりたいと、そう思えたのだ。
私は夫の手を優しく握る。夫も、私の手を握り返してくる。
「最初は東京から離れる事、躊躇したけれど……決断して良かった。だって、あなたと過ごす時間以上に大切なモノなんて……他にはないもの」
「東京では、お互いに医者としての責務に追われ過ぎていたんだ。だから、ここではそれを忘れてゆっくり過ごしていこう。僕たちは、医者である前に……家族なんだから。お腹の子も含めて、家族なんだ」
私と夫は、火が沈みかけた夕暮れの診療所で口づけを交わした。
実家に帰る頃には既に夕食時だった。私は慌ててお母様に代わって台所へ入る。
既にお母様が調理を進めてくれていたのでほとんどやる事は残っていなかったが、料理の盛り合わせを進めていく。
「よし……」
料理は得意な方では無かったが、これから母親になるのだからそんなことは言っていられない。私はお母様の猿真似だったが、何とか料理の盛り合わせを終えた。
「秋乃さん。もう料理はいいから、夕食前に『これ』に着替えて真理亜様の所にご挨拶しに行きなさい」
お母様は箪笥の中から深紅に染まった美しい着物を引っ張り出してくる。
「真理亜様……って、どなたです?」
聞いたことのない名だった。確か夫の親戚の仲にもそんな名の人はいなかったはず。
それに、わざわざこんな派手な着物に着替えてまで会いに行く人物と言うのは、一体何者なのだろうと不思議に思う。
「全く、あの子ったら……まだあなたに話していなかったのね」
お母様は居間で酒を飲む夫・文也を横目に、呆れたようにため息をつく。
夫は全く気付いていない様子だ。
「村の名家・御池家が管理している神社に向かいなさい。行けば真理亜様の事は教えていただけるでしょう。それと、くれぐれも粗相の無いように頼みますよ」
「は、はぁ……」
お母様に着物を渡され、私は意味もわからないまま着物に着替え、神社へと向かわされた。
そして、この夜が私とあの少女……御池 真理亜との出会いだった。
「秋乃、それが終わったら診療所に行こう。明日から僕たちの職場になるんだから、下見しておきたいだろう?」
食後の散歩ついでに村の診療所を下見しに行こうという提案だった。
その診療所は村唯一の医療機関であり、村人たちの健康を一括で管理する重要な場所。
そして、私たち夫婦の新たな職場になる場所だった。
元々は村の名家出身の『御池 冬至』という名の医者が一人で開設し、経営し、村全体の医療を統括していたのだという。しかしつい最近、御池 冬至は心臓発作で急死した。
そうしてこの村唯一の医療機関が麻痺した矢先に、村出身で医者の資格を持つ夫・火村 史也に診療所勤務の打診があったのだという。
「明日からあなたと二人きりの職場だなんて、夢みたい」
実家から診療所までの道中、私と夫は寄り添いながらゆっくりと歩いて診療所へと向かう。
そして、その配偶者であり同じく医師免許を持つ私も診療所での勤務を打診された。こんな集落では他に仕事もないだろうし、なにより医者としての仕事を夫と共に続けられるのならこんなに有難い話は無い。
「東京の病院とは違って、規模も患者の数も天才女医様からすれば物足りないかもしれないけれど、きっとすぐに慣れるさ」
「もう、その呼び方は止してよ。ここではただの女医として細々やって行こうと思ってるんだから」
「はは、それもいいね。村人たちの健康と安全を守る、美人女医ってところかな」
「もう……茶化さないで」
道中、夫とそんな微笑ましいやり取りをしているうちに診療所に到着した。
外見は木造でいかにも古そうな建物。東京の大病院と比べれば雲泥の差だが、不思議と悪い気はしなかった。
私と夫だけの空間だと思えば、こんな古びた診療所でも居心地は良い。
診療所の仲も古い造りとなっていて、お世辞にも綺麗とは言えないような状態だった。
前任の御池先生が無くなってから使われていなかったそうだが、そこまで荒んでいる印象は無かった。
それに、診療所内の医療設備も申し分なく、元々の設備と私が東京から持ち込んできた設備を合わせれば十分すぎるほどだった。
「規模は小さいけれど、一通りの設備は揃っているし問題無さそうね。手術室まであるし、本当にここだけで村人全員の健康を管理していたのね、御池先生は」
「ああ、御池先生は長年一人で全ての患者の治療を担当していたからね。ただ、その苦労が祟ってまさかご自身が……」
この村出身の夫も、御池先生には大変お世話になったのだという。夫曰く、この村に御池先生を悪く言う人間は誰もいないというほど信頼の厚い人物だったようだ。
「明日から、あなたと二人きりで仕事ができると思うと嬉しい反面、御池先生の後任が務まるか……少し不安。あなたはともかく、余所者の私が……受け入れてもらえるかな」
「おいおい、君らしくもない。村のみんなも、君の噂を聞いて会うのを待ち望んでいたさ、東京から新しいお医者様がこの村のために移住してくださったって」
「ふふ……そうなんだ、なんだか照れくさいね」
夫の言葉に、私は少しだけ心が軽くなった。
これから少しずつでも良い。村の人たちにとっては頼りがいのある医者、家族にとっては逞しい母になりたいと、そう思えたのだ。
私は夫の手を優しく握る。夫も、私の手を握り返してくる。
「最初は東京から離れる事、躊躇したけれど……決断して良かった。だって、あなたと過ごす時間以上に大切なモノなんて……他にはないもの」
「東京では、お互いに医者としての責務に追われ過ぎていたんだ。だから、ここではそれを忘れてゆっくり過ごしていこう。僕たちは、医者である前に……家族なんだから。お腹の子も含めて、家族なんだ」
私と夫は、火が沈みかけた夕暮れの診療所で口づけを交わした。
実家に帰る頃には既に夕食時だった。私は慌ててお母様に代わって台所へ入る。
既にお母様が調理を進めてくれていたのでほとんどやる事は残っていなかったが、料理の盛り合わせを進めていく。
「よし……」
料理は得意な方では無かったが、これから母親になるのだからそんなことは言っていられない。私はお母様の猿真似だったが、何とか料理の盛り合わせを終えた。
「秋乃さん。もう料理はいいから、夕食前に『これ』に着替えて真理亜様の所にご挨拶しに行きなさい」
お母様は箪笥の中から深紅に染まった美しい着物を引っ張り出してくる。
「真理亜様……って、どなたです?」
聞いたことのない名だった。確か夫の親戚の仲にもそんな名の人はいなかったはず。
それに、わざわざこんな派手な着物に着替えてまで会いに行く人物と言うのは、一体何者なのだろうと不思議に思う。
「全く、あの子ったら……まだあなたに話していなかったのね」
お母様は居間で酒を飲む夫・文也を横目に、呆れたようにため息をつく。
夫は全く気付いていない様子だ。
「村の名家・御池家が管理している神社に向かいなさい。行けば真理亜様の事は教えていただけるでしょう。それと、くれぐれも粗相の無いように頼みますよ」
「は、はぁ……」
お母様に着物を渡され、私は意味もわからないまま着物に着替え、神社へと向かわされた。
そして、この夜が私とあの少女……御池 真理亜との出会いだった。
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