DV幽霊

葵むらさき

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第12話

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 熱田氏は、私の居場所を訊ねて来、直接御札を届けると言ってくれた。
「下手にそこから動くと、危ないかも知れないから」
というのが、彼女の意見だった。
 まるでSPだな。
 私はそのメールを見ながら少し吹いた。
 足が、私の後をつけ狙っているとでもいうのか。
 私には、足があの部屋から出てくることなどまるで想像もつかなかった。
「足だけとは限りません。他の部分も存在している可能性があります」
 特に異論を唱えたわけではないが、熱田氏は追加メールでそういう説明を寄越した。
 熱田氏が実際にやって来たのは、およそ三十分後だった。
 タクシーを使ったのだろうか。
 その経費も、私の浄霊代の中に含まれているのだろうか。
 そんな質問をする暇など当然なかった。
 熱田氏はカウンターのスツールに腰掛けながら逞しい腕を店員に向かって差し上げ、
「生中」
と注文した。
「こちらが、御札です」
 そして居酒屋のカウンターの上で、彼女は私に、長方形に畳まれた紫色の袱紗を差し出した。
「ああ、これが」
 私は、酒の回った頭なので、さして緊張などしてもいなかったのだが、可能な限り厳粛に受け取ろうとした。
 だがやはり、酔っ払いに触れられたくなかったのかどうか、熱田氏はすぐにまた袱紗を取り上げ、さらさらとそれを開き、中身の白い紙製の御札だけを改めて差し出してきた。
 御札の、表紙というのか、表書きというのか、最初に目に入った面には、私の知らない文字が一文字、筆書きされていた。
 日本語ではない。
 いわゆる“梵字”というものだろうか。
 とにかく、日本の当用漢字でないことは確かだった。
 私は、純粋な物珍しさにとらわれてその字を見つめた。
 字もまた、私を見つめているような気がした。
 何かの呪文、何か霊的な念のこもった文字なのだろうか。
 私にはまったく知識がなかった。
 これまでの人生で、そのような文字を目にしたこともなかったのだ。
 この世に、こんな文字が存在しているのか。
「これを貼る場所なんだけどね」
 熱田氏は御札をちらりと見下ろして説明した。
「よかったら……というか、ぜひ、これからお宅へお邪魔させていただきたいのよ」
「え」
 私は半眼の目を熱田氏に向けた。
「今から、ですか」
「ええ。突然こんなこと言ってごめんなさい、だけどやはり、実際に部屋の中を見させてもらわないと、御札を効果的に使ってもらうことができないから」
「……はあ」
 届いた生中を、熱田氏は威勢よく呷った。
 私はぼんやりとそのさまを眺めていた。
 その威勢のいい飲みっぷりが、ただこの女性の酒好きさを表すものなのか、それともこれから行う“ひと仕事”のために景気をつけるためのものなのか、わかるはずもなかった。
 私のマンションまでタクシーを使ってもらえるのかと若干期待していたが、そうは問屋が卸さないようだった。
 熱田氏はコツコツと高らかにヒールを鳴らし、威風堂々という勢いで駅へと向かった。
 恐らく浄霊団体から支給されたものと推測されるICカードを改札に通し、私の後からホームへ上がるエスカレーターに乗る。
「足元に気をつけてね」
 まるで母親のように、私の背後から注意を促す。
 電車は空いていて、私と熱田氏は人一人分の距離を置き並んで座った。
「あれから考えてみたんだけどね」
 熱田氏は、電車が動き出して少しすると口火を切った。
「どうも、わからないのよ」
「何がですか」
 私は訊ねた。
「正体が、よ」
 そう言って熱田氏は、私の方を見た。
「正体?」
 私も熱田氏を見た。
「ええ。哺乳霊だということはわかったんだけれど、人間なのか動物なのか、どうしても判断がつかないの」
「そうなんですか」
「いつもなら、初回の照射でほぼ特定できるものなんだけどね」
 熱田氏は何事か思いめぐらせるように、顎に手を当てまた正面を向いた。
「照射……あ」
 私の脳裏をファミリーレストランでの光景がよぎった。思わずえずきそうになり、 慌てて私も正面を向いた。
「あの、セルライトビームでしたっけ」
「熱田スペシウムよ」
 熱田氏は私を見ずに答えた。私はハッと硬直し、私もまた熱田氏を見ることができなかった。
 タタン、トトン、という電車の音の中、我々は沈黙の時を過ごした。
 やがて電車は私の降りるべき駅に、いつも通り何のつまずきもなく到着した。
 特段の会話もないまま、我々は降り立ち、改札を抜けた。
 すっかり静まり返った町中を数分ほど歩き、見慣れた居住ビルに到着する。
 階段を昇り、私は取り出した鍵を回してドアを引いた。

「どうしてこんなことするの?」

 突然女の声が聞え、私はハッと顔を上げた。
 真っ暗な部屋――暗闇が、目に入る。
 誰かいるのか?
「どうしたの?」
 熱田氏の声が、背後から聞えた。
「入らないの――何か、気になる?」
 職業的な勘というのか、熱田氏は、恐らく彼女には聞えなかっただろう声を私が捕らえたことを推察したようだった。彼女は私の横から首を伸ばして暗い部屋の中を覗きこんだ。
「何か、見えた?」
「い、いえ……」
 私は、言うべきなのかどうか、一瞬迷った。幻聴なのかも知れない。
「気配を感じたとか? 何か聞えたとか?」
 熱田氏はさらに追及してきた。
「あの……声が」
「声」
 熱田氏は、私を見た。
 私も熱田氏を見、かすかに頷いた。
「どんな?」
「――女性の声、が」
 私は、なんとなく声をひそめて答えた。
 熱田氏は、暗い部屋の奥に再度目をやり、しばらく凝視していたが、やがて小首を傾げて
「変ね」
と呟いた。
「何がですか」
 私は訊ねた。
「女性の霊なんて、感じないわ」
「……」

「どうしてこんなことするの?」

 疲弊しきったような、かすれた声。
 声音からは、若い世代――二十代くらいの女と思われる。
 泣きながら訴える声だったのかも知れない、そんな風な、今にも切れてしまいそうにか細い、か弱い声だった。
 私の耳には、判然と届いたのだ。
 私は、顔を横に向けた。
 どこか近所の部屋から聞えたのだろうかと一瞬思ったのだ。

「こんばんは」

 先日、玄関先で逡巡する私に声をかけてきた主婦の姿が浮かんだ。
 だが、違うと思った。
 あの主婦は、少なくとも四十代あたりに見えたし、声質もまったく違う。
 それに第一、近所からの声ならば熱田氏にも感知できたはずだ。
 暗く、静かな部屋からは、もう何も聞えてこなかった。
 私は熱田氏の視線に促され、中に入った。
 灯りをつける。
 日常通りの、自分の部屋だった。
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