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第20話(了)
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「終わりましたよー」
熱田氏の声で、私は目を開けた。
のろのろと起き上がると、最初に、玉の汗を浮かべて今にも気絶しそうに茫然としている森下氏の顔が目に入った。
そんなに、体力を使ったのか。
私には意外に思われた。
経を唱えたり、あきみの兄貴に語りかけたりしているのは薄らぼんやりと聞えていたが、そんなに大変な作業だとは思いもしなかった。
精神的重労働だったということか。
それはそうだろう。
なにしろ“浄霊”をしたのだから。
それは確かに、簡単なものではなかったはずだ。
「お疲れす」森下氏は、心配そうに見つめる私に二センチほど会釈し、部屋の隅に歩いていった。
森下氏の後ろにいた熱田氏の姿が、今度は目に入った。
「えーと、まず」熱田氏は、熱田スペシウムを放ち続けていたのであろう方の腕をさすりながら、私に訊いてきた。「あなたのお名前は?」
「堺田篤司です」私は答えた。
「うん」熱田氏はニッコリと微笑んだ。「戻ってきたわね。自分自身が」
「え?」私は、眉を上げて訊き返した。
「あなたの脳みそはずっと、あきみさんのお兄さんに乗っ取られていたのよ」熱田氏は、私の頭を指差した。「よね?」森下氏に確認する。
森下氏は汗を拭いているところで、タオルの下から片目だけ覗かせ、こくりと頷いた。
「そしてお兄さんは、その状態であなたに、制裁を加えていた――つまり足で蹴られているというイメージを、あなたの脳みその中に投影させていたと、そういうことよ」
「――すべて、幻だった、と」私は茫然と、呟くように言った。
「感覚とか知覚とかは本物だったはずっすよ。痛みとか」森下氏がタオルを首に巻きながら答える。「脳では実際に、足も見えていた。けど、本当には存在しないから、触ることはできなかった」
「それで、あなた自身は単なる操り人形として、自分の名前も、あきみさんの顔も声も、忘れさせられていたということよ」
「ていうか、記憶貯蔵庫から検索する権限を制御されてたんす」
「――」私は目をしばたたかせた。
「森下君が言うと、話が小難しくなるからいいわ」熱田氏が、彼女にしては珍しく眉をひそめた。
森下氏は若干唇をとがらせながら、眼鏡をかけ直した。
「それで、時々お兄さんの呪縛が緩んだときに、あなた自身が目を覚まして、その隙間で今回の浄霊の依頼にこぎつけた、というわけよ。まあよかったわね」熱田氏は私の上腕をぱしぱし叩きながら、(恐らく)ねぎらってくれた。「ところで、あなたボーナス月はいつ?」それから熱田氏は唐突に問いかけてきた。
「……」私はすぐに答えられずにいた。「7月と、12月です」やがて、私は質問に対する答えを発することができた。
私の内部に、脳の中に、現実世界というものが蘇りつつある。という実感が、不意に私の体を包みこんだ。
「そう」熱田氏は頷いた。「今回の件は、あなた自身の過失分の追加料金が発生するから」まっすぐに私を見ながら、特に他意もなくさらさらと事務的に話す。
私の方はただうなだれて「はい」と神妙に答えるしかなかった。
元カノ、あきみの、怯えた顔が脳裏に浮かぶ――
だがもう、声は聞えてこなかった。
あの声も、あきみの兄貴が聞かせていたものだったのか。
「まあ、後で請求明細を送るわね。それから、と」熱田氏は、今度は森下氏の方を見た。「森下君、あきみさんのマンションの位置、わかる?」
「……はぇ」森下氏が答えた。
久しぶりに聞く、紛れもない森下氏の、やる気のなさそうな返事だ。
「明日にでも、スカウトしに行きましょう。彼女の能力、使えそうだし」熱田氏はてきぱきと計画を述べた。「君、まだ今月の勧誘ノルマ、達成してないでしょ」
「ぁぇ」森下氏は足元を見、消え入りそうな声で返事した。
なるほど。私は小さく頷いた。
ノルマ、か。
霊媒師の世界も、なかなか大変なのだろう。
森下氏に、少しだけ同情を覚えた。
お礼というわけでもないが、何か私に、手伝えることがあれば。
「あの」私は思い切って提案の言葉をかけた。「私……あきみに、話してみましょうか、その……スカウトの、件」
熱田氏と森下氏が一斉に私を見た。
思わず、薄ら笑いを浮かべてしまう。恐らく卑屈を絵に描いたような顔をしているのだろう、今の私は。
「結構よ」熱田氏がきっぱりと答える。「ちょっと、あなたの携帯を貸してもらえる?」
私は、がっかりしなかったといえば嘘になるが、ともかく指示の通り携帯を手渡した。
熱田氏はそれをそのまま森下氏に手渡し、「消して」と言った。
「はぇ」森下氏が素早く操作をする。
消すって……あ。
私が気づいた時にはすでにそれは“消された”らしく、森下氏は私の携帯を私に差し出した。
慌てて、アドレス帳を開く。「さ行」のところだ。
確かに、里野あきみのデータはきれいに消されていた。
「あなたはもう二度と、あきみさんに近づかないこと」熱田氏はまっすぐに私を見て言った。「もうおわかりと思うけど、今回DVを行っていたのはあきみさんのお兄さんの“足”ではなく、そもそもあなた自身だったということ。今後あきみさんに近づいたら、今度は私たちが、あなたに“制裁”を加えることになります。いいわね?」
「……はい」
私は頷き……というか深く頭を垂れ、承知した。
制裁。
その言葉の威力は意外なほどに強く、私はひとことで言えば
「もう、たくさんだ」
と、思っていた。
兄貴の足蹴りにしろ。
森下氏のミドルキックにしろ。
熱田スペシウムにしろ。
そう、なんといっても、なにをおいても、熱田スペシウムなんて、もう。
たくさんだ。
「人と、神の中間の存在」不意に熱田氏はそう言い、私の部屋の天井付近をぐるりと見回した。「なるほどね。それだから、この部屋には、低級霊のようなものがまったく存在していなかったのね。あのお兄さんを、畏れて」
私も、熱田氏に倣って部屋を見回した。
私にとって、いつもの自分の部屋の光景であることに、なんら変わりはない。
「じゃ。お疲れさま」熱田氏は最後、ひときわ元気よく言葉をかけた。
そして茫然と見送る私を振り返ることもなく、熱田氏と森下氏は、部屋を出ていった。
部屋は真の意味で、静かになった。
◇◆◇
それ以来、足は一度も姿を見せていない。
その代わり、夜中寝ている時、ピシリ、ピシリという、いわゆる“ラップ音”が、聞えるようになった。
“低級霊”というものが、寄りつけるようになった、ということだろう。
まあ、よかったじゃないか。
妙な話かも知れないが、私は却ってその現象を、微笑ましいと感じるのだった。
少なくとも、こいつらは私に“痛み”を、もたらしたりしないからだ。
“浄霊”――する必要も、特にないだろう。
ピシリ。ピシリ。ピシリ。
ああ。
平和な、夜だ。
「理不尽」
という単語が、ふと私の脳裏に浮かんだ。
理不尽――なにが?
まったくもって、理にかなっている。
理不尽なことなんて、なんにもない。うん。
さあ、寝よう。
おやすみ。
あ き み
うふふふ。
〈了〉
熱田氏の声で、私は目を開けた。
のろのろと起き上がると、最初に、玉の汗を浮かべて今にも気絶しそうに茫然としている森下氏の顔が目に入った。
そんなに、体力を使ったのか。
私には意外に思われた。
経を唱えたり、あきみの兄貴に語りかけたりしているのは薄らぼんやりと聞えていたが、そんなに大変な作業だとは思いもしなかった。
精神的重労働だったということか。
それはそうだろう。
なにしろ“浄霊”をしたのだから。
それは確かに、簡単なものではなかったはずだ。
「お疲れす」森下氏は、心配そうに見つめる私に二センチほど会釈し、部屋の隅に歩いていった。
森下氏の後ろにいた熱田氏の姿が、今度は目に入った。
「えーと、まず」熱田氏は、熱田スペシウムを放ち続けていたのであろう方の腕をさすりながら、私に訊いてきた。「あなたのお名前は?」
「堺田篤司です」私は答えた。
「うん」熱田氏はニッコリと微笑んだ。「戻ってきたわね。自分自身が」
「え?」私は、眉を上げて訊き返した。
「あなたの脳みそはずっと、あきみさんのお兄さんに乗っ取られていたのよ」熱田氏は、私の頭を指差した。「よね?」森下氏に確認する。
森下氏は汗を拭いているところで、タオルの下から片目だけ覗かせ、こくりと頷いた。
「そしてお兄さんは、その状態であなたに、制裁を加えていた――つまり足で蹴られているというイメージを、あなたの脳みその中に投影させていたと、そういうことよ」
「――すべて、幻だった、と」私は茫然と、呟くように言った。
「感覚とか知覚とかは本物だったはずっすよ。痛みとか」森下氏がタオルを首に巻きながら答える。「脳では実際に、足も見えていた。けど、本当には存在しないから、触ることはできなかった」
「それで、あなた自身は単なる操り人形として、自分の名前も、あきみさんの顔も声も、忘れさせられていたということよ」
「ていうか、記憶貯蔵庫から検索する権限を制御されてたんす」
「――」私は目をしばたたかせた。
「森下君が言うと、話が小難しくなるからいいわ」熱田氏が、彼女にしては珍しく眉をひそめた。
森下氏は若干唇をとがらせながら、眼鏡をかけ直した。
「それで、時々お兄さんの呪縛が緩んだときに、あなた自身が目を覚まして、その隙間で今回の浄霊の依頼にこぎつけた、というわけよ。まあよかったわね」熱田氏は私の上腕をぱしぱし叩きながら、(恐らく)ねぎらってくれた。「ところで、あなたボーナス月はいつ?」それから熱田氏は唐突に問いかけてきた。
「……」私はすぐに答えられずにいた。「7月と、12月です」やがて、私は質問に対する答えを発することができた。
私の内部に、脳の中に、現実世界というものが蘇りつつある。という実感が、不意に私の体を包みこんだ。
「そう」熱田氏は頷いた。「今回の件は、あなた自身の過失分の追加料金が発生するから」まっすぐに私を見ながら、特に他意もなくさらさらと事務的に話す。
私の方はただうなだれて「はい」と神妙に答えるしかなかった。
元カノ、あきみの、怯えた顔が脳裏に浮かぶ――
だがもう、声は聞えてこなかった。
あの声も、あきみの兄貴が聞かせていたものだったのか。
「まあ、後で請求明細を送るわね。それから、と」熱田氏は、今度は森下氏の方を見た。「森下君、あきみさんのマンションの位置、わかる?」
「……はぇ」森下氏が答えた。
久しぶりに聞く、紛れもない森下氏の、やる気のなさそうな返事だ。
「明日にでも、スカウトしに行きましょう。彼女の能力、使えそうだし」熱田氏はてきぱきと計画を述べた。「君、まだ今月の勧誘ノルマ、達成してないでしょ」
「ぁぇ」森下氏は足元を見、消え入りそうな声で返事した。
なるほど。私は小さく頷いた。
ノルマ、か。
霊媒師の世界も、なかなか大変なのだろう。
森下氏に、少しだけ同情を覚えた。
お礼というわけでもないが、何か私に、手伝えることがあれば。
「あの」私は思い切って提案の言葉をかけた。「私……あきみに、話してみましょうか、その……スカウトの、件」
熱田氏と森下氏が一斉に私を見た。
思わず、薄ら笑いを浮かべてしまう。恐らく卑屈を絵に描いたような顔をしているのだろう、今の私は。
「結構よ」熱田氏がきっぱりと答える。「ちょっと、あなたの携帯を貸してもらえる?」
私は、がっかりしなかったといえば嘘になるが、ともかく指示の通り携帯を手渡した。
熱田氏はそれをそのまま森下氏に手渡し、「消して」と言った。
「はぇ」森下氏が素早く操作をする。
消すって……あ。
私が気づいた時にはすでにそれは“消された”らしく、森下氏は私の携帯を私に差し出した。
慌てて、アドレス帳を開く。「さ行」のところだ。
確かに、里野あきみのデータはきれいに消されていた。
「あなたはもう二度と、あきみさんに近づかないこと」熱田氏はまっすぐに私を見て言った。「もうおわかりと思うけど、今回DVを行っていたのはあきみさんのお兄さんの“足”ではなく、そもそもあなた自身だったということ。今後あきみさんに近づいたら、今度は私たちが、あなたに“制裁”を加えることになります。いいわね?」
「……はい」
私は頷き……というか深く頭を垂れ、承知した。
制裁。
その言葉の威力は意外なほどに強く、私はひとことで言えば
「もう、たくさんだ」
と、思っていた。
兄貴の足蹴りにしろ。
森下氏のミドルキックにしろ。
熱田スペシウムにしろ。
そう、なんといっても、なにをおいても、熱田スペシウムなんて、もう。
たくさんだ。
「人と、神の中間の存在」不意に熱田氏はそう言い、私の部屋の天井付近をぐるりと見回した。「なるほどね。それだから、この部屋には、低級霊のようなものがまったく存在していなかったのね。あのお兄さんを、畏れて」
私も、熱田氏に倣って部屋を見回した。
私にとって、いつもの自分の部屋の光景であることに、なんら変わりはない。
「じゃ。お疲れさま」熱田氏は最後、ひときわ元気よく言葉をかけた。
そして茫然と見送る私を振り返ることもなく、熱田氏と森下氏は、部屋を出ていった。
部屋は真の意味で、静かになった。
◇◆◇
それ以来、足は一度も姿を見せていない。
その代わり、夜中寝ている時、ピシリ、ピシリという、いわゆる“ラップ音”が、聞えるようになった。
“低級霊”というものが、寄りつけるようになった、ということだろう。
まあ、よかったじゃないか。
妙な話かも知れないが、私は却ってその現象を、微笑ましいと感じるのだった。
少なくとも、こいつらは私に“痛み”を、もたらしたりしないからだ。
“浄霊”――する必要も、特にないだろう。
ピシリ。ピシリ。ピシリ。
ああ。
平和な、夜だ。
「理不尽」
という単語が、ふと私の脳裏に浮かんだ。
理不尽――なにが?
まったくもって、理にかなっている。
理不尽なことなんて、なんにもない。うん。
さあ、寝よう。
おやすみ。
あ き み
うふふふ。
〈了〉
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