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第十四章
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「そんなところがヘレンにそっくりなんだ」
ヘレンとは亡き母の名だ。母が亡くなってから、父からその名を聞くのはもう随分久しぶりのことだった。
言葉だけなら冷たいものだが、父の声音にはどこか懐かしむような響きがあった。だからだろう、そんな父の言葉にクローディアは不思議な可笑しみを感じた。
それから思った。
なんだ、母はクローディアが思っていたよりも、もっとずっとはっきりした気質の女性だったんだ。
クローディアの記憶の母は薄い。そんな母の生きた姿を、ほんの少し垣間見たように思えて嬉しくなった。
「話は終わりだ」
その言葉でクローディアはソファから立ち上がった。
「それではご機嫌よう。バークリー伯爵様」
恭しく挨拶をした。執事が表情を固くしたのがわかったが、どうでも良いと思った。
父は座っていたから、自然とクローディアを見上げる形になった。父を見下ろすつもりはなかったが、最後くらいよいだろう。
そう考えた途端、気持ちが緩んでしまったのか、クローディアは薄っすらと笑みを浮かべた。
そのあと父がどんな顔をしたかは見ていない。執事が扉を開く時にも、目の前の扉しか見ていなかった。執事が何か言いたそうな風にしていたが、知ったこっちゃないと思った。
みんな、言いたいことがあるのなら、はっきり言えばよいのだ。クラウスを手本にして、正直に言葉に出して言えばよいのだ。
察してくれだの忖度しろだの、そんなのは貴方たちで勝手にやってくれ。
クローディアは、些かやさぐれていた。
だが内心では、自分にもこんな強気な一面があるのかと思った時に、ああ、自分は母に似たのだと気がついた。
道理で愛されなかった筈だ。でも、もう構わない。クローディアはちゃんと育ててもらったし、もう既に生家を出た身だ。
そう思えば、寧ろ気分は清々しくもあった。
開いた扉から出た先に、義母が待っていた。隣にはリリベットもいる。
彼女は言いつけたつもりなど無かったろうから、自分の迂闊な一言が原因となって嫁いだ姉が呼び出され、父に叱られたのだと思ったのだろう。
切ない傷を残してしまった。だが、その心の傷が、生涯リリベットのささやかなストッパーとなって、彼女の言動を導いてくれれば良いと思った。
「リリベットから聞きました。申し訳ないことをしたわ」
義母は父とは別の事を考えたのだろう。リリベットが、他家で叱責されて泣き出したことよりも、その理由に重きを置いた。
「侍女は替えるわ。彼女は私付きにしてもらいます」
使用人を差配するのは夫人の役目である。だが、義母は異動はさせられても雇い入れや退職の権限までは持たされていない。リリベット付きの侍女を自分付きにするくらいしか対処は出来ないようだった。
クローディアは、義母の後ろに控える侍女に目を向けた。
真逆、こんな大事になると思わなかったのだろう。侍女は青い顔をして俯いていた。
「ハンナ。主人に伝える言葉には注意なさい。相手が私だと侮った?これが血筋ではない他家であったなら、ロナルドの代でこの家は、大切な繋がりを一つ失うことになるのよ。発言には責任を持って頂戴。主人が誤った行動をしたなら貴女が諌めなくてどうするの」
大きな声ではなかったが、クローディアの声はよく通る。少しばかり低めの声は、ブルーグレーの瞳のように、薄暗い空から落ちる雨音のような不思議な静けさを持っていた。
侍女は蒼白になって頭を下げた。ロナルドとはクローディアの異母弟で、この家の嫡男だ。彼の名まで出てしまって、侍女は声が出なくなったのか何も言えずにいた。
長子のクローディアを侮る気持ちはなかっただろうが、父と義母に愛されているリリベット付きの侍女になった慢心があったのは確かだろう。
用は済んだとばかりに、クローディアは勝手知ったる邸内を早歩きになって、玄関ホールへ向かった。
「お、お姉様」
驚いたことに、リリベットが駆け足で追いかけてきた。あの子走れたの?咄嗟に思い浮かんだのはそんなことだった。
「お姉様、ごめんなさい」
リリベットは、ここにはいないアンネマリーに詫びることは出来ない。その言葉をクローディアに告げた。
「わかっているわ、貴女が考えなしに言ったことなんて。でもリリベット。失敗は一度までよ。貴女は、何度も間違ってよい身分ではないわ」
リリベットは、こくんと頷いた。眦が紅く染まっている。
「もう会えないの?」
クローディアが父と半ば絶縁したことをリリベットは知らないから、その言葉はアンネマリーのことだと思った。
「アンネマリーに先触れを出せば会えるわ。その時には、貴女が文を書きなさい。宛名はアンネマリーよ。アンネマリー宛の文はアンネマリーが読むわ」
クローディアは、一歩踏み出してこちらを見上げるリリベットに近寄った。それから右手を伸ばして、リリベットの頬をゆっくり撫でた。
この子は誰かに頬を撫でてもらったことはあるだろうか。愛されている子だ。寧ろ慣れているのだろう。
クローディアは、この家を出てローレンスに頬を撫でてもらった時が初めてだった。それに気がついたのもその時で、思わず涙が滲んだのだ。
この子は日向に生きている。大きな窓から日射しが差し込み、リリベットの淡い金の髪を照らしていた。
途端に脳裏に浮かんだのはアンネマリーだった。
帰ろう。
取り敢えず、今の自分には帰る家がある。クローディアは生まれ育った生家に背を向けて、玄関ホールから外へ出た。
ヘレンとは亡き母の名だ。母が亡くなってから、父からその名を聞くのはもう随分久しぶりのことだった。
言葉だけなら冷たいものだが、父の声音にはどこか懐かしむような響きがあった。だからだろう、そんな父の言葉にクローディアは不思議な可笑しみを感じた。
それから思った。
なんだ、母はクローディアが思っていたよりも、もっとずっとはっきりした気質の女性だったんだ。
クローディアの記憶の母は薄い。そんな母の生きた姿を、ほんの少し垣間見たように思えて嬉しくなった。
「話は終わりだ」
その言葉でクローディアはソファから立ち上がった。
「それではご機嫌よう。バークリー伯爵様」
恭しく挨拶をした。執事が表情を固くしたのがわかったが、どうでも良いと思った。
父は座っていたから、自然とクローディアを見上げる形になった。父を見下ろすつもりはなかったが、最後くらいよいだろう。
そう考えた途端、気持ちが緩んでしまったのか、クローディアは薄っすらと笑みを浮かべた。
そのあと父がどんな顔をしたかは見ていない。執事が扉を開く時にも、目の前の扉しか見ていなかった。執事が何か言いたそうな風にしていたが、知ったこっちゃないと思った。
みんな、言いたいことがあるのなら、はっきり言えばよいのだ。クラウスを手本にして、正直に言葉に出して言えばよいのだ。
察してくれだの忖度しろだの、そんなのは貴方たちで勝手にやってくれ。
クローディアは、些かやさぐれていた。
だが内心では、自分にもこんな強気な一面があるのかと思った時に、ああ、自分は母に似たのだと気がついた。
道理で愛されなかった筈だ。でも、もう構わない。クローディアはちゃんと育ててもらったし、もう既に生家を出た身だ。
そう思えば、寧ろ気分は清々しくもあった。
開いた扉から出た先に、義母が待っていた。隣にはリリベットもいる。
彼女は言いつけたつもりなど無かったろうから、自分の迂闊な一言が原因となって嫁いだ姉が呼び出され、父に叱られたのだと思ったのだろう。
切ない傷を残してしまった。だが、その心の傷が、生涯リリベットのささやかなストッパーとなって、彼女の言動を導いてくれれば良いと思った。
「リリベットから聞きました。申し訳ないことをしたわ」
義母は父とは別の事を考えたのだろう。リリベットが、他家で叱責されて泣き出したことよりも、その理由に重きを置いた。
「侍女は替えるわ。彼女は私付きにしてもらいます」
使用人を差配するのは夫人の役目である。だが、義母は異動はさせられても雇い入れや退職の権限までは持たされていない。リリベット付きの侍女を自分付きにするくらいしか対処は出来ないようだった。
クローディアは、義母の後ろに控える侍女に目を向けた。
真逆、こんな大事になると思わなかったのだろう。侍女は青い顔をして俯いていた。
「ハンナ。主人に伝える言葉には注意なさい。相手が私だと侮った?これが血筋ではない他家であったなら、ロナルドの代でこの家は、大切な繋がりを一つ失うことになるのよ。発言には責任を持って頂戴。主人が誤った行動をしたなら貴女が諌めなくてどうするの」
大きな声ではなかったが、クローディアの声はよく通る。少しばかり低めの声は、ブルーグレーの瞳のように、薄暗い空から落ちる雨音のような不思議な静けさを持っていた。
侍女は蒼白になって頭を下げた。ロナルドとはクローディアの異母弟で、この家の嫡男だ。彼の名まで出てしまって、侍女は声が出なくなったのか何も言えずにいた。
長子のクローディアを侮る気持ちはなかっただろうが、父と義母に愛されているリリベット付きの侍女になった慢心があったのは確かだろう。
用は済んだとばかりに、クローディアは勝手知ったる邸内を早歩きになって、玄関ホールへ向かった。
「お、お姉様」
驚いたことに、リリベットが駆け足で追いかけてきた。あの子走れたの?咄嗟に思い浮かんだのはそんなことだった。
「お姉様、ごめんなさい」
リリベットは、ここにはいないアンネマリーに詫びることは出来ない。その言葉をクローディアに告げた。
「わかっているわ、貴女が考えなしに言ったことなんて。でもリリベット。失敗は一度までよ。貴女は、何度も間違ってよい身分ではないわ」
リリベットは、こくんと頷いた。眦が紅く染まっている。
「もう会えないの?」
クローディアが父と半ば絶縁したことをリリベットは知らないから、その言葉はアンネマリーのことだと思った。
「アンネマリーに先触れを出せば会えるわ。その時には、貴女が文を書きなさい。宛名はアンネマリーよ。アンネマリー宛の文はアンネマリーが読むわ」
クローディアは、一歩踏み出してこちらを見上げるリリベットに近寄った。それから右手を伸ばして、リリベットの頬をゆっくり撫でた。
この子は誰かに頬を撫でてもらったことはあるだろうか。愛されている子だ。寧ろ慣れているのだろう。
クローディアは、この家を出てローレンスに頬を撫でてもらった時が初めてだった。それに気がついたのもその時で、思わず涙が滲んだのだ。
この子は日向に生きている。大きな窓から日射しが差し込み、リリベットの淡い金の髪を照らしていた。
途端に脳裏に浮かんだのはアンネマリーだった。
帰ろう。
取り敢えず、今の自分には帰る家がある。クローディアは生まれ育った生家に背を向けて、玄関ホールから外へ出た。
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