クローディアの物語

桃井すもも

文字の大きさ
16 / 48

第十六章

しおりを挟む
「ブラッキーに会いたいわ」
「バリオスでしょう」
「心の中ではブラッキーだわ」
「心の声が口から出ているわよ」

 その日は朝から天気が良くて、夏の空気が清々しい日だった。
 あれだけ匂いだなんだと嫌がっていたアンネマリーが、バリオスに会いたいと言い出したのは、夏の青空に誘われたのだろう。

 ローレンスの朝は早い。騎士を退いてからも彼は剣の稽古を怠らないし、暑くなる前に馬たちの下へ向かう。
 そんなローレンスに合わせて、クローディアも随分と早起きになっていた。

 王都の貴族夫人の起床は遅い。
 それは茶会の他に夜会や晩餐会といった社交が多いからで、夜更けに帰宅して翌日は正午の少し前に起きるということも珍しくない。

 だが、この家は社交から随分長いこと離れており、クローディアが嫁いでからも二人揃って夜会に出席したことは一度もなかった。
 流石にクローディアは、お茶会には出席していたが、それだって片手で数えるほどだ。

 曰く付きの伯爵家に、曰く付きの伯爵令嬢が嫁いだことを、周囲は興味を抱いていたようだが、ローレンスは領主として手堅く事業の運営をしていたし、何より王家が結んだ縁に茶々を入れる愚かな家は貴族の中でもそれほど多くはなかった。

 つまり、居るには居る愚かな家から届いた茶会や夜会の招待状は、そのまま厨房の熾火に焚べられ処分されていた。


 そんな訳で、夫妻の朝が早ければアンネマリーもまた早起きだった。それで、朝からバリオスに会いたいと言い出した。

 ローレンスは、出掛ける前にバリオスの世話をする。汚れることも厭わずに、かつて戦場を駆け抜けた黒馬の毛を丁寧にいてやる。

 クローディアはアンネマリーに強請られてバリオスに会いにきた際に、そんなローレンスの姿に睦事の最中にクローディアの髪を梳く彼を思い出した。
 クローディアの黒髪を指先で梳きながら、自分と黒馬を一緒にしているのだろうかと、朝っぱらから艶事を思い浮かべてしまった。

 バリオスが雄馬で良かったなどと思ったところで、馬にそんな感情を抱くなんて自分は可怪しくなったのかと戸惑った。
 そこで想像してしまったのは、もし仮に、ローレンスがどこかクローディアの知らないところで他の女の髪を梳いたら、どんな気持ちになるのだろうということだった。
 考えた先から、何故そんなことを考えているのかと困惑した。だがそれも、

「ブラッキー!」

 アンネマリーの大声に遮られた。

「バリオスよ、アンネマリー。心の声が漏れてるわ」
「でも振り向いたわ」

 あれだけ大声で呼べば、耳の良い馬なら気づくだろう。

 アンネマリーを連れて行くことはローレンスに話していたから、厩舎を囲む柵の前に立つ二人にローレンスはもっと近くへと手招きした。

「臭いって言っちゃ駄目よ。貴女が自分で来たいと言ったのだから。何よりバリオスは耳も良ければ目も良いわ。貴女が失礼な態度を取ったら、きっと彼、貴女のことを無視するわ」
「真逆」
「馬は賢いのよ。それにバリオスは神馬の名を与えられた馬よ。神通力くらい持ってるのではないかしら」

 十歳の少女にこれほど脅しをかける自分のほうが幼稚に思うも、ローレンスの前で匂いが嫌だなどと言ったなら、アンネマリーは厩舎出禁になるかもしれない。
 クローディアは、用心に用心を重ねてアンネマリーに釘を刺したのであった。

「ブラッキー」「バリオスよ」

 可怪しな二人が来たことを、バリオスは耳だけこちらに向けて偵察するようだった。
 ローレンスに毛を梳かれているのがよほど気持ちが良いのか、自分と同じ黒髪の夫人と少女をすっかり無視していた。

「アンネマリー、良いこと。見てらっしゃい」

 実のところ、クローディアは怖かった。
 バリオスは巨体である。軍馬としては務めを果たせずとも、見上げるほどの大きな身体をしており、家畜などという言葉は彼には当て嵌まらないと思った。

 大きな身体は瞳も大きく、涙を湛えたようなあの瞳を見つめていると、本当に彼が神の遣いに思えてくる。

 畏怖にも似た恐怖感を胸の奥に押し込めて、クローディアは一歩また一歩とバリオスに近付いた。そんなクローディアを、アンネマリーははっきりとわかるほど尊敬の眼差しで見ている。あの瞳の前でもう後戻りなどできはしない。

 ローレンスは、そんなクローディアを面白そうに見ていた。クローディアが内心ではおっかなびっくりビビりまくっているのを知りながら、敢えて止めようとはせずに静観している。

「んっんっ。ご機嫌よう、バリオス」

 どこの貴族に挨拶しているのかという言葉に、脇に控えていた使用人が小さく吹き出した。だが彼を窘める余裕は、今のクローディアには無かった。

 そんなクローディアを、バリオスはじっと見ていた。あの歯で噛まれたなら、物理で大怪我をしそうだと思う。クローディアは気合を込めてワンピースのポケットに手を入れた。

「あ、貴方に贈り物があるの」

 どもってしまった。堪らずローレンスが横で吹き出した。

 そんなローレンスを横目でキッと睨んで、それからクローディアは恐る恐る手を差し出した。拳を差し出すクローディアを、賢いバリオスは彼女がこの先することを、ちゃんとわかっていた。

 バリオスの鼻先で、クローディアは差し出した拳をひっくり返し、そのままゆっくり手の平を開いた。その手の中には飴玉ほどの黒い塊がある。黒砂糖の欠片だ。

 バリオスは、黒砂糖が大好物なのだと使用人が教えてくれた。ローレンスには内緒で黒砂糖賄賂を用意していたのだが、彼は既に知っているようだった。

 べろんと手の平を舐められた。

 《ぎゃー》

 心の声は胸のうちに押し込めた。腹に力を込めて恐怖を耐えたが、上手に黒砂糖を舐め取ったバリオスは、カランコロンと口の中で黒砂糖を転がして、もうクローディアなどどうでも良いというようだった。

「た、楽しんでる……」

 馬なのに、大好物を味わって楽しんでいる。
 いつの間にか、アンネマリーが隣にきていた。彼女もまた、巨体の黒馬が小さな黒砂糖の塊を目を細めて嬉しそうに舐めるのを、驚愕の眼差しで見つめていた。

「二人とも、口を閉じたらどうだ」

 ぽかんと口を開けていたらしいクローディアとアンネマリーに、ローレンスが笑いを堪えるように言った。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

結婚後、訳もわからないまま閉じ込められていました。

しゃーりん
恋愛
結婚して二年、別邸に閉じ込められていたハリエット。 友人の助けにより外に出ることができ、久しぶりに見た夫アルバートは騎士に連行されるところだった。 『お前のせいだ!』と言われても訳がわからなかった。 取り調べにより判明したのは、ハリエットには恋人がいるのだとアルバートが信じていたこと。 彼にその嘘を吹き込んだのは、二人いたというお話です。

婚約破棄されたのでファンシーショップ始めました。 ― 元婚約者が、お人形さんを側室にしようとして大恥をかきました ―

鷹 綾
恋愛
隣国の王子から「政略的にも個人的にも魅力を感じない」と婚約破棄された、ファンタジア王国第三女王タナー。 泣きも怒りもせず、彼女が考えたのは――「いつか王宮の庇護がなくなっても困らない生き方」だった。 まだ八歳。 それでも先を見据え、タナーは王都の片隅で小さなファンシーショップを開くことを決意する。 並ぶのは、かわいい雑貨。 そして、かわいい魔法の雑貨。 お茶を淹れてくれるクマのぬいぐるみ店員《テイデイ・バトラー》、 冷めないティーカップ、 時間になると小鳥が飛び出すアンティーク時計――。 静かに広がる評判の裏で、 かつての元婚約者は「お人形さんを側室にしようとして」赤っ恥をかくことに。 ざまぁは控えめ、日常はやさしく。 かわいいものに囲まれながら、女王は今日も穏やかにお店を開けています。 --- この文面は ✔ アルファポリス向け文字数 ✔ 女子読者に刺さるワード配置 ✔ ネタバレしすぎない ✔ ほのぼの感キープ を全部満たしています。 次は 👉 タグ案 👉 ランキング用超短縮あらすじ(100字) どちらにしますか?

殿下、もう何もかも手遅れです

魚谷
恋愛
偉大なる国王が崩御した。 葬儀の場で、王太子アドルフォスは、父王が病床にいるのを良いことに国を思うがままにしようとする、婚約者である公爵令嬢ロザリンデと、その父である宰相を断罪しようと決意する。 全ては自分が次の王に相応しいことを、その場にいる全ての貴族たちに示すため。 アドルフォスは自分の勝利を信じて疑わなかった。 自分には、麗しい子爵令嬢で、数百年に一度生まれる聖女の力に覚醒したエレインという心強い味方がいるのだから。 勝利は揺るぎないはずだった……そう、アドルフォスの頭の中では。 これはひとつの国の終わりの物語。 ★他のサイトにも掲載しております ★13000字程度でサクッとお読み頂けます

婚約破棄されたので、戻らない選択をしました

ふわふわ
恋愛
王太子アルトゥールの婚約者として生きてきた 貴族令嬢ミディア・バイエルン。 だが、偽りの聖女シエナに心を奪われた王太子から、 彼女は一方的に婚約を破棄される。 「戻る場所は、もうありませんわ」 そう告げて向かった先は、 王都から遠く離れたアルツハイム辺境伯領。 権力も、評価も、比較もない土地で、 ミディアは“誰かに選ばれる人生”を静かに手放していく。 指示しない。 介入しない。 評価しない。 それでも、人は動き、街は回り、 日常は確かに続いていく。 一方、王都では―― 彼女を失った王太子と王政が、 少しずつ立ち行かなくなっていき……? 派手な復讐も、涙の和解もない。 あるのは、「戻らない」という選択と、 終わらせない日常だけ。

王子様への置き手紙

あおた卵
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯ 小説家になろうにも掲載しています。

【完結】私の望み通り婚約を解消しようと言うけど、そもそも半年間も嫌だと言い続けたのは貴方でしょう?〜初恋は終わりました。

るんた
恋愛
「君の望み通り、君との婚約解消を受け入れるよ」  色とりどりの春の花が咲き誇る我が伯爵家の庭園で、沈痛な面持ちで目の前に座る男の言葉を、私は内心冷ややかに受け止める。  ……ほんとに屑だわ。 結果はうまくいかないけど、初恋と学園生活をそれなりに真面目にがんばる主人公のお話です。 彼はイケメンだけど、あれ?何か残念だな……。という感じを目指してます。そう思っていただけたら嬉しいです。 彼女視点(side A)と彼視点(side J)を交互にあげていきます。

王太子に愛されないので、隣国王子に拾われました

鍛高譚
恋愛
「王太子妃として、私はただの飾り――それなら、いっそ逃げるわ」 オデット・ド・ブランシュフォール侯爵令嬢は、王太子アルベールの婚約者として育てられた。誰もが羨む立場のはずだったが、彼の心は愛人ミレイユに奪われ、オデットはただの“形式だけの妻”として冷遇される。 「君との結婚はただの義務だ。愛するのはミレイユだけ」 そう嘲笑う王太子と、勝ち誇る愛人。耐え忍ぶことを強いられた日々に、オデットの心は次第に冷え切っていった。だが、ある日――隣国アルヴェールの王子・レオポルドから届いた一通の書簡が、彼女の運命を大きく変える。 「もし君が望むなら、私は君を迎え入れよう」 このまま王太子妃として屈辱に耐え続けるのか。それとも、自らの人生を取り戻すのか。 オデットは決断する。――もう、アルベールの傀儡にはならない。 愛人に嘲笑われた王妃の座などまっぴらごめん! 王宮を飛び出し、隣国で新たな人生を掴み取ったオデットを待っていたのは、誠実な王子の深い愛。 冷遇された令嬢が、理不尽な白い結婚を捨てて“本当の幸せ”を手にする

この雪のように溶けていけ

豆狸
恋愛
第三王子との婚約を破棄され、冤罪で国外追放されたソーンツェは、隣国の獣人国で静かに暮らしていた。 しかし、そこにかつての許婚が── なろう様でも公開中です。

処理中です...