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終章
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伯爵令嬢アンネマリーは、それから三年後の春に侯爵夫人となった。
夫は王国の第三王子アンドリューで、アンネマリーとの婚姻と同時に臣籍降下して侯爵位を賜った。
黒が大好きなアンドリューは、婚姻式も黒衣で出席したいとゴネた痴れ者だが、誰よりも真っ直ぐ直情的にアンネマリーを愛した。
初めて睦んだ褥では、目出度くアンネマリーの秘密の花園に分け入ることを、この世でただ一人許された。
アンネマリーのお股を前に、「女神⋯⋯」と合掌したことは秘密である。
秘密の花園、快楽の扉、この世の楽園、めくるめくひととき。
愉楽と悦楽、天国の入り口。
アンネマリーを抱き締め、歓びのありとあらゆる行為を経験して、アンドリューはもう今すぐにでも死ねると思った。それくらい幸せだった。
そうして周囲の予想通り、アンネマリーは婚姻の翌々月には懐妊した。予想通り過ぎて誰も驚かなかった。
クローディアなんて、既に用意していたからとマタニティドレスを贈ってくれた。
「マタニティには詳しいのよ」
そうだろう。彼女の夫は朴念仁の鬼畜である。クローディアは妊婦の鑑だった。
因みに、子宝⑥と⑦はあれ以降も却下され続けている。
実の親を知らずに育った孤独なアンネマリーは、十歳のときから孤独知らずで育った。生家の伯爵家は今も弟妹たちで賑やかだし、厩舎は若い馬たちで犇めいている。
なにより侯爵家は騒々しくて、マリーマリーと朝から何回呼ぶんだというほどには、夫はアンネマリーに纏わりつく。
「マリー、今日はどこに行ってたんだ。所用で出掛けて帰って来たら君が居なかったときのあの衝撃。僕の胸は張り裂けそうだった」
「随分脆弱な胸なのね」
「ロンリーハートが泣いたんだ」
直情夫はポエマーでもあった。
「ブラッキーの仔馬を観に行ったの」
知能犯ブラッキー(正バリオス)はあれから愛妻に許されて、最近仔馬が生まれていた。
「黒毛の女の子なのよ、可愛かったわ。名付けを頼まれたの」
「ふうん。なんて名前にするんだい?」
「グレースよ」
「は?駄目だ駄目だ却下だ」
「え?なんで?」
「僕は君が女の子を産んだなら『グレース』にすると決めていたんだ」
「まあ!奇遇ね。お揃いだわ」
生まれてもいない娘と仔馬を同じ名にしようとする妻を、アンドリューは優しくねっとり抱き寄せた。粘着夫は妻の顔を見つめて近寄りすぎて、いつも大抵寄り目になる。
そんな夫を、アンネマリーは心から愛した。
「お互い、大変よね。粘着夫には苦労させられるわ」
この日ガゼボで向かい合うのはリリベットだった。彼女は前年、侯爵家の次男と婚姻していた。そして、彼女もまた現在懐妊中の身であった。
クローディアから贈られた色違いでお揃いのマタニティドレスを着て、二人は午後のお茶を楽しんでいた。
リリベットの夫は、例のクローディアに足を掛けられすっ転ばされたジョセフである。
クローディアの思った通り、彼はあれから人が変わった。日に日に花が開くように美しく凛々しく成長するリリベットの虜となった。
そんなジョセフはいっとき「自分はロリータコンプレックスなのではなかろうか」と悩んだが、「私を好きなだけでしょう」と十歳も年下のリリベットに言われて迷うことなく覚醒した。
彼もまた、粘着型に目覚めたのである。今ではリリベットの完全統治下に置かれ、脇目なんかどこにも振らない愛妻家となっている。残念ながら、アンドリューには一歩及ばなかったが。
粘着型と言えば。リリベットはそこで、ふと生家の弟を思い出した。
ロナルドもまた、幼い頃からアンネマリーに恋心を抱いていた。もっと熱烈ねっとりプッシュしていたら、アンネマリーはロナルドを選んだのだろうか。
その答えは既に、リリベット自身が弟に告げている。
『ロナルド。貴方、アンネマリーをあんなふうに見栄も恥も外聞もなく泥のように愛せるかしら。殿下は相当の粘着気質よ』
どこかで誰かが言ったような台詞だが、ローレンスとアンドリューは王国の粘着タイプ二大巨頭であるから、ノーマルタイプのロナルドには勝ち目はない。
ロナルドは今尚独身を通し婚約者も得ぬまま、生家で後継者として学んでいる。
クローディア。
アンネマリーとリリベットに多大な影響を与えた伯爵夫人。
クローディアは結局、最後までアンネマリーに「母」とは呼ばせなかった。
出会ったときからクローディアは、どこもなにも変わらずクローディアだった。アンネマリーをその背で護る、心強い母であり姉であり友人だった。
アンネマリーを孤独の泉から引き上げたのはクローディアだ。
「貴女と私、そんな間柄でもないでしょう。貴女にとって私はクローディア、私にとって貴女はアンネマリー。そんなふうで良いんじゃない?」
フランシスが生まれた頃に、呼び方を変えるべきかを尋ねれば、クローディアはそう言って笑ったのである。
アンドリューが妻バカ・軍馬バカと言ったローレンスに愛されたクローディアは、曇天の日に儚くなった。
「ひと足お先に失礼するわね」
そう言い遺した彼女は、出会いも去り際も清々しかった。彼女に失点があるのだとしたら、ローレンスをひとり遺して逝ったことか。
葬儀の日は朝から雨が降って、空はクローディアの瞳と同じ鼠色をしていた。
「お母様」
最後くらい良いじゃない。
棺に横たわるクローディアに、アンネマリーは呼びかけた。彼女がその人生で誰かを「母」と呼んだのは、それが最初で最後だった。
雨なのか涙なのか。ローレンスは顔面濡れ鼠だった。クローディアがいたならきっと、鼻水よ、と笑ってハンカチで拭ってくれただろう。
ローレンスは、妻の棺に向かって英霊にするように敬礼で見送った。
それから粘着型代表らしく、半年後には愛妻を追うように、黄泉への旅路についた。
完
夫は王国の第三王子アンドリューで、アンネマリーとの婚姻と同時に臣籍降下して侯爵位を賜った。
黒が大好きなアンドリューは、婚姻式も黒衣で出席したいとゴネた痴れ者だが、誰よりも真っ直ぐ直情的にアンネマリーを愛した。
初めて睦んだ褥では、目出度くアンネマリーの秘密の花園に分け入ることを、この世でただ一人許された。
アンネマリーのお股を前に、「女神⋯⋯」と合掌したことは秘密である。
秘密の花園、快楽の扉、この世の楽園、めくるめくひととき。
愉楽と悦楽、天国の入り口。
アンネマリーを抱き締め、歓びのありとあらゆる行為を経験して、アンドリューはもう今すぐにでも死ねると思った。それくらい幸せだった。
そうして周囲の予想通り、アンネマリーは婚姻の翌々月には懐妊した。予想通り過ぎて誰も驚かなかった。
クローディアなんて、既に用意していたからとマタニティドレスを贈ってくれた。
「マタニティには詳しいのよ」
そうだろう。彼女の夫は朴念仁の鬼畜である。クローディアは妊婦の鑑だった。
因みに、子宝⑥と⑦はあれ以降も却下され続けている。
実の親を知らずに育った孤独なアンネマリーは、十歳のときから孤独知らずで育った。生家の伯爵家は今も弟妹たちで賑やかだし、厩舎は若い馬たちで犇めいている。
なにより侯爵家は騒々しくて、マリーマリーと朝から何回呼ぶんだというほどには、夫はアンネマリーに纏わりつく。
「マリー、今日はどこに行ってたんだ。所用で出掛けて帰って来たら君が居なかったときのあの衝撃。僕の胸は張り裂けそうだった」
「随分脆弱な胸なのね」
「ロンリーハートが泣いたんだ」
直情夫はポエマーでもあった。
「ブラッキーの仔馬を観に行ったの」
知能犯ブラッキー(正バリオス)はあれから愛妻に許されて、最近仔馬が生まれていた。
「黒毛の女の子なのよ、可愛かったわ。名付けを頼まれたの」
「ふうん。なんて名前にするんだい?」
「グレースよ」
「は?駄目だ駄目だ却下だ」
「え?なんで?」
「僕は君が女の子を産んだなら『グレース』にすると決めていたんだ」
「まあ!奇遇ね。お揃いだわ」
生まれてもいない娘と仔馬を同じ名にしようとする妻を、アンドリューは優しくねっとり抱き寄せた。粘着夫は妻の顔を見つめて近寄りすぎて、いつも大抵寄り目になる。
そんな夫を、アンネマリーは心から愛した。
「お互い、大変よね。粘着夫には苦労させられるわ」
この日ガゼボで向かい合うのはリリベットだった。彼女は前年、侯爵家の次男と婚姻していた。そして、彼女もまた現在懐妊中の身であった。
クローディアから贈られた色違いでお揃いのマタニティドレスを着て、二人は午後のお茶を楽しんでいた。
リリベットの夫は、例のクローディアに足を掛けられすっ転ばされたジョセフである。
クローディアの思った通り、彼はあれから人が変わった。日に日に花が開くように美しく凛々しく成長するリリベットの虜となった。
そんなジョセフはいっとき「自分はロリータコンプレックスなのではなかろうか」と悩んだが、「私を好きなだけでしょう」と十歳も年下のリリベットに言われて迷うことなく覚醒した。
彼もまた、粘着型に目覚めたのである。今ではリリベットの完全統治下に置かれ、脇目なんかどこにも振らない愛妻家となっている。残念ながら、アンドリューには一歩及ばなかったが。
粘着型と言えば。リリベットはそこで、ふと生家の弟を思い出した。
ロナルドもまた、幼い頃からアンネマリーに恋心を抱いていた。もっと熱烈ねっとりプッシュしていたら、アンネマリーはロナルドを選んだのだろうか。
その答えは既に、リリベット自身が弟に告げている。
『ロナルド。貴方、アンネマリーをあんなふうに見栄も恥も外聞もなく泥のように愛せるかしら。殿下は相当の粘着気質よ』
どこかで誰かが言ったような台詞だが、ローレンスとアンドリューは王国の粘着タイプ二大巨頭であるから、ノーマルタイプのロナルドには勝ち目はない。
ロナルドは今尚独身を通し婚約者も得ぬまま、生家で後継者として学んでいる。
クローディア。
アンネマリーとリリベットに多大な影響を与えた伯爵夫人。
クローディアは結局、最後までアンネマリーに「母」とは呼ばせなかった。
出会ったときからクローディアは、どこもなにも変わらずクローディアだった。アンネマリーをその背で護る、心強い母であり姉であり友人だった。
アンネマリーを孤独の泉から引き上げたのはクローディアだ。
「貴女と私、そんな間柄でもないでしょう。貴女にとって私はクローディア、私にとって貴女はアンネマリー。そんなふうで良いんじゃない?」
フランシスが生まれた頃に、呼び方を変えるべきかを尋ねれば、クローディアはそう言って笑ったのである。
アンドリューが妻バカ・軍馬バカと言ったローレンスに愛されたクローディアは、曇天の日に儚くなった。
「ひと足お先に失礼するわね」
そう言い遺した彼女は、出会いも去り際も清々しかった。彼女に失点があるのだとしたら、ローレンスをひとり遺して逝ったことか。
葬儀の日は朝から雨が降って、空はクローディアの瞳と同じ鼠色をしていた。
「お母様」
最後くらい良いじゃない。
棺に横たわるクローディアに、アンネマリーは呼びかけた。彼女がその人生で誰かを「母」と呼んだのは、それが最初で最後だった。
雨なのか涙なのか。ローレンスは顔面濡れ鼠だった。クローディアがいたならきっと、鼻水よ、と笑ってハンカチで拭ってくれただろう。
ローレンスは、妻の棺に向かって英霊にするように敬礼で見送った。
それから粘着型代表らしく、半年後には愛妻を追うように、黄泉への旅路についた。
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