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第一章
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「旦那様は、今日もお戻りにならないのかしら」
「はい、奥様。先ほど使いが参りまして、本日もお泊まりになるとのことです」
「そう」
サフィリアの問い掛けに、執事は夫が今宵も帰宅しないことを告げた。
多忙な夫が勤めから戻らないのはよくあることで、今回はこれで三日連続となる。
サフィリアは小さく溜め息をついた。小さ過ぎて誰にもわからなかったと思う。どこかでほっとしている。夫の不在を喜ぶなんて、なんと不出来な妻だろう。
それも仕方のないことだとサフィリアは思う。夫を忌み嫌っている訳ではない。あの夫のどこにも嫌える要素は見当たらない。
寧ろ疎まれているのは自分のほうだ。
「それではお着替えをお届けしようかしら」
「奥様がお届けなされば、旦那様のお疲れもさぞ癒されることでしょう」
そうだろうか。全くそんなことは思えなかった。
執事は心優しいから、こんな風にいつも不出来な夫人をやんわり持ち上げてくれる。
「奥様、奥様特製のクッキーをお待ちになっては如何でしょうか。旦那様は奥様のお作りになるクッキーがお好きですから」
侍女頭の言葉に、この女性はなんて優しいのだろうと毎度のように思う。
王都の有名菓子店から取り寄せることは容易いのに、わざわざ何の変哲もないサフィリアの焼くクッキーに「特製」だなんて名をつけてくれる。
「雀の餌付けに最適ね」
彼処には雀が多く住んでいる。サフィリアもよくパン屑をあげるのだが、あの子たちはサフィリアの顔をすっかり憶えて、サフィリアが現れれば直ぐに集まる。
あんな風に夫もサフィリアの焼いたクッキーで餌付けしているのかもしれない。それで激務に疲れた心が癒されるのなら、いくらでも焼いて差し上げよう。
サフィリアの中には、手ずから作った焼き菓子が小鳥の餌にされることへの恥辱も屈辱も、これっぽっちも思い浮かばない。
早速厨房へ向かえば、侍女頭から聞いていたのか、既にバターは冷蔵箱から出されて常温になっていた。小麦粉もトッピングの具材も料理長が揃えてくれていた。
夫は律儀な人間で、愛の有無に関わらず娶った妻への体裁は細かなところまで整えてくれる。
だから、最近開発されたばかりの食品を冷やす冷蔵箱をわざわざ帝国から取り寄せて、バターやら牛乳やら卵といった食材を冷やせるようにしてくれた。
実は、サフィリアは菓子作りが好きなのだ。
下手の横好きというくらいだから、味の良し悪しについては聞かないでほしい。ただ生家でも、サフィリアを可愛がってくれる姉やその夫や両親に、ティータイムに合わせて菓子を焼いた。
優しい家族はそんなサフィリアを気遣って「美味しいわ、サフィリア」と言って食してくれたのである。
この世界はサフィリアに優しい。
それがこれといった取り柄の無いサフィリアには少しばかり居心地が悪く、時に胸が痛くなるのだった。
焼き菓子の粗熱が冷めたのを確かめて、サフィリアはクッキーを箱に詰めた。ナッツにチョコチップ、木苺のジャムを挟んだものもある。砂糖を控えたプレーンクッキーは雀専用だ。特に説明するまでもないから、敢えて雀の、とは言わない。
箱を大判のハンカチで包み、取り出しやすいように着替えやらを詰め込んだ包みの一番上にする。
これでサフィリアが帰った後に、夫は雀の餌付けに直行できる。
こんなことくらいしか気を遣ってやれないが、好いてもいない妻に煩くされるより、手短に手渡して早々に辞するほうが良いと思う。
手荷物は侍女が持ってくれる。その後ろを護衛が付き従って、サフィリアは城へと向かった。サフィリアの夫は宮仕えの文官なのである。
王城の馬車寄せに着いて、馬車から降りた。何度も通った城にはもう既に慣れている。なんなら昨日も一昨日も、夫に着替えを届けている。
外回廊を夫が詰める執務室まで歩く。手前に家族との面会室があるから、その奥には足を踏み入れたことはない。
夫はやんごとなき身分の御方に仕えているから、夫の職場は殊の外警護が厳しい。
そんな中へ、毎日毎日のこのこ現れる自分は、もしかしたら迷惑な存在なのではないだろうか。
だが、この世界はとことんサフィリアに優しくて、王城ですっかり顔馴染みになった近衛騎士らはサフィリアと会えば小さく会釈までしてくれる。
その心遣いが居た堪れない。彼らにとってサフィリアとは、あの夫の妻なのだから。
元々サフィリアは、決して内気な気質ではない。
大輪の深紅の薔薇を思わせる姉の次に生まれた、搾りかすのような令嬢ではあるが、生家では家族に愛されて育った。
姉は生家の伯爵家では生まれながらの女王で、歴史に名高い女王と同じ名を与えられ、その名の通り賢明かつ豪胆な気質の女傑である。
貴族学園を卒業して早々に、予てから婚約していた伯爵家の三男を婿に迎えて、同時に父から家督を譲られた。
女伯爵として燦然と輝く大輪の薔薇。
その太陽のように眩しい姉の下で、サフィリアは学生時代から姉の執務を手伝っていたのである。
回廊からは庭園が見えていた。
春の盛りの花が遠目でも色とりどりに見えていた。
王都には王立の植物園がある。令嬢時代には、こんな春の陽気が気持ちの良い日は、姉と一緒に植物園を散策した。義兄がパラソルを差してくれて、自分で差せると言ったのだが、優しい義兄は「大丈夫だよ、暑くない?」なんてことを言ってくれた。
そう言えば、夫に連れていってもらったのはいつだったろう。ファイナルの夜会の直ぐあとだから、夏の盛りの頃だった。
ファイナルの夜会。そう思い出して、苦いものがこみ上げてくる。胸を暗い靄が覆った。
「はい、奥様。先ほど使いが参りまして、本日もお泊まりになるとのことです」
「そう」
サフィリアの問い掛けに、執事は夫が今宵も帰宅しないことを告げた。
多忙な夫が勤めから戻らないのはよくあることで、今回はこれで三日連続となる。
サフィリアは小さく溜め息をついた。小さ過ぎて誰にもわからなかったと思う。どこかでほっとしている。夫の不在を喜ぶなんて、なんと不出来な妻だろう。
それも仕方のないことだとサフィリアは思う。夫を忌み嫌っている訳ではない。あの夫のどこにも嫌える要素は見当たらない。
寧ろ疎まれているのは自分のほうだ。
「それではお着替えをお届けしようかしら」
「奥様がお届けなされば、旦那様のお疲れもさぞ癒されることでしょう」
そうだろうか。全くそんなことは思えなかった。
執事は心優しいから、こんな風にいつも不出来な夫人をやんわり持ち上げてくれる。
「奥様、奥様特製のクッキーをお待ちになっては如何でしょうか。旦那様は奥様のお作りになるクッキーがお好きですから」
侍女頭の言葉に、この女性はなんて優しいのだろうと毎度のように思う。
王都の有名菓子店から取り寄せることは容易いのに、わざわざ何の変哲もないサフィリアの焼くクッキーに「特製」だなんて名をつけてくれる。
「雀の餌付けに最適ね」
彼処には雀が多く住んでいる。サフィリアもよくパン屑をあげるのだが、あの子たちはサフィリアの顔をすっかり憶えて、サフィリアが現れれば直ぐに集まる。
あんな風に夫もサフィリアの焼いたクッキーで餌付けしているのかもしれない。それで激務に疲れた心が癒されるのなら、いくらでも焼いて差し上げよう。
サフィリアの中には、手ずから作った焼き菓子が小鳥の餌にされることへの恥辱も屈辱も、これっぽっちも思い浮かばない。
早速厨房へ向かえば、侍女頭から聞いていたのか、既にバターは冷蔵箱から出されて常温になっていた。小麦粉もトッピングの具材も料理長が揃えてくれていた。
夫は律儀な人間で、愛の有無に関わらず娶った妻への体裁は細かなところまで整えてくれる。
だから、最近開発されたばかりの食品を冷やす冷蔵箱をわざわざ帝国から取り寄せて、バターやら牛乳やら卵といった食材を冷やせるようにしてくれた。
実は、サフィリアは菓子作りが好きなのだ。
下手の横好きというくらいだから、味の良し悪しについては聞かないでほしい。ただ生家でも、サフィリアを可愛がってくれる姉やその夫や両親に、ティータイムに合わせて菓子を焼いた。
優しい家族はそんなサフィリアを気遣って「美味しいわ、サフィリア」と言って食してくれたのである。
この世界はサフィリアに優しい。
それがこれといった取り柄の無いサフィリアには少しばかり居心地が悪く、時に胸が痛くなるのだった。
焼き菓子の粗熱が冷めたのを確かめて、サフィリアはクッキーを箱に詰めた。ナッツにチョコチップ、木苺のジャムを挟んだものもある。砂糖を控えたプレーンクッキーは雀専用だ。特に説明するまでもないから、敢えて雀の、とは言わない。
箱を大判のハンカチで包み、取り出しやすいように着替えやらを詰め込んだ包みの一番上にする。
これでサフィリアが帰った後に、夫は雀の餌付けに直行できる。
こんなことくらいしか気を遣ってやれないが、好いてもいない妻に煩くされるより、手短に手渡して早々に辞するほうが良いと思う。
手荷物は侍女が持ってくれる。その後ろを護衛が付き従って、サフィリアは城へと向かった。サフィリアの夫は宮仕えの文官なのである。
王城の馬車寄せに着いて、馬車から降りた。何度も通った城にはもう既に慣れている。なんなら昨日も一昨日も、夫に着替えを届けている。
外回廊を夫が詰める執務室まで歩く。手前に家族との面会室があるから、その奥には足を踏み入れたことはない。
夫はやんごとなき身分の御方に仕えているから、夫の職場は殊の外警護が厳しい。
そんな中へ、毎日毎日のこのこ現れる自分は、もしかしたら迷惑な存在なのではないだろうか。
だが、この世界はとことんサフィリアに優しくて、王城ですっかり顔馴染みになった近衛騎士らはサフィリアと会えば小さく会釈までしてくれる。
その心遣いが居た堪れない。彼らにとってサフィリアとは、あの夫の妻なのだから。
元々サフィリアは、決して内気な気質ではない。
大輪の深紅の薔薇を思わせる姉の次に生まれた、搾りかすのような令嬢ではあるが、生家では家族に愛されて育った。
姉は生家の伯爵家では生まれながらの女王で、歴史に名高い女王と同じ名を与えられ、その名の通り賢明かつ豪胆な気質の女傑である。
貴族学園を卒業して早々に、予てから婚約していた伯爵家の三男を婿に迎えて、同時に父から家督を譲られた。
女伯爵として燦然と輝く大輪の薔薇。
その太陽のように眩しい姉の下で、サフィリアは学生時代から姉の執務を手伝っていたのである。
回廊からは庭園が見えていた。
春の盛りの花が遠目でも色とりどりに見えていた。
王都には王立の植物園がある。令嬢時代には、こんな春の陽気が気持ちの良い日は、姉と一緒に植物園を散策した。義兄がパラソルを差してくれて、自分で差せると言ったのだが、優しい義兄は「大丈夫だよ、暑くない?」なんてことを言ってくれた。
そう言えば、夫に連れていってもらったのはいつだったろう。ファイナルの夜会の直ぐあとだから、夏の盛りの頃だった。
ファイナルの夜会。そう思い出して、苦いものがこみ上げてくる。胸を暗い靄が覆った。
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