或る伯爵夫人が一人思い悩んだ末の事の顛末

桃井すもも

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第七章

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 それにしても。

「どうしたの?サフィリア。モジモジしちゃって。どこか痒いの?」

 姉に尋ねられてサフィリアは俯いた。俯いた先にささやかなお胸の谷間が見えた。
 そう。お胸の浅い谷間が見えるほど、今日のドレスは襟元が危うい。

 腕をブンブン回したなら、肩から袖がズレ落ちてしまう。そんな心許こころもとない危険なドレス。

「お姉様、なんだか恥ずかしいわ。良い歳をしてこんな、は、は、はしたないドレスを着るなんて」 

 サフィリアは姉を見上げて言った。眉がすっかり下がってしまって情けなさが倍増している。

「そんなことはないよ。サフィリアは今宵も素敵なレディだよ」

 この世界はサフィリアに優しい。だから義兄もこんな優しい言葉を掛けてくれる。

「でもぉ」

 シュンとするサフィリアに、姉はクスリと笑った。

「何を俯いているの。下を見たって銅貨の一枚だって落ちてはいないわ。幸せは顔を上げて前を向いて見つけるものよ。胸を張って堂々となさい」

 姉の言葉に俯いた顔を上げた。目の前にぼいんぼいんの姉のお胸が見えて、再び俯きたくなるのを必死に堪えた。

「貴女のその血管が透けてるんじゃないかっていう美しい肌を存分に披露なさい。そのタレ目ちゃんも可愛いわ。首をちょっと傾げて微笑んでごらんなさい。それで奴はイチコロよ」

「え?ヤツ?ヤツって何?」

 姉はサフィリアの問いには答えなかった。鷹揚な笑みを見せるだけだった。

「サフィリア。人生の先輩として一つだけ貴女にアドバイスをするわ。恋の花とは、ひと目会ったその日から咲くものなのよ。良いことサフィリア。大輪の花を咲かせない。人生の春を謳歌なさい。貴女の未来は明るいわ」

 三つしか歳の違わない姉からの壮大なアドバイスは、サフィリアにはちょっと意味がわからなかった。

「兎に角」

 姉はぼいんぼいんの胸の前で腕を組んだ。ぼいんぼいんが邪魔そうに見えてサフィリアは気もそぞろになる。

「今宵の出会いは天啓よ。神の思し召しと思って受け入れなさい」

 ますます訳のわからないことを言う姉にサフィリアは、

『お姉様ったら、シャンパンを飲み過ぎちゃったのね。それで酒精に精神を乱されちゃったのね。私も気をつけなくっちゃ。お酒は好きだけれど、酒は飲んでも飲まれるな、この一言に尽きるわ』

 そう思って、姉の言葉を聞き流した。

 サフィリアはその夜、完全なる壁の花になっていた。
 淡いミントグリーンのドレスは柔らかな光沢の生地で、妙齢のサフィリアを若草のように爽やかに見せていた。
 消炭色の瞳が煌めく照明の光を反射して潤んでいる。学生にはない成熟した香り。花の盛りは終わっていない。

 そんなサフィリアが、なぜか今宵は花になったまま壁を飾っている。

 挨拶ならされるのだ。友人知人は勿論のこと、ほんの少し顔見知りの殿方や全く知らないどこぞの紳士。当たり前のように幾人にも声を掛けられ、中にはダンスに誘ってくれる貴重な人材もいたのだが、なぜだろう。

 なんとなく、そんな良い雰囲気を姉と義兄が壊してしまう。

「まあ、サフィリア。顔色が悪いわ、あちらで少し休みましょう。御免遊ばせ、妹は体調が優れないようですのでこれにて失礼」

 先ほども黒髪が艶やかな紳士に声を掛けられて、「今宵の思い出に一曲どうでしょう」と手を差し伸べられた。それでサフィリアも手を伸ばしてエスコートを受けようとしたその瞬間に、紳士とサフィリアの手の間に姉が扇を差し込んだ。

 嗚呼、黒髪の紳士様さようなら。

 こんな具合でサフィリアは結局誰とも一曲も踊ることなく、壁の側で眩しい若人たちを目を細めて眺めていたのである。


「サフィリア。これ美味しいわよ」

 壁の花となっていたサフィリアに、優しい姉がシャンパンを取ってきてくれた。滴が浮かぶグラスには、琥珀色の液体が細かな気泡を漂わせている。

 物凄く美味しそうだ。

「お姉様、ありがとうございます」

 サフィリアがそういえば、姉は目を細めて頷いた。

「さあ、ぐいっと」

 姉に促されるまま、サフィリアはぐいっとグラスを呷った。

 きりりと冷えたシャンパンの気泡がぷちぷち爆ぜながら喉を通る。なんて美味しいのかしら。お姉様が持ってきて下さったからかしら。

「サフィリア。良い飲みっぷりだわ。流石は私の可愛い妹だわ」

 可愛いだなんて言われる年齢ではないのだが、姉に褒められるのはいつだって嬉しい。

「さあ、サフィリア。もう一杯どうだろう。これも絶対美味しいよ」

 優しい義兄が二杯目を持ってきた。義兄もまた、サフィリアをとても可愛がってくれる。今も義妹の喉を潤す為に、わざわざ二杯目のシャンパンを取ってきてくれた。

 でもぉ、お酒は一日一杯まで。そう決められているのだけれど。

 戸惑うサフィリアに、義兄は更にぐいっとグラスを差し出した。今宵はファイナルの夜会だ。これで社交シーズンも終わりを迎える。
 もう一杯くらい良いかしら。
 悪魔がサフィリアの耳元で囁く。二杯目のシャンパンは最高だよ。

「お義兄様、ありがとうございます」

 サフィリアがそう言えば、姉と義兄は目を細めて頷いた。結局サフィリアは二杯目のグラスを受け取った。

「さあ、ぐいっと」

 姉と義兄に見守られて、言われるままサフィリアはグラスを呷った。

 憶えているのはここまでだった。次に目覚めた時には、隣に誰かがいた。隣の誰かはサフィリアを抱き締めて、サフィリアは彼に抱え込まれるようになって横たわっていた。

 彼というのだから当然彼は男性で、二人きりの寝台でサフィリアは、男性に抱き締められたまま目を覚ました。

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