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第二十五章
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信念、岩をも通す。
胆力、離縁誓約書署名完遂。
「やったわ」
やったわ、やったわと、サフィリアは額に滲んだ汗を手の甲で拭った。一仕事終えた爽快感と達成感が半端ない。
「サフィリア・バイロン・コットナー……」
サフィリアは、胆力込めて書き上げた、その名前を指でなぞった。自分はもうすぐこの名を失うのだ。
そう思うだけで胸がぎゅうぅぅと締め付けられた。
「サフィリア・バイロン……、コッ、こっ、ううぅぅ」
もう一度言おうとして最後まで言えなかった。胸の奥が苦しくなって喉に何かが迫り上がる。終いには、出るのは嗚咽になって、
「ふ、ううぅぅ」
サフィリアは堪え切れずにとうとう泣き出してしまった。
幸い今は自室に独り。書き物に集中したいからとタバサは部屋から下げていた。
そう言えば、タバサともお別れになってしまう。タバサだけではない。
バーバリーもダンヒルも。
ラルフもローレンも。サマンサだって。
「皆さん今までありがとう。また会う日までご機嫌よう」
まるで今すぐ目の前で別れるように、サフィリアは独り皆に別れを告げた。だがしかし、うっかりなサフィリアは、そこで夫のことをうっかり忘れていたのに気がつかない。
目の前に、署名を終えた離縁誓約書があるというのに、この邸で暮らした使用人たちとのあんなことやこんなことを思い出すのに忙しかった。
「さあ、こうしてはいられないわ」
切り替え上手なサフィリアは、早々に気を取り直した。それから部屋の中をぐるりと見渡した。
「どこから片付けようかしら」
思考は既に、明日に迫った荷造りの段取りでいっぱいだった。
旦那様の長い指。
ティーカップを持つ仕草。殿方なのにフサフサの長い睫毛。
サフィリアは、朝の食卓で隣に並ぶ夫の顔を盗み見た。この可怪しな席の並びも今なら有難い。なにせもうすぐ見納めなのだ。
愛しい夫(もうすぐ他人)の横顔を、ちらりちらりチラチラチラチラ盗み見る。あまりに視線の動きが速かったから、少しばかり目眩を覚えた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ、ルクス様」
「……」
出掛ける夫を見送るのも、もう最後になる。そうだ、最後くらい名前で呼んでみようかしら。
いつもは「旦那様」と呼ぶところを、今朝は名前で呼んだのだ。何故か夫は目元を赤らめ、風邪でなければよいと心配になった。
ルクスの背中を見送って、切ない思いを振り払う。
「さあ!亭主元気に出掛けたわ。今のうちに準備しなくっちゃ」
この日はタバサに使いを頼んだ。あちこち色々頼んだから、全て済ませるのに昼まで戻ってこないだろう。
サフィリアは、既に昨夜のうちにシミュレーションした効率的な身辺整理をイメージしながら、自室に向かって歩き出した。
ルクスは王城で客人と相対していた。昨日、急な面会の申し出を受けていた。
「久し振りだな、フランシス」
ルクスは向かいに座る旧友に向かって言った。フランシスとは件の司祭である。
今は貴族と聖職者であるが、二人は古い友人だった。かなり仲が良かった。なんなら今も仲良しだ。ルクスとサフィリアの婚礼も、この司祭が執り行った。
ルクスの誓いのキスが長すぎたのを、止めに入ったのも司祭だった。初夜の作法を確認されて、神職にありながら艶事のマナーとルールを伝授したのも司祭である。
それほどの愛を傾けられて、夫人の些細な誤解など小麦の粒より小さなことだと、司祭はそう思っていた。
毎日毎日繰り返される「離縁」のワードも重く受け止めず聞き流した。
今なら思う。鉄は熱いうちに打て、あのぅ夫人は早いうちに誤解を解け。
ルクスとフランシスは確かにお久し振りだった。だが、フランシスとサフィリアは殆ど毎日会っている。会うというより、フランシスが告解という名の取り留めのない話を一方的に聞かされている。
「ん?冴えない顔をしてるじゃないか。教会運営に問題でもあるのか?」
快活な人柄のフランシスが、この日は神妙な顔をして見えた。
「ルクス。手短に言おう。私の話を聞いたなら、直ぐさま邸へ帰れ」
フランシスは、そう言って端的に事の些細を打ち明けた。
その頃サフィリアは、丹田に意識を集中して、精神統一していた。なにせこれから可及的速やかに身辺整理をしなければならない。集中と精神統一、大事である。
物持ちの良いサフィリアは、元から持ち物はそう多くはなかった。
今あるものは、ほとんどが夫から贈られたものだ。
輿入れの際にも夫は身一つで来るようにと言ったから、それは勅命だと受け止めたサフィリアは、本当にその日着ているドレスのほかは、三日分の着替えと下着とお気に入りの小説だけを持って嫁いできた。
初めて夫人の私室に通されたとき、ドレスばかりか靴も装飾品も下着まで、たっぷり用意されていた。
クローゼットの中は既にぱんぱんで、それはきっと姉が袖の下を渡して使用人に用意させたのだと思った。
可哀想に、ルクスの愛は全て姉の手柄になっていた。
大量の私物の中から生家から持ってきたものだけをトランクに詰めていた、その時だった。
ドタンバタンがらがらガッシャン。
この世の擬音の全てと言っても過言ではない。
慌てる際のオノマトペを総動員して、ルクスがばーんと扉を開けた。お陰でサフィリアはぴょーんと跳ねた。
胆力、離縁誓約書署名完遂。
「やったわ」
やったわ、やったわと、サフィリアは額に滲んだ汗を手の甲で拭った。一仕事終えた爽快感と達成感が半端ない。
「サフィリア・バイロン・コットナー……」
サフィリアは、胆力込めて書き上げた、その名前を指でなぞった。自分はもうすぐこの名を失うのだ。
そう思うだけで胸がぎゅうぅぅと締め付けられた。
「サフィリア・バイロン……、コッ、こっ、ううぅぅ」
もう一度言おうとして最後まで言えなかった。胸の奥が苦しくなって喉に何かが迫り上がる。終いには、出るのは嗚咽になって、
「ふ、ううぅぅ」
サフィリアは堪え切れずにとうとう泣き出してしまった。
幸い今は自室に独り。書き物に集中したいからとタバサは部屋から下げていた。
そう言えば、タバサともお別れになってしまう。タバサだけではない。
バーバリーもダンヒルも。
ラルフもローレンも。サマンサだって。
「皆さん今までありがとう。また会う日までご機嫌よう」
まるで今すぐ目の前で別れるように、サフィリアは独り皆に別れを告げた。だがしかし、うっかりなサフィリアは、そこで夫のことをうっかり忘れていたのに気がつかない。
目の前に、署名を終えた離縁誓約書があるというのに、この邸で暮らした使用人たちとのあんなことやこんなことを思い出すのに忙しかった。
「さあ、こうしてはいられないわ」
切り替え上手なサフィリアは、早々に気を取り直した。それから部屋の中をぐるりと見渡した。
「どこから片付けようかしら」
思考は既に、明日に迫った荷造りの段取りでいっぱいだった。
旦那様の長い指。
ティーカップを持つ仕草。殿方なのにフサフサの長い睫毛。
サフィリアは、朝の食卓で隣に並ぶ夫の顔を盗み見た。この可怪しな席の並びも今なら有難い。なにせもうすぐ見納めなのだ。
愛しい夫(もうすぐ他人)の横顔を、ちらりちらりチラチラチラチラ盗み見る。あまりに視線の動きが速かったから、少しばかり目眩を覚えた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ、ルクス様」
「……」
出掛ける夫を見送るのも、もう最後になる。そうだ、最後くらい名前で呼んでみようかしら。
いつもは「旦那様」と呼ぶところを、今朝は名前で呼んだのだ。何故か夫は目元を赤らめ、風邪でなければよいと心配になった。
ルクスの背中を見送って、切ない思いを振り払う。
「さあ!亭主元気に出掛けたわ。今のうちに準備しなくっちゃ」
この日はタバサに使いを頼んだ。あちこち色々頼んだから、全て済ませるのに昼まで戻ってこないだろう。
サフィリアは、既に昨夜のうちにシミュレーションした効率的な身辺整理をイメージしながら、自室に向かって歩き出した。
ルクスは王城で客人と相対していた。昨日、急な面会の申し出を受けていた。
「久し振りだな、フランシス」
ルクスは向かいに座る旧友に向かって言った。フランシスとは件の司祭である。
今は貴族と聖職者であるが、二人は古い友人だった。かなり仲が良かった。なんなら今も仲良しだ。ルクスとサフィリアの婚礼も、この司祭が執り行った。
ルクスの誓いのキスが長すぎたのを、止めに入ったのも司祭だった。初夜の作法を確認されて、神職にありながら艶事のマナーとルールを伝授したのも司祭である。
それほどの愛を傾けられて、夫人の些細な誤解など小麦の粒より小さなことだと、司祭はそう思っていた。
毎日毎日繰り返される「離縁」のワードも重く受け止めず聞き流した。
今なら思う。鉄は熱いうちに打て、あのぅ夫人は早いうちに誤解を解け。
ルクスとフランシスは確かにお久し振りだった。だが、フランシスとサフィリアは殆ど毎日会っている。会うというより、フランシスが告解という名の取り留めのない話を一方的に聞かされている。
「ん?冴えない顔をしてるじゃないか。教会運営に問題でもあるのか?」
快活な人柄のフランシスが、この日は神妙な顔をして見えた。
「ルクス。手短に言おう。私の話を聞いたなら、直ぐさま邸へ帰れ」
フランシスは、そう言って端的に事の些細を打ち明けた。
その頃サフィリアは、丹田に意識を集中して、精神統一していた。なにせこれから可及的速やかに身辺整理をしなければならない。集中と精神統一、大事である。
物持ちの良いサフィリアは、元から持ち物はそう多くはなかった。
今あるものは、ほとんどが夫から贈られたものだ。
輿入れの際にも夫は身一つで来るようにと言ったから、それは勅命だと受け止めたサフィリアは、本当にその日着ているドレスのほかは、三日分の着替えと下着とお気に入りの小説だけを持って嫁いできた。
初めて夫人の私室に通されたとき、ドレスばかりか靴も装飾品も下着まで、たっぷり用意されていた。
クローゼットの中は既にぱんぱんで、それはきっと姉が袖の下を渡して使用人に用意させたのだと思った。
可哀想に、ルクスの愛は全て姉の手柄になっていた。
大量の私物の中から生家から持ってきたものだけをトランクに詰めていた、その時だった。
ドタンバタンがらがらガッシャン。
この世の擬音の全てと言っても過言ではない。
慌てる際のオノマトペを総動員して、ルクスがばーんと扉を開けた。お陰でサフィリアはぴょーんと跳ねた。
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