或る伯爵夫人が一人思い悩んだ末の事の顛末

桃井すもも

文字の大きさ
26 / 44

第二十六章

しおりを挟む
「何をしている」
「どこに行く」
「それはなんだ」
「そんなことは許さない」

 以上は全てがルクスの言葉で、サフィリアが呆気に取られてひと言も返せないでいるのもお構いなしに、彼は息もつかずに言い切った。

 ツカツカツカと部屋に入り、文机の上にあった離縁誓約書をグシャリと握り、そのままビリリと引き裂いた。

 更には引き裂いたのを忌々しそうに床にぶちまけ、あろうことがギュッギュッと踏みつけた。

「だ、だ、旦那様、何をなさるの?それは大切な離「そんなものは要らない」

「旦那様、いけません。それは離「だからそんな必要は無い」 

 ビリビリに破いた離縁の誓約書を床に捨てて踏みつけにした後、ルクスはツカツカツカとサフィリアに歩み寄った。

 それからガシリと両肩に手を置き、腰を屈めてサフィリアを真正面から覗き見た。

「私がこの世で一番忌み嫌う言葉を知っているか?」

「サフィリアかしら」「違う!」

怒られてしまった。

「離縁だ。くそ、自分でわざわざ言ってしまった忌々しいっ」

 ルクスはそこで本心から忌々しく思うような、悔しげな顔をした。

「兎に角」

 両肩に置かれた手に力がこもる。

「君は生涯未来永劫いつでもどこまでも私の妻だ。私の妻以外有り得ない。そうでなくっちゃ駄目なんだ」

 こんな真剣な眼差しは、閨で見つめ合うときくらいしか見たことがない。やだわ、私ったらこんな時にあんな事やこんな事を思い出してしまうだなんて。

 ぽっと頬が染まってしまった。それが恥ずかしくて思わず顔を伏せた。だが、夫から視線を外しては失礼かと思い直して夫の目を見つめた。結果、あざとい上目遣いになってしまった。

「ぐっ」

 夫が呻いた。だ、旦那様、どこか痛いの?

 心配になったサフィリアは、そこで更に夫を仰ぎ見た。あざとい上目遣いにうるうるが加わった。

「うっ」

 ルクスが途端に苦悶の表情を浮かべた。

「大丈夫!?旦那様!」

 慌てたサフィリアの問い掛けに、ルクスは答えた。

「大丈夫じゃない。君がいてくれなければ死んでしまう」
「駄目よ駄目駄目、死んじゃ駄目!」
「なら、君は何をしてくれる?」
「え?」
「私の願いを聞いてくれるなら、或いは死なずに済むかもしれない」
「しますします、何でもします!だから旦那様、死んでは駄目よ!」

 その言葉に、ルクスの瞳に仄暗い光が宿った。



 男性なのに長い指が綺麗だと思う。
 その指に髪を梳かれながら、サフィリアはその胸元に抱き締められていた。

 真っ裸で。
 真っ昼間に。

 何故なのか、突然夫は帰ってきた。
 朝、いつも通りに登城した筈なのに、昼過ぎに帰ってきた。
 丁度サフィリアは離縁に向けて絶賛身辺整理中だったのだが、そこをルクスに踏み込まれた。

 あんなに苦労して書き上げた離縁誓約書はビリビリに裂かれて千切られて、終いには足でギュッギュッと踏みつけにされた。

 それからツカツカツカと歩み寄ってきた夫となんだかんだの後に、怪しく瞳を輝かせた夫によって寝台に引き摺り込まれた。

 あんなことやこんなこと、筆舌に尽くしがたい手法で身も心も蕩かされ、今はすっかりスッキリした夫に髪を梳かれている。

「君を願ったのは、私だ」
「へ?」

 何を願ったのだろう。離縁?それなら離縁誓約書がもう一枚ある。書き損じに備えて二枚もらっていたから。

「何?どれ、それを寄こしなさい。ビリビリのバリバリに引き千切ってやる」

 器用な夫は、サフィリアの髪を指先で梳きながら、離縁誓約書(予備)を寄こせと迫ってきた。

 結局、ヘッドボードの中に仕舞っていたのを見つけられて、あろうことが二枚目の離縁誓約書(予備)は蝋燭の炎で焼かれた。

「地獄に堕ちろ、この離縁誓約書め」

 夫が何やら呟いたが、背中を向けられていたサフィリアには聞こえなかった。代わりに、ぎゃあぁぁぁという断末魔の叫び声が離縁誓約書から聞こえたような気がした。

「兎に角」

 誓約書を燃やし終えた夫がサフィリアへと振り返った。その前になんか着てほしい。真っ裸で凄まれても、ちょっと。

「君の提出する書類に惚れた」
「へ?」
「誤解しないでほしい。惚れたのは飽くまでも君にだ」
「ええっと」

 腑に落ちないサフィリアに、ルクスは打ち明けた。


 サフィリアは学園を卒業してから、姉の執務を手伝っていた。姉は、父よりも夫よりも妹の方が遥かに有能であるのを認めていた。サフィリアを側に置き執務のあれこれを任せていた。

 そうしてサフィリアが手掛けた書類は王城に提出されて、それを目にしたのがルクスだった。

 最初はサフィリアの姉が記した書類だと思った。だが、直ぐにそうではないとわかった。
 ある日、所用で登城したサフィリアの姉と話す機会を得た。

「ああ、それは妹ですの。妹は優秀でして、私の権限で任せている仕事がありますのよ。貴方がご覧になった書類とは、妹が書き起こして私がサインしたものですわ」

 癖のないきっちりとした、それでいて流麗で女性らしさが窺われる美しい筆跡。
 何より正確に記載された書類は読みやすくわかりやすい。王城に提出するものだから当然ではあるが、それでも彼女の作成した書類は文官であるルクスでさえ認めてしまう確かなものだった。

 それから気がつけば、サフィリアの生家、モーランド伯爵家から提出される書類を意識するようになった。そのうち目にするのが楽しみになった。朝には書類の束に、彼女の記したものが入っていないか確認するのが日課になった。

 ルクスは、サフィリアが書き起こした書類を通して、サフィリアに恋をした。
 書類を受け取る度に恋心を募らせた。その恋心はとうとう、隠しようもないほどルクスの胸に光を齎し心を揺さぶった。

 ある日、サフィリアが姉のお供として登城した。その姿を目にした途端、ルクスはバーンと何かに胸を撃ち抜かれた。

 それはキューピッドの恋の矢で胸を撃ち抜かれた音だった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ご安心を、2度とその手を求める事はありません

ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・ それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望

伯爵令嬢の婚約解消理由

七宮 ゆえ
恋愛
私には、小さい頃から親に決められていた婚約者がいます。 婚約者は容姿端麗、文武両道、金枝玉葉という世のご令嬢方が黄色い悲鳴をあげること間違い無しなお方です。 そんな彼と私の関係は、婚約者としても友人としても比較的良好でありました。 しかしある日、彼から婚約を解消しようという提案を受けました。勿論私達の仲が不仲になったとか、そういう話ではありません。それにはやむを得ない事情があったのです。主に、国とか国とか国とか。 一体何があったのかというと、それは…… これは、そんな私たちの少しだけ複雑な婚約についてのお話。 *本編は8話+番外編を載せる予定です。 *小説家になろうに同時掲載しております。 *なろうの方でも、アルファポリスの方でも色んな方に続編を読みたいとのお言葉を貰ったので、続きを只今執筆しております。

聖女に負けた侯爵令嬢 (よくある婚約解消もののおはなし)

蒼あかり
恋愛
ティアナは女王主催の茶会で、婚約者である王子クリストファーから婚約解消を告げられる。そして、彼の隣には聖女であるローズの姿が。 聖女として国民に、そしてクリストファーから愛されるローズ。クリストファーとともに並ぶ聖女ローズは美しく眩しいほどだ。そんな二人を見せつけられ、いつしかティアナの中に諦めにも似た思いが込み上げる。 愛する人のために王子妃として支える覚悟を持ってきたのに、それが叶わぬのならその立場を辞したいと願うのに、それが叶う事はない。 いつしか公爵家のアシュトンをも巻き込み、泥沼の様相に……。 ラストは賛否両論あると思います。納得できない方もいらっしゃると思います。 それでも最後まで読んでいただけるとありがたいです。 心より感謝いたします。愛を込めて、ありがとうございました。

完結 この手からこぼれ落ちるもの   

ポチ
恋愛
やっと、本当のことが言えるよ。。。 長かった。。 君は、この家の第一夫人として 最高の女性だよ 全て君に任せるよ 僕は、ベリンダの事で忙しいからね? 全て君の思う通りやってくれれば良いからね?頼んだよ 僕が君に触れる事は無いけれど この家の跡継ぎは、心配要らないよ? 君の父上の姪であるベリンダが 産んでくれるから 心配しないでね そう、優しく微笑んだオリバー様 今まで優しかったのは?

亡き姉を演じ初恋の人の妻となった私は、その日、“私”を捨てた

榛乃
恋愛
伯爵家の令嬢・リシェルは、侯爵家のアルベルトに密かに想いを寄せていた。 けれど彼が選んだのはリシェルではなく、双子の姉・オリヴィアだった。 二人は夫婦となり、誰もが羨むような幸福な日々を過ごしていたが――それは五年ももたず、儚く終わりを迎えてしまう。 オリヴィアが心臓の病でこの世を去ったのだ。 その日を堺にアルベルトの心は壊れ、最愛の妻の幻を追い続けるようになる。 そんな彼を守るために。 そして侯爵家の未来と、両親の願いのために。 リシェルは自分を捨て、“姉のふり”をして生きる道を選ぶ。 けれど、どれほど傍にいても、どれほど尽くしても、彼の瞳に映るのはいつだって“オリヴィア”だった。 その現実が、彼女の心を静かに蝕んでゆく。 遂に限界を越えたリシェルは、自ら命を絶つことに決める。 短剣を手に、過去を振り返るリシェル。 そしていよいよ切っ先を突き刺そうとした、その瞬間――。

侯爵家の婚約者

やまだごんた
恋愛
侯爵家の嫡男カインは、自分を見向きもしない母に、なんとか認められようと努力を続ける。 7歳の誕生日を王宮で祝ってもらっていたが、自分以外の子供を可愛がる母の姿をみて、魔力を暴走させる。 その場の全員が死を覚悟したその時、1人の少女ジルダがカインの魔力を吸収して救ってくれた。 カインが魔力を暴走させないよう、王はカインとジルダを婚約させ、定期的な魔力吸収を命じる。 家族から冷たくされていたジルダに、カインは母から愛されない自分の寂しさを重ね、よき婚約者になろうと努力する。 だが、母が死に際に枕元にジルダを呼んだのを知り、ジルダもまた自分を裏切ったのだと絶望する。 17歳になった2人は、翌年の結婚を控えていたが、関係は歪なままだった。 そんな中、カインは仕事中に魔獣に攻撃され、死にかけていたところを救ってくれたイレリアという美しい少女と出会い、心を通わせていく。 全86話+番外編の予定

【完結】見えてますよ!

ユユ
恋愛
“何故” 私の婚約者が彼だと分かると、第一声はソレだった。 美少女でもなければ醜くもなく。 優秀でもなければ出来損ないでもなく。 高貴でも無ければ下位貴族でもない。 富豪でなければ貧乏でもない。 中の中。 自己主張も存在感もない私は貴族達の中では透明人間のようだった。 唯一認識されるのは婚約者と社交に出る時。 そしてあの言葉が聞こえてくる。 見目麗しく優秀な彼の横に並ぶ私を蔑む令嬢達。 私はずっと願っていた。彼に婚約を解消して欲しいと。 ある日いき過ぎた嫌がらせがきっかけで、見えるようになる。 ★注意★ ・閑話にはR18要素を含みます。  読まなくても大丈夫です。 ・作り話です。 ・合わない方はご退出願います。 ・完結しています。

愛されなかった公爵令嬢のやり直し

ましゅぺちーの
恋愛
オルレリアン王国の公爵令嬢セシリアは、誰からも愛されていなかった。 母は幼い頃に亡くなり、父である公爵には無視され、王宮の使用人達には憐れみの眼差しを向けられる。 婚約者であった王太子と結婚するが夫となった王太子には冷遇されていた。 そんなある日、セシリアは王太子が寵愛する愛妾を害したと疑われてしまう。 どうせ処刑されるならと、セシリアは王宮のバルコニーから身を投げる。 死ぬ寸前のセシリアは思う。 「一度でいいから誰かに愛されたかった。」と。 目が覚めた時、セシリアは12歳の頃に時間が巻き戻っていた。 セシリアは決意する。 「自分の幸せは自分でつかみ取る!」 幸せになるために奔走するセシリア。 だがそれと同時に父である公爵の、婚約者である王太子の、王太子の愛妾であった男爵令嬢の、驚くべき真実が次々と明らかになっていく。 小説家になろう様にも投稿しています。 タイトル変更しました!大幅改稿のため、一部非公開にしております。

処理中です...