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第三十五章
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「ねえ、オーディン」
呼び掛けたはよいが、多分顔が真っ赤だろう。それでも呼ばずにはいられなかった。
「どこに行くの?ヘンリーはどこで待っているの?」
図書室を出てからも、オーディンは繋いだ手を離してくれない。放課後とはいえ、生徒たちはまだ残っているから、王女が王太子の側近候補に手を引かれる姿は目を引いた。マルガレーテはその視線が恥ずかしくて堪らない。
なのにこの時間が永遠で、このまま身分も何もない世界に溶けて消えてしまいたいと思う。
どれほどオーディンに惹かれても、どれほどオーディンへ恋心を募らせても、生まれて初めて抱いた恋が叶うことなどないのだから。
マルガレーテは、今年十六になる。王国の王女としての務めを果たさなくてはならない。出来ることならこのままずっと城にいて、ヘンリーに仕えるオーディンをそっとじっとじっとり見つめていたいと思う。
夢は何かと聞かれたら、迷わず答えられる。緞帳の陰からでよいからオーディンの後ろ姿を見つめていたいと。
だが、マルガレーテにそんな自由は許されない。いつまでも、叶わぬ夢を見ていられるほど自由なままではいられない。
昨日、聞いてしまったのだ。
晩餐に向かう途中で、回廊の先に両親を見つけた。「お父様、お母様」と声を掛けようとして、出来なかった。父王は宰相に呼び止められていた。一緒にいた母が口元を扇で隠していたから、多分愉快な話ではなかったのだろう。
晩餐の席では、両親は何も変わった風には見えなかった。だが、晩餐を終えて自室に戻る時にヘンリーに呼び止められた。そこで聞いたのは、マルガレーテのことだった。
マルガレーテにそろそろ婚約者を据えるべきだと、宰相はそう言ったのだという。
ヘンリーは、「姉上はずっと城にいて良いのです」と言って抱き締めてくれた。呆然としてしまったマルガレーテは、逃げ込むように東国の書物『ライト王子物語』を夜中まで読みふけったのである。物語に没頭することで、お陰で現実逃避できた。
いつまで恋をしていられるのだろう。
いつまで少女でいられるのだろう。
ヘンリーはこの春、既に立太子して、彼も妃候補の選定に入っている。先日も、サフィリア夫人が母に呼ばれていた。
なんでもカードゲームをするのだとか、母はそんなことを言っていたが、夫人の選別眼は王国一。サフィリア夫人を重用する母はきっと、ヘンリーについての相談を持ち掛けていたのだろう。
マルガレーテに残されている時間は多くない。
もう少しだけ。
行き先の定まらない今だけは、このままオーディンを慕っていたい。もしも他国に嫁ぐなら、もう彼の綺麗なオッドアイも柔らかな笑みも見つめることはできなくなる。
「ヘンリー殿下は、馬車でお待ちです」
オーディンの言葉で思考の海から這い上がった。オーディンに手を引かれているというのに、すっかり考えごとをしてしまっていた。なんて勿体ないことをしていたのだろう。
というより、ヘンリーが先に馬車にいるということに驚いた。マルガレーテを探していると聞いたばかりだ。
ヘンリーは、必ずマルガレーテと一緒に帰る。二人のクラスは別々で、教室も少しばかり離れているのだが、ヘンリーは必ずマルガレーテを迎えにきて二人揃って馬車まで向かう。
今日は図書室に寄るからと朝のうちに話していたから、彼のことだから図書室まで来るかもしれないと思っていた。
そのヘンリーが、先に馬車に乗っているのは初めてのことで、マルガレーテは意外に思った。
「貴女が馬車で待っていると話しておきましたから」
「え?」
「偶には良いではないですか。こうして貴女を独り占めにする時間を頂戴しても」
「お、オーディン……」
「駄目?」
オーディンは狡い。
その言葉は幼い頃を思い出させた。二人がまだ小さな頃、彼は無理なんて一つも言わないのに、なぜかちょっとしたことで許しを請うのに「駄目?」と聞いたものだ。
駄目じゃない。全然駄目じゃない。
寧ろ嬉しい。
オーディンが繋いだ手の平に力を込めた。キュッと握られた手が、もうもうどうしよう!
ああああーっ叫んで廊下の向こう側まで走り出したくなった。だが実のところマルガレーテは走ったことがない。王女であるから、走るなんて行為をしたことがない。
侍女に勧められて読んだ小説に、恋人同士が丘の上で追い駆けっこをするシーンがあった。絶対にヒロインのほうが足が遅い筈なのに、敢えて追い駆けっこをするのである。
それでまんまとヒーローに捕まって、そこでなんだかんだいちゃいちゃする。
小説的耳年増なマルガレーテは、ページを戻りながら何度も繰り返し読みこんで、
「丘の上で追い駆けっことは、一体どんな動きをするのだろう」と思ったのである。
一度、母に聞いてみたことがある。
「お母様、追い駆けっこってどうするのかしら」
「知らないわ。走ったことがないから」
そうだ、母も箱入り娘だったのだと、そう思ったのである。
そんなことより。
「ヘンリー、大丈夫かしら」
一人で馬車にいるなんて。いる筈の姉が居らずきっと心配しているだろう。
「放っといて大丈夫です。ヘンリー殿下は強い子ですから」
ヘンリーとオーディンの関係は、なんとなく父王とコットナー伯爵のそれに似ていると思うのは、気の所為なのだろうか。
そんなことを考えながら、オーディンに手を繋がれて、マルガレーテは「嗚呼、時間よ止まれ」と心に念じるのだった。
呼び掛けたはよいが、多分顔が真っ赤だろう。それでも呼ばずにはいられなかった。
「どこに行くの?ヘンリーはどこで待っているの?」
図書室を出てからも、オーディンは繋いだ手を離してくれない。放課後とはいえ、生徒たちはまだ残っているから、王女が王太子の側近候補に手を引かれる姿は目を引いた。マルガレーテはその視線が恥ずかしくて堪らない。
なのにこの時間が永遠で、このまま身分も何もない世界に溶けて消えてしまいたいと思う。
どれほどオーディンに惹かれても、どれほどオーディンへ恋心を募らせても、生まれて初めて抱いた恋が叶うことなどないのだから。
マルガレーテは、今年十六になる。王国の王女としての務めを果たさなくてはならない。出来ることならこのままずっと城にいて、ヘンリーに仕えるオーディンをそっとじっとじっとり見つめていたいと思う。
夢は何かと聞かれたら、迷わず答えられる。緞帳の陰からでよいからオーディンの後ろ姿を見つめていたいと。
だが、マルガレーテにそんな自由は許されない。いつまでも、叶わぬ夢を見ていられるほど自由なままではいられない。
昨日、聞いてしまったのだ。
晩餐に向かう途中で、回廊の先に両親を見つけた。「お父様、お母様」と声を掛けようとして、出来なかった。父王は宰相に呼び止められていた。一緒にいた母が口元を扇で隠していたから、多分愉快な話ではなかったのだろう。
晩餐の席では、両親は何も変わった風には見えなかった。だが、晩餐を終えて自室に戻る時にヘンリーに呼び止められた。そこで聞いたのは、マルガレーテのことだった。
マルガレーテにそろそろ婚約者を据えるべきだと、宰相はそう言ったのだという。
ヘンリーは、「姉上はずっと城にいて良いのです」と言って抱き締めてくれた。呆然としてしまったマルガレーテは、逃げ込むように東国の書物『ライト王子物語』を夜中まで読みふけったのである。物語に没頭することで、お陰で現実逃避できた。
いつまで恋をしていられるのだろう。
いつまで少女でいられるのだろう。
ヘンリーはこの春、既に立太子して、彼も妃候補の選定に入っている。先日も、サフィリア夫人が母に呼ばれていた。
なんでもカードゲームをするのだとか、母はそんなことを言っていたが、夫人の選別眼は王国一。サフィリア夫人を重用する母はきっと、ヘンリーについての相談を持ち掛けていたのだろう。
マルガレーテに残されている時間は多くない。
もう少しだけ。
行き先の定まらない今だけは、このままオーディンを慕っていたい。もしも他国に嫁ぐなら、もう彼の綺麗なオッドアイも柔らかな笑みも見つめることはできなくなる。
「ヘンリー殿下は、馬車でお待ちです」
オーディンの言葉で思考の海から這い上がった。オーディンに手を引かれているというのに、すっかり考えごとをしてしまっていた。なんて勿体ないことをしていたのだろう。
というより、ヘンリーが先に馬車にいるということに驚いた。マルガレーテを探していると聞いたばかりだ。
ヘンリーは、必ずマルガレーテと一緒に帰る。二人のクラスは別々で、教室も少しばかり離れているのだが、ヘンリーは必ずマルガレーテを迎えにきて二人揃って馬車まで向かう。
今日は図書室に寄るからと朝のうちに話していたから、彼のことだから図書室まで来るかもしれないと思っていた。
そのヘンリーが、先に馬車に乗っているのは初めてのことで、マルガレーテは意外に思った。
「貴女が馬車で待っていると話しておきましたから」
「え?」
「偶には良いではないですか。こうして貴女を独り占めにする時間を頂戴しても」
「お、オーディン……」
「駄目?」
オーディンは狡い。
その言葉は幼い頃を思い出させた。二人がまだ小さな頃、彼は無理なんて一つも言わないのに、なぜかちょっとしたことで許しを請うのに「駄目?」と聞いたものだ。
駄目じゃない。全然駄目じゃない。
寧ろ嬉しい。
オーディンが繋いだ手の平に力を込めた。キュッと握られた手が、もうもうどうしよう!
ああああーっ叫んで廊下の向こう側まで走り出したくなった。だが実のところマルガレーテは走ったことがない。王女であるから、走るなんて行為をしたことがない。
侍女に勧められて読んだ小説に、恋人同士が丘の上で追い駆けっこをするシーンがあった。絶対にヒロインのほうが足が遅い筈なのに、敢えて追い駆けっこをするのである。
それでまんまとヒーローに捕まって、そこでなんだかんだいちゃいちゃする。
小説的耳年増なマルガレーテは、ページを戻りながら何度も繰り返し読みこんで、
「丘の上で追い駆けっことは、一体どんな動きをするのだろう」と思ったのである。
一度、母に聞いてみたことがある。
「お母様、追い駆けっこってどうするのかしら」
「知らないわ。走ったことがないから」
そうだ、母も箱入り娘だったのだと、そう思ったのである。
そんなことより。
「ヘンリー、大丈夫かしら」
一人で馬車にいるなんて。いる筈の姉が居らずきっと心配しているだろう。
「放っといて大丈夫です。ヘンリー殿下は強い子ですから」
ヘンリーとオーディンの関係は、なんとなく父王とコットナー伯爵のそれに似ていると思うのは、気の所為なのだろうか。
そんなことを考えながら、オーディンに手を繋がれて、マルガレーテは「嗚呼、時間よ止まれ」と心に念じるのだった。
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