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第二章
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ジェマイマは、学園ではすでに三年生となっており、当然ながら同じ学年であるローレルについて知っている。
彼が果たしてジェマイマをどれほど知っていたかはわからないが、この縁組に明るい展望を抱けないほどにはジェマイマを認識していたのだろう。
ローレルがこれまで婚約者を定めなかった理由はわからないが、選り好みなんてしないでさっさと決めていたなら、彼にしても不本意な婚約を結ぶことはなかっただろう。
ジェマイマだって、あんな最悪な夢を見ずに済んだはずである。
婚約誓約書に署名を終えて、ローレルとは、今は二人きりの部屋にいた。
厳密には、侍従や王城の侍女や近衛騎士がそばにいたのだが、取り敢えず当事者は二人だけだった。
そのためか、ローレルは学園で見せるような華やぎのある表情をすっかり引っ込めていた。
その顔に、ジェマイマは覚えがあった。
夢の中で繰り返した人生で、彼は度々あんな冷ややかな顔をした。
ローレルとは、学園で一度も同じクラスになったことはない。廊下ですれ違うことはあっても、大抵ジェマイマが脇に退けて目線を伏せていたので、彼とは目が合うことすらなかった。
どんな経緯でジェマイマが婚約者になってしまったのか、父に尋ねてもわからなかった。
この婚約は、王家からの打診で成り立ったものである。
愛せないのなら初めから、ジェマイマを避けてくれればよいものを。
真向かいの席で二杯目の紅茶を飲むローレルを、ジェマイマは複雑な思いで見ていた。
「君が望んでいなくても」
カップを手元のソーサーに戻すと、ローレルはジェマイマを見据えて言った。
「この婚約が解かれることはない。承知してもらうよりほかはないんだよ」
ジェマイマは、不服も不平も一言も漏らしてはいないし、寧ろ王命とさえ捉えている。
だが、口に出さなくても顔に出ていたのかもしれないと、表情を引き締めた。
「私なりに、君を大切にする」
嘘つき。
思わず浮かんだ心の声に、ジェマイマは驚いてしまった。あの夢がそうさせるのか、何度も繰り返された冷たい結婚生活に、ジェマイマは無意識のうちにローレルに対して不信感を抱いているようだった。
「婚約の証といえば大袈裟かな」
ローレルがそう言うと、紅茶を乗せたソーサーをテーブルに置くと、ジャケットの胸ポケットからなにかを取り出した。
その途端、ジェマイマは背中に冷たい汗が流れ落ちるのがわかった。
「君に贈るよ」
親指と人差し指に挟んで、彼がテーブル越しにこちらに差し出したものは、夢の中でジェマイマの左手薬指を飾っていたサファイアの指輪だった。
「殿下、そんな⋯⋯」
それは婚姻の儀を終えてから受け取っていたものだった。馬車の事故で命を落とした生でも、流行病で没した生でも、いつの生でもジェマイマの薬指を飾っていた。
まるで冷ややかな感情を青い石に込めているようで、いつの生でもジェマイマの心を締めつけた。
「それは、頂けませんわ」
「嫌なのかな?」
「そうではございませんわ。そちらは妃に贈られるものではございませんか?」
「妃は君になることが、今日の誓約で定まったけれど?」
誓約という言葉に、ジェマイマはぐっと詰まるものを感じた。
「頂けません」
「なぜ?」
「誓約は婚約についてです。婚姻とは別ですわ」
「強情だね」
ローレルは、差し出していた手を引っ込めると、徐ろに立ち上がった。
ジェマイマはてっきり、言葉が過ぎて彼を怒らせてしまったのかと思った。
だが、ローレルはテーブルを回り込んでこちらに来ると、ジェマイマの真横に跪いた。
「ジェマイマ」
驚くジェマイマを見つめながら、行き成り呼び捨てにしたその声音を、ジェマイマはよく知っている。それは、あの夢の中で何度も耳にした声だった。
膝の上で重ねた両の手を、ジェマイマは動かすことができなかった。
ローレルはそんなジェマイマに焦れたのか、上になっていた右手の手首をやんわりと掴んで持ち上げた。
「殿下」
おやめくださいと言いかけたときには、すでに左手を掴まれて、彼はそのまま薬指に指輪を嵌めてしまった。
「凄いね、ピッタリだ」
指輪は、いつジェマイマのサイズに合わせたのか、指を滑るように通ってピタリと収まった。
「宜しく、婚約者殿」
ジェマイマは、ローレルの真っ青な瞳を見つめて、もう夢の出来事の数々が始まってしまったような錯覚に陥った。
婚約を結ぶ席には父も同席していたのだが、二人でお茶でもと言ったローレルの言葉で、一旦、別室で待つことになっていた。
だが、ローレルと過ごしていた応接室を出たときには父はすでにそこにいて、ジェマイマを待っていた。
回廊を並んで歩き始めると、父はジェマイマに尋ねてきた。
「殿下とは、どうだった」
ジェマイマは、どうしたものかと考えたが、すぐにわかることであるからと、父に向けて左手を掲げて見せた。
「なんてことだ⋯⋯」
父も、一目で指輪がどんな物かを理解して、そこで立ち止まってしまった。
「お断りしたんです」
「断っただと?」
「だって、なにがあるのかわからないのですよ?婚約なんて、殿下のお心次第でどうとでもなるのではないですか?」
「滅多なことを言うものではない」
父はそこで、背後に控える近衛騎士を気にするような様子を見せた。
「どうとなるものではない。それを受け取ってしまったのだから」
妃の証であるサファイアの指輪は、王妃も王太子妃時代に身につけたもので、代々王太子妃に受け継がれるものなのは、夢の中で知りすぎるほど知っていることだった。
彼が果たしてジェマイマをどれほど知っていたかはわからないが、この縁組に明るい展望を抱けないほどにはジェマイマを認識していたのだろう。
ローレルがこれまで婚約者を定めなかった理由はわからないが、選り好みなんてしないでさっさと決めていたなら、彼にしても不本意な婚約を結ぶことはなかっただろう。
ジェマイマだって、あんな最悪な夢を見ずに済んだはずである。
婚約誓約書に署名を終えて、ローレルとは、今は二人きりの部屋にいた。
厳密には、侍従や王城の侍女や近衛騎士がそばにいたのだが、取り敢えず当事者は二人だけだった。
そのためか、ローレルは学園で見せるような華やぎのある表情をすっかり引っ込めていた。
その顔に、ジェマイマは覚えがあった。
夢の中で繰り返した人生で、彼は度々あんな冷ややかな顔をした。
ローレルとは、学園で一度も同じクラスになったことはない。廊下ですれ違うことはあっても、大抵ジェマイマが脇に退けて目線を伏せていたので、彼とは目が合うことすらなかった。
どんな経緯でジェマイマが婚約者になってしまったのか、父に尋ねてもわからなかった。
この婚約は、王家からの打診で成り立ったものである。
愛せないのなら初めから、ジェマイマを避けてくれればよいものを。
真向かいの席で二杯目の紅茶を飲むローレルを、ジェマイマは複雑な思いで見ていた。
「君が望んでいなくても」
カップを手元のソーサーに戻すと、ローレルはジェマイマを見据えて言った。
「この婚約が解かれることはない。承知してもらうよりほかはないんだよ」
ジェマイマは、不服も不平も一言も漏らしてはいないし、寧ろ王命とさえ捉えている。
だが、口に出さなくても顔に出ていたのかもしれないと、表情を引き締めた。
「私なりに、君を大切にする」
嘘つき。
思わず浮かんだ心の声に、ジェマイマは驚いてしまった。あの夢がそうさせるのか、何度も繰り返された冷たい結婚生活に、ジェマイマは無意識のうちにローレルに対して不信感を抱いているようだった。
「婚約の証といえば大袈裟かな」
ローレルがそう言うと、紅茶を乗せたソーサーをテーブルに置くと、ジャケットの胸ポケットからなにかを取り出した。
その途端、ジェマイマは背中に冷たい汗が流れ落ちるのがわかった。
「君に贈るよ」
親指と人差し指に挟んで、彼がテーブル越しにこちらに差し出したものは、夢の中でジェマイマの左手薬指を飾っていたサファイアの指輪だった。
「殿下、そんな⋯⋯」
それは婚姻の儀を終えてから受け取っていたものだった。馬車の事故で命を落とした生でも、流行病で没した生でも、いつの生でもジェマイマの薬指を飾っていた。
まるで冷ややかな感情を青い石に込めているようで、いつの生でもジェマイマの心を締めつけた。
「それは、頂けませんわ」
「嫌なのかな?」
「そうではございませんわ。そちらは妃に贈られるものではございませんか?」
「妃は君になることが、今日の誓約で定まったけれど?」
誓約という言葉に、ジェマイマはぐっと詰まるものを感じた。
「頂けません」
「なぜ?」
「誓約は婚約についてです。婚姻とは別ですわ」
「強情だね」
ローレルは、差し出していた手を引っ込めると、徐ろに立ち上がった。
ジェマイマはてっきり、言葉が過ぎて彼を怒らせてしまったのかと思った。
だが、ローレルはテーブルを回り込んでこちらに来ると、ジェマイマの真横に跪いた。
「ジェマイマ」
驚くジェマイマを見つめながら、行き成り呼び捨てにしたその声音を、ジェマイマはよく知っている。それは、あの夢の中で何度も耳にした声だった。
膝の上で重ねた両の手を、ジェマイマは動かすことができなかった。
ローレルはそんなジェマイマに焦れたのか、上になっていた右手の手首をやんわりと掴んで持ち上げた。
「殿下」
おやめくださいと言いかけたときには、すでに左手を掴まれて、彼はそのまま薬指に指輪を嵌めてしまった。
「凄いね、ピッタリだ」
指輪は、いつジェマイマのサイズに合わせたのか、指を滑るように通ってピタリと収まった。
「宜しく、婚約者殿」
ジェマイマは、ローレルの真っ青な瞳を見つめて、もう夢の出来事の数々が始まってしまったような錯覚に陥った。
婚約を結ぶ席には父も同席していたのだが、二人でお茶でもと言ったローレルの言葉で、一旦、別室で待つことになっていた。
だが、ローレルと過ごしていた応接室を出たときには父はすでにそこにいて、ジェマイマを待っていた。
回廊を並んで歩き始めると、父はジェマイマに尋ねてきた。
「殿下とは、どうだった」
ジェマイマは、どうしたものかと考えたが、すぐにわかることであるからと、父に向けて左手を掲げて見せた。
「なんてことだ⋯⋯」
父も、一目で指輪がどんな物かを理解して、そこで立ち止まってしまった。
「お断りしたんです」
「断っただと?」
「だって、なにがあるのかわからないのですよ?婚約なんて、殿下のお心次第でどうとでもなるのではないですか?」
「滅多なことを言うものではない」
父はそこで、背後に控える近衛騎士を気にするような様子を見せた。
「どうとなるものではない。それを受け取ってしまったのだから」
妃の証であるサファイアの指輪は、王妃も王太子妃時代に身につけたもので、代々王太子妃に受け継がれるものなのは、夢の中で知りすぎるほど知っていることだった。
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