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第十八章
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衝撃音とともに馬車が揺れた。
右側に大きく傾いだ馬車の中で、ジェマイマは窓枠にこめかみを激しく打ち付けられた。
馬車はそのまま横倒しとなって、ジェマイマの上に隣に座っていた侍女が乗り上げてきた。
息を吐いたまま吸うことができない。圧迫された胸はひたすら吐くことだけを繰り返して、呼吸の「吸う」をできずにいた。
勢いづいて窓にぶつかったこめかみから、なにかが滴り落ちて頬をぬらぬらと濡らした。
それが自分の血であることと、どんどん寒さを覚えることから、出血が相当多いだろうとぼんやりとした頭で思った。
なにが起こったかわからなかった。行き成り馬車が傾いたことから、右の車軸が折れたか車輪が外れたか、そのどちらかなのだろうと考えた。
意識が遠のくその向こうで、ジェマイマの名を呼ぶ声がした。
ローレル様?
いいえ、アルフレッド?
のしかかっていた侍女がもちあげられたのか、ふっと身体に掛かる負荷がなくなり、突然身軽になった。
名を呼ぶ声が耳元に聞こえて、それはまるで悲鳴のようだった。
ああ、泣かないで。私のために貴方が悲しむなんて、そんなの可笑しいわ。
だって、貴方は私のことを愛してなんていないのだから。
寒さも息苦しさも、痛みもなにも感じなくなった。
でき得る限り頑張ってみたけれど、不器用な自分では、彼の心までは得ることができなかった。
目を瞑っているからか、辺りは漆黒の闇だった。まだ昼時を過ぎたばかりだったのに、もう夜が来たかと思い違いをしそうになる。
ああ、私、もうすぐ死ぬんだわ。
死は恐ろしいものだと思っていたが、そうでもないとわかった。
死はきっと、あらゆることからジェマイマを解放してくれる。
報われない愛からも、得られない信用からも、それらをどうにもできない不甲斐ない自分からも。
今際の際でジェマイマは、「ようやく死ねる」と安堵した。
「はっ」
「お嬢様、お嬢様、お気づきになられましたか?お嬢様!」
吐き出した吐息に引き摺られるように、ジェマイマは目を開けた。視界を覆っていた暗闇は掻き消えて、白い漆喰の飾り模様が見えた。
ジェマイマの寝台から見える天井だった。
「お嬢様⋯⋯」
ジェーンの呼びかけに、ジェマイマは我に返った。
「ジェーン?」
「はい、お嬢様、ジェーンです」
「どうして私は部屋に⋯⋯」
そこでジェマイマは思い出した。
そうだ、神殿からの帰り道で、馬車が止められたのだった。
座席からずり落ちる感覚が思い出されて、それからするすると記憶が戻る。
そうだわ、幼子が飛び出したのだわ。怪我はなかったと聞いた。
ジェマイマはローレルの腕に受け止められて、かすり傷一つ負わずに済んで、それで⋯⋯。
「私、死んだのではなくて?」
「お嬢様っ」
ジェーンがまるで悲鳴を堪えるようにジェマイマを呼んだ。
そうだわ、悲鳴、悲鳴のように名を呼ばれたのだった。それから、私は暗闇に閉じ込められて、そうして安堵したのだわ。
ようやく死ねる。
「ゆ、夢?」
ジェマイマは、ついさっき確かに死んだ筈だった。だが、馬車の倒れた方向も、身体に受けた衝撃も、昼間の記憶のものではなかった。
どちらの記憶?と一瞬迷って、先ほどのものが夢だったと気がついた。
「ジェーン、私⋯⋯」
「お嬢様は、馬車の中でお倒れになったのです。ローレル殿下がここまでお嬢様をお運びになられて、そのまま医師の診察をお受けになって⋯⋯」
「ローレル殿下が?医師?」
ジェマイマには、なにも記憶がなかった。
だが、一つだけ気がついたのはローレルの呼び方だった。
夢の中でジェマイマは、ローレルを「ローレル様」と呼んでいた。それはまるで親しく名を呼ぶことを許された間柄のように思えた。
「親しかったのかしら」
それではなぜ、死を前にしてあれほど安らかな気持ちになれたのだろう。死ぬことは、まるで天から与えられた恵みのようだった。
「旦那様をお呼びいたします」
ジェーンはそう言うと、慌ただしく小走りになって部屋を出ていった。
一人きりになって、ジェマイマは夢と現実の記憶を並べて思い出していた。
「そんな筈はないわ。夢の中で死んでしまったのは、殿下の妃になってからよ?」
ジェマイマは、ローレルとは婚約したばかりである。
「どうして?」
夢がどんな奇天烈なものであったとしても、所詮は自分の頭の中の出来事である。そもそも現実と全てが符合するものではない。
ローレルとは、神事の間もその後も、悪戯めいた冗談を交わしていた。馬車の事故は本当であったが、彼はジェマイマを受け止めてくれた。
「受け止めて⋯⋯」
ジェマイマはそこで思い出してしまった。
倒れ込んだジェマイマは、ローレルに抱き締められていた。
細身に見える彼の腕が思った以上に力強く、囲まれた腕の中にいて、漂うように感じた香りは彼がつけている香油だったのだろう。
ジェマイマは、ローレルの腕の中にすっぽりと収まって、抱き締められていたのである。
バタバタと騒々しい足音が扉の向こうに聞こえていた。半開きになっていた扉から、ドタドタと幾つもの足音が入ってきた。
「ジェマイマ」「お嬢様」
同時に名前を呼ばれて、ジェマイマは我に返った。
「お父様、アルフレッド⋯⋯」
「大丈夫か、ジェマイマ」
「ええ。大丈夫ですわ、お父様」
「はああぁ」
父はジェマイマの枕元でこちらを覗き込んだのだが、ジェマイマが大丈夫だと答えると、大きく息を吐いて俯いた。
「お前まで、私を置いて行ってくれるな」
ジェマイマがこの世を去ってしまったことを考えたのか、顔を上げた父の目元は潤んで見えた。
その顔に、ジェマイマは思った。
あの夢のあと、父はきっと嘆き悲しんだのだ。
母を亡くしてジェマイマまでも命を落として、父はどれほど哀しんだことだろう。
死ぬものか。
今度こそ、決して死んではならないと、ジェマイマはまるでこれが何度目かの生であるように、決意を改めるのであった。
右側に大きく傾いだ馬車の中で、ジェマイマは窓枠にこめかみを激しく打ち付けられた。
馬車はそのまま横倒しとなって、ジェマイマの上に隣に座っていた侍女が乗り上げてきた。
息を吐いたまま吸うことができない。圧迫された胸はひたすら吐くことだけを繰り返して、呼吸の「吸う」をできずにいた。
勢いづいて窓にぶつかったこめかみから、なにかが滴り落ちて頬をぬらぬらと濡らした。
それが自分の血であることと、どんどん寒さを覚えることから、出血が相当多いだろうとぼんやりとした頭で思った。
なにが起こったかわからなかった。行き成り馬車が傾いたことから、右の車軸が折れたか車輪が外れたか、そのどちらかなのだろうと考えた。
意識が遠のくその向こうで、ジェマイマの名を呼ぶ声がした。
ローレル様?
いいえ、アルフレッド?
のしかかっていた侍女がもちあげられたのか、ふっと身体に掛かる負荷がなくなり、突然身軽になった。
名を呼ぶ声が耳元に聞こえて、それはまるで悲鳴のようだった。
ああ、泣かないで。私のために貴方が悲しむなんて、そんなの可笑しいわ。
だって、貴方は私のことを愛してなんていないのだから。
寒さも息苦しさも、痛みもなにも感じなくなった。
でき得る限り頑張ってみたけれど、不器用な自分では、彼の心までは得ることができなかった。
目を瞑っているからか、辺りは漆黒の闇だった。まだ昼時を過ぎたばかりだったのに、もう夜が来たかと思い違いをしそうになる。
ああ、私、もうすぐ死ぬんだわ。
死は恐ろしいものだと思っていたが、そうでもないとわかった。
死はきっと、あらゆることからジェマイマを解放してくれる。
報われない愛からも、得られない信用からも、それらをどうにもできない不甲斐ない自分からも。
今際の際でジェマイマは、「ようやく死ねる」と安堵した。
「はっ」
「お嬢様、お嬢様、お気づきになられましたか?お嬢様!」
吐き出した吐息に引き摺られるように、ジェマイマは目を開けた。視界を覆っていた暗闇は掻き消えて、白い漆喰の飾り模様が見えた。
ジェマイマの寝台から見える天井だった。
「お嬢様⋯⋯」
ジェーンの呼びかけに、ジェマイマは我に返った。
「ジェーン?」
「はい、お嬢様、ジェーンです」
「どうして私は部屋に⋯⋯」
そこでジェマイマは思い出した。
そうだ、神殿からの帰り道で、馬車が止められたのだった。
座席からずり落ちる感覚が思い出されて、それからするすると記憶が戻る。
そうだわ、幼子が飛び出したのだわ。怪我はなかったと聞いた。
ジェマイマはローレルの腕に受け止められて、かすり傷一つ負わずに済んで、それで⋯⋯。
「私、死んだのではなくて?」
「お嬢様っ」
ジェーンがまるで悲鳴を堪えるようにジェマイマを呼んだ。
そうだわ、悲鳴、悲鳴のように名を呼ばれたのだった。それから、私は暗闇に閉じ込められて、そうして安堵したのだわ。
ようやく死ねる。
「ゆ、夢?」
ジェマイマは、ついさっき確かに死んだ筈だった。だが、馬車の倒れた方向も、身体に受けた衝撃も、昼間の記憶のものではなかった。
どちらの記憶?と一瞬迷って、先ほどのものが夢だったと気がついた。
「ジェーン、私⋯⋯」
「お嬢様は、馬車の中でお倒れになったのです。ローレル殿下がここまでお嬢様をお運びになられて、そのまま医師の診察をお受けになって⋯⋯」
「ローレル殿下が?医師?」
ジェマイマには、なにも記憶がなかった。
だが、一つだけ気がついたのはローレルの呼び方だった。
夢の中でジェマイマは、ローレルを「ローレル様」と呼んでいた。それはまるで親しく名を呼ぶことを許された間柄のように思えた。
「親しかったのかしら」
それではなぜ、死を前にしてあれほど安らかな気持ちになれたのだろう。死ぬことは、まるで天から与えられた恵みのようだった。
「旦那様をお呼びいたします」
ジェーンはそう言うと、慌ただしく小走りになって部屋を出ていった。
一人きりになって、ジェマイマは夢と現実の記憶を並べて思い出していた。
「そんな筈はないわ。夢の中で死んでしまったのは、殿下の妃になってからよ?」
ジェマイマは、ローレルとは婚約したばかりである。
「どうして?」
夢がどんな奇天烈なものであったとしても、所詮は自分の頭の中の出来事である。そもそも現実と全てが符合するものではない。
ローレルとは、神事の間もその後も、悪戯めいた冗談を交わしていた。馬車の事故は本当であったが、彼はジェマイマを受け止めてくれた。
「受け止めて⋯⋯」
ジェマイマはそこで思い出してしまった。
倒れ込んだジェマイマは、ローレルに抱き締められていた。
細身に見える彼の腕が思った以上に力強く、囲まれた腕の中にいて、漂うように感じた香りは彼がつけている香油だったのだろう。
ジェマイマは、ローレルの腕の中にすっぽりと収まって、抱き締められていたのである。
バタバタと騒々しい足音が扉の向こうに聞こえていた。半開きになっていた扉から、ドタドタと幾つもの足音が入ってきた。
「ジェマイマ」「お嬢様」
同時に名前を呼ばれて、ジェマイマは我に返った。
「お父様、アルフレッド⋯⋯」
「大丈夫か、ジェマイマ」
「ええ。大丈夫ですわ、お父様」
「はああぁ」
父はジェマイマの枕元でこちらを覗き込んだのだが、ジェマイマが大丈夫だと答えると、大きく息を吐いて俯いた。
「お前まで、私を置いて行ってくれるな」
ジェマイマがこの世を去ってしまったことを考えたのか、顔を上げた父の目元は潤んで見えた。
その顔に、ジェマイマは思った。
あの夢のあと、父はきっと嘆き悲しんだのだ。
母を亡くしてジェマイマまでも命を落として、父はどれほど哀しんだことだろう。
死ぬものか。
今度こそ、決して死んではならないと、ジェマイマはまるでこれが何度目かの生であるように、決意を改めるのであった。
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