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第三十四章
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「君は、花が好きなの?」
ジュリアンが、誰かに好みを尋ねることは稀だった。稀というより皆無に等しい。家族ならまだしも、学園でこんなふうに他者に興味を抱くことはこれまでなかった。
興味?
自分でそのことに気がついて驚いた。ジュリアンがハリエットに抱いた感情は、はっきりとしたものではなかった。だが、確かに「興味」といってよいものだろう。
「花を嫌いなお方のほうが、少ないのではないでしょうか」
ジュリアンの問いかけに、ハリエットは至極当たり前というふうに答えた。
「ジュリアン様は、何がお好きですの?」
ハリエットから尋ねられて、ジュリアンは戸惑った。
好きなこと?
考えたこともなかった。
自分が何かを好きになるより、他者を不快な気持ちにさせないように気をつけてきた。
邸には今も祖父母に甘えて暮らす母がおり、そんな実母に言いようのない嫌悪感を抱いていた。
その嫌悪が、母から生まれた我が身からも滲み出して、関わる人々に不快感を与えるのではと、少年時代も思っていた。
成長した今は、そこまで鬱屈したものではなくなったが、変わらず同じことを考えている。
ジュリアンは、そこで思わず聞き返してしまった。
「君は、そんなことを聞いて楽しいの?」
傍から聞いたなら、なんて失礼な返しだと思われるだろう。だがジュリアンは本気であったし、ハリエットは笑みを消すことはなかった。
「ええ。どなたかとお知り合いになれたなら、何がお好きなのかと初めに思うのではないかしら」
「そういうものなんだ」
ハリエットは不思議な少女だと思った。彼女だって、お互いの親たちの過去を知っているだろう。普通なら、ジュリアンと関わりなんて持ちたくもないだろう。
そうなのに、アレックスといいハリエットといい、彼らはどこか飄々として、それがジュリアンは嫌ではなかった。
だから、ハリエットに身構えることなく話した。
「そんなことを考えたこともなかった」
「まあ」
瑠璃色の瞳が見開かれて、戸惑うジュリアンを映していた。
「お気づきにならないだけなのではなくて?」
「そうかな」
「食べ物とかは?」
「ああ、苺は好きかな」
「ふふ」
そこでハリエットが笑った。
この兄妹は、笑みを出し惜しみすることがない。
ジュリアンはあまり笑わない。笑えるような愉快なことも楽しいことも、どこか朧げなものだった。
「可笑しいかな。苺が好きって」
「いいえ。貴方に似合うと思って、つい」
ハリエットは、なぜかごめんなさいと小さく詫びた。
「別に構わないよ」
そう言うと、ハリエットは再び目を細めて微笑んだ。
可愛いな。
それは唐突な感情だった。
初めて言葉を交わした少女に、ジュリアンは好感を抱いた。
そんなことは初めてだった。ついさっきまで、彼女とは近づきすぎないようにと思っていたのに、勝手に心が寄ってしまった。
きっと、アレックスの妹だからだろう。そう思うことで納得した。
なんだか悔しいような気がして、こちらからも聞いてみようと思った。
ジュリアンは、そんな思考が自分らしくないことに気づいていない。ハリエットとのやり取りに、すっかり集中していた。
「花のほかには何が好き?」
そう尋ねられて、ハリエットはまた瞳を見開いた。それは彼女の癖なのだろうか。大人しい顔立ちなのに、思った以上に表情が豊かだ。
「旅が好きです」
「へえ」
ジュリアンは、旅なんて考えたこともなかった。だが、楽しそうだとは思えた。
「でも私、旅をしたことはないんです」
「え?したこともないのに好きなの?」
「ええ。父が忙しい人なので、せいぜい郊外に日帰りで遠出をするくらいかしら」
だから、とハリエットは続けた。
「だから、旅をしてみたいんです。広い世界を見てみたい」
そう言って微笑んだハリエットの笑顔が眩しくて、ジュリアンは見ていられなかった。それで彼女の眼差しから逃れるように目を逸らした。
けれど、ハリエットの気持ちはよくわかった。
彼女の言う通りだと思った。広い世界を旅してみたい。誰も自分のことを知らない場所へ行ってみたい。旅先では、誰の目も気にすることはないのだろう。
そこではきっと、ただのジュリアンでいられるのだろう。
「そうだな。それなら僕も同じ気持ちかな」
そう呟いたジュリアンに、ハリエットは頷いた。
学園から戻ると、邸内の空気がおかしかった。ジュリアンは、覚えのある胸騒ぎを感じて気が重くなった。
今日はどこか特別な日だった。いつになく他者に心を動かされて、それを不快と思わなかった。二つ年下の少女と親しく会話をすることも、いつもの自分らしくないことだった。けれど楽しかった。
珍しく明るく浮上した気持ちが、みるみるうちに沈んでいく。
「レイモンド様!」
奥のほうから母の声が聞こえた。
執事がすかさずジュリアンの前に立ち、母の目に触れないようにしてくれた。
「どうかそのままお部屋へ」
その言葉に頷いて、自室に向かって素早く階段を駆け上がった。音を立てないように歩くのは、ジュリアンの得意とすることだった。
母が荒れるのは、いつでも実父の所為だった。
社交界には出ていないのに、母はどこからか父の噂を聞きつけてくる。
どうにもならない関係なのに、母はいつまでも父と恋愛関係にあった時点から一歩も前に進まない。
確かめなくてもわかるのは、きっと父の女性関係を耳にしたのだろう。
実父であるレイモンドは、ジュリアンが幼い頃に再婚していた。
父が領地にいた頃は、母もここまで酷くはなかった。だが、数年前に王都に戻ると、父は一回りも年下の令嬢を妻に娶った。
それを知った時の母の荒れようと言ったら。その頃から、ジュリアンは母から「レイモンド様」と呼ばれることが増えたのだった。
ジュリアンが、誰かに好みを尋ねることは稀だった。稀というより皆無に等しい。家族ならまだしも、学園でこんなふうに他者に興味を抱くことはこれまでなかった。
興味?
自分でそのことに気がついて驚いた。ジュリアンがハリエットに抱いた感情は、はっきりとしたものではなかった。だが、確かに「興味」といってよいものだろう。
「花を嫌いなお方のほうが、少ないのではないでしょうか」
ジュリアンの問いかけに、ハリエットは至極当たり前というふうに答えた。
「ジュリアン様は、何がお好きですの?」
ハリエットから尋ねられて、ジュリアンは戸惑った。
好きなこと?
考えたこともなかった。
自分が何かを好きになるより、他者を不快な気持ちにさせないように気をつけてきた。
邸には今も祖父母に甘えて暮らす母がおり、そんな実母に言いようのない嫌悪感を抱いていた。
その嫌悪が、母から生まれた我が身からも滲み出して、関わる人々に不快感を与えるのではと、少年時代も思っていた。
成長した今は、そこまで鬱屈したものではなくなったが、変わらず同じことを考えている。
ジュリアンは、そこで思わず聞き返してしまった。
「君は、そんなことを聞いて楽しいの?」
傍から聞いたなら、なんて失礼な返しだと思われるだろう。だがジュリアンは本気であったし、ハリエットは笑みを消すことはなかった。
「ええ。どなたかとお知り合いになれたなら、何がお好きなのかと初めに思うのではないかしら」
「そういうものなんだ」
ハリエットは不思議な少女だと思った。彼女だって、お互いの親たちの過去を知っているだろう。普通なら、ジュリアンと関わりなんて持ちたくもないだろう。
そうなのに、アレックスといいハリエットといい、彼らはどこか飄々として、それがジュリアンは嫌ではなかった。
だから、ハリエットに身構えることなく話した。
「そんなことを考えたこともなかった」
「まあ」
瑠璃色の瞳が見開かれて、戸惑うジュリアンを映していた。
「お気づきにならないだけなのではなくて?」
「そうかな」
「食べ物とかは?」
「ああ、苺は好きかな」
「ふふ」
そこでハリエットが笑った。
この兄妹は、笑みを出し惜しみすることがない。
ジュリアンはあまり笑わない。笑えるような愉快なことも楽しいことも、どこか朧げなものだった。
「可笑しいかな。苺が好きって」
「いいえ。貴方に似合うと思って、つい」
ハリエットは、なぜかごめんなさいと小さく詫びた。
「別に構わないよ」
そう言うと、ハリエットは再び目を細めて微笑んだ。
可愛いな。
それは唐突な感情だった。
初めて言葉を交わした少女に、ジュリアンは好感を抱いた。
そんなことは初めてだった。ついさっきまで、彼女とは近づきすぎないようにと思っていたのに、勝手に心が寄ってしまった。
きっと、アレックスの妹だからだろう。そう思うことで納得した。
なんだか悔しいような気がして、こちらからも聞いてみようと思った。
ジュリアンは、そんな思考が自分らしくないことに気づいていない。ハリエットとのやり取りに、すっかり集中していた。
「花のほかには何が好き?」
そう尋ねられて、ハリエットはまた瞳を見開いた。それは彼女の癖なのだろうか。大人しい顔立ちなのに、思った以上に表情が豊かだ。
「旅が好きです」
「へえ」
ジュリアンは、旅なんて考えたこともなかった。だが、楽しそうだとは思えた。
「でも私、旅をしたことはないんです」
「え?したこともないのに好きなの?」
「ええ。父が忙しい人なので、せいぜい郊外に日帰りで遠出をするくらいかしら」
だから、とハリエットは続けた。
「だから、旅をしてみたいんです。広い世界を見てみたい」
そう言って微笑んだハリエットの笑顔が眩しくて、ジュリアンは見ていられなかった。それで彼女の眼差しから逃れるように目を逸らした。
けれど、ハリエットの気持ちはよくわかった。
彼女の言う通りだと思った。広い世界を旅してみたい。誰も自分のことを知らない場所へ行ってみたい。旅先では、誰の目も気にすることはないのだろう。
そこではきっと、ただのジュリアンでいられるのだろう。
「そうだな。それなら僕も同じ気持ちかな」
そう呟いたジュリアンに、ハリエットは頷いた。
学園から戻ると、邸内の空気がおかしかった。ジュリアンは、覚えのある胸騒ぎを感じて気が重くなった。
今日はどこか特別な日だった。いつになく他者に心を動かされて、それを不快と思わなかった。二つ年下の少女と親しく会話をすることも、いつもの自分らしくないことだった。けれど楽しかった。
珍しく明るく浮上した気持ちが、みるみるうちに沈んでいく。
「レイモンド様!」
奥のほうから母の声が聞こえた。
執事がすかさずジュリアンの前に立ち、母の目に触れないようにしてくれた。
「どうかそのままお部屋へ」
その言葉に頷いて、自室に向かって素早く階段を駆け上がった。音を立てないように歩くのは、ジュリアンの得意とすることだった。
母が荒れるのは、いつでも実父の所為だった。
社交界には出ていないのに、母はどこからか父の噂を聞きつけてくる。
どうにもならない関係なのに、母はいつまでも父と恋愛関係にあった時点から一歩も前に進まない。
確かめなくてもわかるのは、きっと父の女性関係を耳にしたのだろう。
実父であるレイモンドは、ジュリアンが幼い頃に再婚していた。
父が領地にいた頃は、母もここまで酷くはなかった。だが、数年前に王都に戻ると、父は一回りも年下の令嬢を妻に娶った。
それを知った時の母の荒れようと言ったら。その頃から、ジュリアンは母から「レイモンド様」と呼ばれることが増えたのだった。
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