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第七章
「まあ、殿下。お気遣いをいただきまして申し訳ございません」
そう言ったのは、母だった。
母は最初からこの場にいて、ジャクリーンと一緒に義兄とクエンティンを出迎えていた。
三人がやり取りする姿を見守っていたのである。途中、義兄が感極まった際には、母もハンカチで目元を押さえていたのだが、あとは穏やかな笑みを浮かべてジャクリーンの後ろに控えていた。
だが、クエンティンがジャクリーンの涙を拭ったところで、それまで気配すら感じさせなかった母が前に出た。
母は時折、なんとも言い表せない存在感を醸し出すことがある。
そんなところが騎士である義父の心を掴んだのかもしれない。
「クエンティン殿下、よろしければお休みになってはいかれませんか?初摘みではないのですが、香りのよい茶葉がございますの」
父との恋愛を貫いて子爵家に嫁いだ母ではあるが、生家は歴史のある伯爵家で、母には深い教養がある。
王族を前にしても、おっとりとした気品を漂わせてクエンティンを貴賓室へ招いた。
「まあジャクリーン。目が赤くなってしまったわね。ジェーンに冷やしてもらいましょう」
そう言うと、母はジェーンに微笑みそのままジャクリーンを託してしまった。
「ジャクリーン様。すぐに冷たいタオルをお持ちいたします」
ジェーンはそう言うと、ジャクリーンを守るように肩に手を添えた。クエンティンへ会釈をすると、その場からジャクリーンを連れて私室へ向かった。
それからジャクリーンは、ジェーンから冷たいタオルを貰って目を冷やした。
ちょっと涙が溢れただけなのに、申し訳ないほど丁寧な手当てを受けていた。
「驚きましたね、まさか殿下をお連れなさるとは」
タオルを取り替えながら、ジェーンが言った。
「お義兄様は、殿下とはご友人なのよね?」
そう尋ねると、ジェーンは頷きながら教えてくれた。
「はい。確かにそうではございますが、これまではスティーブンソン様がお城にお出向きになられておいででした」
伯爵邸にクエンティンが訪れることは滅多にないのだと、ジェーンは続けた。
「もしかしましたら、殿下もジャクリーン様にご興味が湧いたのかもしれません。王家には姫君がいらっしゃいませんから、妹というものが気になられたのではないでしょうか」
ジャクリーンは、知れば知るほど一致する偶然に寒気を覚えた。
前世でも、王家には王女がいなかった。王子ばかりの末っ子が、かつての夫だったのである。
「私はご挨拶に行かなくてもよろしいのかしら」
母が応対していると思ったが、ジャクリーンはこの生で王族とは関わりがなく、粗相がなかったか不安になった。
「奥様にお任せなされば大丈夫ですわ。ジャクリーン様がゆっくりお休みになれるようにとお思いだったのでしょう」
その言葉通りに、それからジャクリーンが呼ばれることはなかった。間もなくクエンティンは帰ったようで、義兄が部屋を訪れることもなかった。晩餐の時間まで邸内は静かだった。
ジャクリーンはその晩、寝台に横たわりながら、昨日からの出来事について考えていた。
クエンティンから涙を拭われたときに、彼と至近距離で目が合った。
間近で見た彼は、恐ろしいほど前世の夫とそっくりだった。
こんなことってあるのだろうか。
ほんの二日前まで、ジャクリーンは母親の再婚に少しばかり不安になっている令嬢だった。
自分が生きる世界のほかに前世があるだなんて思いもしなかった。
そういう概念があることは知っていたが、それはとても稀なことだと思っていた。
なによりそれらは、教会の司祭から聞く宗教的な物語だった。
例えばこの世に本当に、前世とか来世があるとして、どうして自分が今頃、思い出すのか。
前の生は、確かに不遇な人生だったと思う。だが死に際にジャクリーンの心を締めていたのは禍根ではなかった。
前世でクエンティンから裏切られた。それは確かではあったが、彼を愛したことを後悔してはいなかった。
愛情が自分ではない女性に移ったことも、悔しくないわけではなかった。それも死の床にいては、もう為す術はないのだと諦めがついていた。
諦められないことといえば、我が身に宿した子の命だった。
「あの子の魂は、今はどこに行ってしまったのかしら」
ジャクリーンは新しい生を受けたが、あの時の腹の子も、どこかの時代に生まれているのだろうか。
そうであればよいと思った。もしも何事もなく健康に産んであげられたなら、きっとクエンティンに似た美しい子に育ったことだろう。
そこでまたクエンティンのことが思い出された。
『君とは初めて会うような気がしないね。過去世でも一緒だったのかな』
あんなことを言うなんて。
だがクエンティンには、それ以外は変わった様子はなかった。
ジャクリーンのように、過去世を覚えているふうでもなかった。
そこでジャクリーンは思った。
たとえ前世があったとしても、生きている瞬間は今にしかない。ジャクリーンには亡くなった父がいて、今も母がいてくれる。
前世では、と思ったところで気がついた。
クエンティンと義兄のことを覚えていたのに、かつての両親のことも生家のこともはっきり思い出せない。
まるで前の人生での主要人物しか記憶のないままこの世に転生したようだ。
そこでジャクリーンは、はっとした。
「主要人物?」
自分の思いついたことに引っ掛かりを感じた。
「主要人物、主要人物……それって」
それってまさか彼女のこと?
前世で夫のそばに侍る女性がいた。
ジャクリーンは、夫はきっと彼女に心を移したのだと、そう思っていた。
もしも彼女が「主要人物」の一人であるなら、この生でも出会ってしまうのだろうか。
「それはないわ。殿下とはこれ以上関わることはないのですもの」
独り言は、夜の静寂に溶けていった。
しんと静まり返った暗闇の中、ジャクリーンは彼女のことを考えた。
すると朧げだった姿が、たちまち目の前に現れるような気がして、もうそれ以上は考えまいと目を瞑った。
そう言ったのは、母だった。
母は最初からこの場にいて、ジャクリーンと一緒に義兄とクエンティンを出迎えていた。
三人がやり取りする姿を見守っていたのである。途中、義兄が感極まった際には、母もハンカチで目元を押さえていたのだが、あとは穏やかな笑みを浮かべてジャクリーンの後ろに控えていた。
だが、クエンティンがジャクリーンの涙を拭ったところで、それまで気配すら感じさせなかった母が前に出た。
母は時折、なんとも言い表せない存在感を醸し出すことがある。
そんなところが騎士である義父の心を掴んだのかもしれない。
「クエンティン殿下、よろしければお休みになってはいかれませんか?初摘みではないのですが、香りのよい茶葉がございますの」
父との恋愛を貫いて子爵家に嫁いだ母ではあるが、生家は歴史のある伯爵家で、母には深い教養がある。
王族を前にしても、おっとりとした気品を漂わせてクエンティンを貴賓室へ招いた。
「まあジャクリーン。目が赤くなってしまったわね。ジェーンに冷やしてもらいましょう」
そう言うと、母はジェーンに微笑みそのままジャクリーンを託してしまった。
「ジャクリーン様。すぐに冷たいタオルをお持ちいたします」
ジェーンはそう言うと、ジャクリーンを守るように肩に手を添えた。クエンティンへ会釈をすると、その場からジャクリーンを連れて私室へ向かった。
それからジャクリーンは、ジェーンから冷たいタオルを貰って目を冷やした。
ちょっと涙が溢れただけなのに、申し訳ないほど丁寧な手当てを受けていた。
「驚きましたね、まさか殿下をお連れなさるとは」
タオルを取り替えながら、ジェーンが言った。
「お義兄様は、殿下とはご友人なのよね?」
そう尋ねると、ジェーンは頷きながら教えてくれた。
「はい。確かにそうではございますが、これまではスティーブンソン様がお城にお出向きになられておいででした」
伯爵邸にクエンティンが訪れることは滅多にないのだと、ジェーンは続けた。
「もしかしましたら、殿下もジャクリーン様にご興味が湧いたのかもしれません。王家には姫君がいらっしゃいませんから、妹というものが気になられたのではないでしょうか」
ジャクリーンは、知れば知るほど一致する偶然に寒気を覚えた。
前世でも、王家には王女がいなかった。王子ばかりの末っ子が、かつての夫だったのである。
「私はご挨拶に行かなくてもよろしいのかしら」
母が応対していると思ったが、ジャクリーンはこの生で王族とは関わりがなく、粗相がなかったか不安になった。
「奥様にお任せなされば大丈夫ですわ。ジャクリーン様がゆっくりお休みになれるようにとお思いだったのでしょう」
その言葉通りに、それからジャクリーンが呼ばれることはなかった。間もなくクエンティンは帰ったようで、義兄が部屋を訪れることもなかった。晩餐の時間まで邸内は静かだった。
ジャクリーンはその晩、寝台に横たわりながら、昨日からの出来事について考えていた。
クエンティンから涙を拭われたときに、彼と至近距離で目が合った。
間近で見た彼は、恐ろしいほど前世の夫とそっくりだった。
こんなことってあるのだろうか。
ほんの二日前まで、ジャクリーンは母親の再婚に少しばかり不安になっている令嬢だった。
自分が生きる世界のほかに前世があるだなんて思いもしなかった。
そういう概念があることは知っていたが、それはとても稀なことだと思っていた。
なによりそれらは、教会の司祭から聞く宗教的な物語だった。
例えばこの世に本当に、前世とか来世があるとして、どうして自分が今頃、思い出すのか。
前の生は、確かに不遇な人生だったと思う。だが死に際にジャクリーンの心を締めていたのは禍根ではなかった。
前世でクエンティンから裏切られた。それは確かではあったが、彼を愛したことを後悔してはいなかった。
愛情が自分ではない女性に移ったことも、悔しくないわけではなかった。それも死の床にいては、もう為す術はないのだと諦めがついていた。
諦められないことといえば、我が身に宿した子の命だった。
「あの子の魂は、今はどこに行ってしまったのかしら」
ジャクリーンは新しい生を受けたが、あの時の腹の子も、どこかの時代に生まれているのだろうか。
そうであればよいと思った。もしも何事もなく健康に産んであげられたなら、きっとクエンティンに似た美しい子に育ったことだろう。
そこでまたクエンティンのことが思い出された。
『君とは初めて会うような気がしないね。過去世でも一緒だったのかな』
あんなことを言うなんて。
だがクエンティンには、それ以外は変わった様子はなかった。
ジャクリーンのように、過去世を覚えているふうでもなかった。
そこでジャクリーンは思った。
たとえ前世があったとしても、生きている瞬間は今にしかない。ジャクリーンには亡くなった父がいて、今も母がいてくれる。
前世では、と思ったところで気がついた。
クエンティンと義兄のことを覚えていたのに、かつての両親のことも生家のこともはっきり思い出せない。
まるで前の人生での主要人物しか記憶のないままこの世に転生したようだ。
そこでジャクリーンは、はっとした。
「主要人物?」
自分の思いついたことに引っ掛かりを感じた。
「主要人物、主要人物……それって」
それってまさか彼女のこと?
前世で夫のそばに侍る女性がいた。
ジャクリーンは、夫はきっと彼女に心を移したのだと、そう思っていた。
もしも彼女が「主要人物」の一人であるなら、この生でも出会ってしまうのだろうか。
「それはないわ。殿下とはこれ以上関わることはないのですもの」
独り言は、夜の静寂に溶けていった。
しんと静まり返った暗闇の中、ジャクリーンは彼女のことを考えた。
すると朧げだった姿が、たちまち目の前に現れるような気がして、もうそれ以上は考えまいと目を瞑った。
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