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「少し、疲れたみたい。今日はもう休むわね。お食事も結構よ。」
別荘に戻ってから、ルイーザは真っ直ぐ自室へ引き上げた。
ジェイムズもヘレンも心配しているのはよく解っていた。セバスが案じる気持ちも、ちゃんと伝わっていた。
ルイーザが王都を出たのは心に疵を負ったからで、努力の末に築き上げたと思った自信がぽっきり折れてしまったからで、自分が情けなくて恥ずかしくてどうしようも身の置き場が無かったからだ。
ジェイムズに「ほっぽり出してやろう」と言われて心が動いた。
あの言葉にルイーザは救われた。ルイーザがいてもいなくても、侯爵家は変わらない。変わらず回って行くのだと気が付いて、何もかも後ろめたさも悔しさも、全部ほっぽり出して逃げて来た。
あの時逃げ出して、ルイーザは良かったと思っている。ここでの暮らしは忘れた時間を取り戻すような、静かな日常だけがある暮らしだ。
時間に追われることも、身支度が疎かになる忙しなさも無い。家の差配も貴族の社交も何も無い。
あるのは退屈だと持て余す時間と、庭に揺らるブランコ、黒い実を付ける果実に穏やかな街の人々、配達を急いでくれる郵便局員、目利きの文具店に、名前の長い漆黒のケーキ。年老いた勤勉な執事に、気心の知れた使用人。
ゆっくりと知らず知らずの内に、王都と違う時の流れと出会う人々に、時間薬がじわりじわりと効く様に、ルイーザはゆっくりと確実に癒されていた。
けれどもそれはルイーザの身に起こった出来事で、ルイーザが変わろうが変わるまいが侯爵家には何も影響しない事である。
「私がいても、いなくても、」
地球は回るし侯爵家は回って行く。
「私がいなくても、旦那様は、」
平気?そこまで考えが及んだところで、ルイーザは立ち上がった。
どうやら邸に戻ってきたまま、文机の椅子に座り込んでいたらしい。目の前が暗く見えるのはサングラスを掛けたままであるからだ。
分厚いトレンチコートを脱ぎ、頭を覆うネッカチーフを取る。
暗がりの原因だと思ったサングラスを外せば、窓の外には夕闇が広がっていた。
地平線に鮮やかな赤が残って見えた。燃える夏の日差しが宵闇に追いやられて逃げて行く。逃げながら尚も赤々と燃えている。
燃えて燃えて燃え尽きて、夜の闇に美しい紫を残して消えて行く。
「堪ったものではないわ。」
ルイーザは、沈む夕日に向かって吼えた。
「確かに逃げはしたわ。」
「だけど、全部捨てた訳じゃない。」
「いてもいなくても同じなら、私がいたって良いじゃない。居座ったっていいじゃない。」
「私はルイーザ。ルイーザ・アディソン・ロンデール。ロンデール侯爵夫人よ。旦那様の妻なのよ。」
誰が何と言おうとも、ルイーザはオーガストの妻である。ちょっと、いやかなりヘコんで傷付いた。けれどそれで夫への愛が消えて無くなる訳ではない。
オーガストがルイーザ以外に心惹かれる女性がいると言うなら、ルイーザはいつでも潔く引き下がる覚悟がある。一度離れた愛は戻らない。縋って無理やり引き寄せても、心は虚しいばかりだろう。
けれどもそうでないのなら、彼がルイーザを妻と認めてくれるなら、ルイーザの居場所とは夫なのだ。
自分で自分に宣言する様に、トレンチコートで汗塗れになった額に玉の汗を滲ませて、ルイーザは開け放たれた窓から宵闇に向かって宣言した。
「私は王都に戻るのよ。旦那様の下に戻るのよ。今は夏のバカンスなの。私の居場所は旦那様の下だけなのよ。」
赤々と燃える夕焼けは、細い稜線を浮き上がらせて山の尾根の向こうへ消えて行った。宵の明星が瞬いて見えた。金星は愛を司る。瞬く金星が愛せよとルイーザに語りかけて見えた。
「お腹が減ったわね。」
心が定まり胸がすっきりした後には、猛烈な空腹が訪れた。
「ルイーザ様、お代わりは如何でしょう。」
突然食堂室に現れたルイーザを、使用人達は驚き出迎えた。彼等は未だ食事を始めてはいなかった。きっとルイーザを待っていたのだろう。
三人が三人とも立ち上がり、ルイーザを座らせ膳を用意し晩餐の準備をする。慌ただしく動き出した彼等の姿に、ルイーザはほんのちょっぴり涙が出た。
温められたパンにバターが溶けていく。スープが空きっ腹にじんわり染みる。ここでは使用人は皆家族で、四人で囲む食卓は賑やかで明るい。
王都で夫は今頃どうしているだろう。一人きりの晩餐は淋しくはなかろうか。
大人の夫は多分、そんな事は思わないかも知れない。けれども、ルイーザが側にいたなら、きっと彼はルイーザの話しに耳を傾け、ルイーザを見つめて言葉を返してくれるだろう。
夫はルイーザの為に絵葉書を選び、ルイーザの為にあんな可愛いレターボックスを選んでくれた。
どんな顔をして選んだのだろう。
手紙を書こう。誕生祝いにあのコバルトブルーの万年筆を贈ろう。もう直ぐ夫の誕生日だ、楽しい事を考えよう。
「セバス、ごめんなさいね、トレンチコートを汗塗れにしてしまったわ。」
「お気になさらないで下さい。なかなかお似合いではなかったですか。」
「ええ、楽しかったわ。一発でバレたけれど。」
それからジェイムズが、ルイーザの変装っぷりが街で悪目立ちしていたのだとセバスにぼやいた。
「私は正直申しまして、一緒に歩くのが恥ずかしかった。王都の仮装カーニバルに参加した気分でした。」
「あら、そうですか。私は楽しかったですよ。ルイーザ様もとてもお似合いでした。真っ昼間から怪しさ満点で。」
「ヘレン、貴女、意外とワイルドな趣味をしているのね。確かに面白かったのだけれど、猛烈に暑かったわ。真夏には無理な装いだわ。あれは秋まで封印ね。」
「まだおやりになるおつもりで?」
「ええ、いつか旦那様の前でもやってみようかしら。あの方は、きっと私だと気付かないと思うわ。」
いや、それは無いだろうと、三人は心の中で呟いた。
別荘に戻ってから、ルイーザは真っ直ぐ自室へ引き上げた。
ジェイムズもヘレンも心配しているのはよく解っていた。セバスが案じる気持ちも、ちゃんと伝わっていた。
ルイーザが王都を出たのは心に疵を負ったからで、努力の末に築き上げたと思った自信がぽっきり折れてしまったからで、自分が情けなくて恥ずかしくてどうしようも身の置き場が無かったからだ。
ジェイムズに「ほっぽり出してやろう」と言われて心が動いた。
あの言葉にルイーザは救われた。ルイーザがいてもいなくても、侯爵家は変わらない。変わらず回って行くのだと気が付いて、何もかも後ろめたさも悔しさも、全部ほっぽり出して逃げて来た。
あの時逃げ出して、ルイーザは良かったと思っている。ここでの暮らしは忘れた時間を取り戻すような、静かな日常だけがある暮らしだ。
時間に追われることも、身支度が疎かになる忙しなさも無い。家の差配も貴族の社交も何も無い。
あるのは退屈だと持て余す時間と、庭に揺らるブランコ、黒い実を付ける果実に穏やかな街の人々、配達を急いでくれる郵便局員、目利きの文具店に、名前の長い漆黒のケーキ。年老いた勤勉な執事に、気心の知れた使用人。
ゆっくりと知らず知らずの内に、王都と違う時の流れと出会う人々に、時間薬がじわりじわりと効く様に、ルイーザはゆっくりと確実に癒されていた。
けれどもそれはルイーザの身に起こった出来事で、ルイーザが変わろうが変わるまいが侯爵家には何も影響しない事である。
「私がいても、いなくても、」
地球は回るし侯爵家は回って行く。
「私がいなくても、旦那様は、」
平気?そこまで考えが及んだところで、ルイーザは立ち上がった。
どうやら邸に戻ってきたまま、文机の椅子に座り込んでいたらしい。目の前が暗く見えるのはサングラスを掛けたままであるからだ。
分厚いトレンチコートを脱ぎ、頭を覆うネッカチーフを取る。
暗がりの原因だと思ったサングラスを外せば、窓の外には夕闇が広がっていた。
地平線に鮮やかな赤が残って見えた。燃える夏の日差しが宵闇に追いやられて逃げて行く。逃げながら尚も赤々と燃えている。
燃えて燃えて燃え尽きて、夜の闇に美しい紫を残して消えて行く。
「堪ったものではないわ。」
ルイーザは、沈む夕日に向かって吼えた。
「確かに逃げはしたわ。」
「だけど、全部捨てた訳じゃない。」
「いてもいなくても同じなら、私がいたって良いじゃない。居座ったっていいじゃない。」
「私はルイーザ。ルイーザ・アディソン・ロンデール。ロンデール侯爵夫人よ。旦那様の妻なのよ。」
誰が何と言おうとも、ルイーザはオーガストの妻である。ちょっと、いやかなりヘコんで傷付いた。けれどそれで夫への愛が消えて無くなる訳ではない。
オーガストがルイーザ以外に心惹かれる女性がいると言うなら、ルイーザはいつでも潔く引き下がる覚悟がある。一度離れた愛は戻らない。縋って無理やり引き寄せても、心は虚しいばかりだろう。
けれどもそうでないのなら、彼がルイーザを妻と認めてくれるなら、ルイーザの居場所とは夫なのだ。
自分で自分に宣言する様に、トレンチコートで汗塗れになった額に玉の汗を滲ませて、ルイーザは開け放たれた窓から宵闇に向かって宣言した。
「私は王都に戻るのよ。旦那様の下に戻るのよ。今は夏のバカンスなの。私の居場所は旦那様の下だけなのよ。」
赤々と燃える夕焼けは、細い稜線を浮き上がらせて山の尾根の向こうへ消えて行った。宵の明星が瞬いて見えた。金星は愛を司る。瞬く金星が愛せよとルイーザに語りかけて見えた。
「お腹が減ったわね。」
心が定まり胸がすっきりした後には、猛烈な空腹が訪れた。
「ルイーザ様、お代わりは如何でしょう。」
突然食堂室に現れたルイーザを、使用人達は驚き出迎えた。彼等は未だ食事を始めてはいなかった。きっとルイーザを待っていたのだろう。
三人が三人とも立ち上がり、ルイーザを座らせ膳を用意し晩餐の準備をする。慌ただしく動き出した彼等の姿に、ルイーザはほんのちょっぴり涙が出た。
温められたパンにバターが溶けていく。スープが空きっ腹にじんわり染みる。ここでは使用人は皆家族で、四人で囲む食卓は賑やかで明るい。
王都で夫は今頃どうしているだろう。一人きりの晩餐は淋しくはなかろうか。
大人の夫は多分、そんな事は思わないかも知れない。けれども、ルイーザが側にいたなら、きっと彼はルイーザの話しに耳を傾け、ルイーザを見つめて言葉を返してくれるだろう。
夫はルイーザの為に絵葉書を選び、ルイーザの為にあんな可愛いレターボックスを選んでくれた。
どんな顔をして選んだのだろう。
手紙を書こう。誕生祝いにあのコバルトブルーの万年筆を贈ろう。もう直ぐ夫の誕生日だ、楽しい事を考えよう。
「セバス、ごめんなさいね、トレンチコートを汗塗れにしてしまったわ。」
「お気になさらないで下さい。なかなかお似合いではなかったですか。」
「ええ、楽しかったわ。一発でバレたけれど。」
それからジェイムズが、ルイーザの変装っぷりが街で悪目立ちしていたのだとセバスにぼやいた。
「私は正直申しまして、一緒に歩くのが恥ずかしかった。王都の仮装カーニバルに参加した気分でした。」
「あら、そうですか。私は楽しかったですよ。ルイーザ様もとてもお似合いでした。真っ昼間から怪しさ満点で。」
「ヘレン、貴女、意外とワイルドな趣味をしているのね。確かに面白かったのだけれど、猛烈に暑かったわ。真夏には無理な装いだわ。あれは秋まで封印ね。」
「まだおやりになるおつもりで?」
「ええ、いつか旦那様の前でもやってみようかしら。あの方は、きっと私だと気付かないと思うわ。」
いや、それは無いだろうと、三人は心の中で呟いた。
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