アウローラの望まれた婚姻

桃井すもも

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手薬煉てぐすねを引くとはこう云う場面を言うのだろう。遠目にミネットとトーマスの姿が見えてそう思った。


勤勉な御者をそそのかすのを諦めたアウローラは、寄り道せずに邸へと戻った。
玄関ホールで執事に促され、母の執務室へと向かう。制服から着替えもせずに足早に歩きながら、これってまるで昨日の繰り返しの様だと思う。
違うとすれば、急ぎ歩くアウローラのすぐ後ろをミネットとトーマスが肩を並べて付いてくるところか。

「お姉様、遅かったわね。私達、待っていたのよ。」

トーマスは、何故ミネットと並び歩いているのだろう。まだ書類上ではアウローラの婚約者であるのだが、ミネットもトーマスもそこには思い至らないらしい。

執事がアウローラの訪れを告げれば、中から「入って」と母の声が聞こえた。

開かれた扉から入室する。すっかり馴染んだ執務室のインク混じりの匂い。もう、ここへ来ることは執務以外で母に呼ばれる時だけとなるのだろう。

「只今帰りました、お母様。」

アウローラが入室したのには気付いていただろう母は、アウローラの声が耳に入ってからも、手元の書類に視線を落としてペンを走らせている。

「お帰りなさい、そこへ座って。」

一段落ついたらしい母に促されて二人掛けのソファーに腰掛ければ、母は眼鏡を外して執務机からこちらへと歩いてくる。

どこまでも昨日と同じ光景である。

「ああ、貴女達は少し待っていて頂戴。」

その言葉に、アウローラは扉の方へと振り返った。入り口に、ミネットとトーマスが並び立っている。どうやら入室を執事に止められたらしい。

「あの、お母様、私達も..」
「ええ、もちろんよ。先にアウローラと話があるから貴女達は待っていなさい。ソーマ、トーマス様とミネットをティールームへ。」

ソーマとは執事の名である。彼はスタンリー伯爵家傘下の子爵家の出で、母やアウローラと同じ栗毛色の髪から分かるように、同じ一族の人間である。
彼は母に最も忠実な側近である。


侍女がお茶を淹れてくれる。カップは二つだけであるから、ミネット達はしばらく呼ばれないのだろう。

「疲れたでしょう。」

疲れているのは母の方だ。

「いいえ。」
「貴女は私に良く似ているわ。不器用で勤勉で怠けることを知らない。とても頑張り屋さんだわ。」

幼子を励ます様に母に褒められ、アウローラは心が温かくなる。尊敬する母に、自身と似ていると言われるのが嬉しかった。

「お母様。」
「ん?何かしら。」

母は、後継者入れ替えという緊急事態にあって、珍しくお茶を楽しんでいるように見えた。

「私、我が儘を一つ言いたくて。」
「それはどんな?」
「チェイスター男爵位を私に下さいませ。」
「良いわよ。」
「えっ、」
「良いわよ。そうね、婚姻前に相続を済ませましょう。爵位を得て婚姻するなら、貴女の身分だわ。爵位も領地も好きに差配なさい。」
「よろしいの?」
「ええ。私は手一杯で彼処を寝かせておくしか出来ないもの。ミネットは存在すら覚えていないかも知れないわね。」
「ありがとうございます。」

母と自分が思考まで似ている事がアウローラの背中を押した。

「クロノス殿下から伺いました。」
「そう。なんて?」
「殿下からの差し金だと。」
「ふふ、差し金ねえ。アウローラ、それこそ名誉な事なのよ。」
「ですが...」
「それ以上は昨日の繰り返しになるわ。もう貴女の未来は定まったのよ。覚悟を決めて進みなさい。ああ、学園を卒業するまでもう少し私の手伝いをお願いするわ。勿論、侯爵夫人教育が優先ですけれど。」
「え?ミネットは?」
「ミネットは、今年度いっぱい生徒会活動に専念したいそうよ。トーマス様と一緒に最後まで務めたいのだとか。」
「はあ。」

母の執務を学ぶなら、生徒会執行部を退かねばならない。ミネットは、トーマスとの学園生活を優先したのだろう。

「ミネットには最終学年に上がったら頑張ってもらいます。トーマス様も一緒に学んで下さるそうですし。」

トーマスは、アウローラと一緒に学ぶ思考は無かったのか。ついついひねくれた考えが湧いてくる。

「週末に、閣下がいらっしゃいます。そこで書面を交わしたら、正式に婚約成立となるわ。貴女は将来の侯爵夫人として、これまで以上に励まねばなりません。助けたくとも私達の手は及ばなくなる。」

王妃を輩出した侯爵家に、伯爵家が介入出来ることなど皆無である。

気を利かせた侍女が小振りな焼き菓子を用意して、晩餐前であるのに母と二人で味わった。自室よりも馴染んだ母の執務室で、紙とインクの匂いに囲まれながら母娘の束の間のティータイムは、アウローラの心に温かな記憶として残った。



漸く入室を許されたミネットとトーマスが揃って、此度の婚姻についての大まかな説明が為された。その場には父もいて、硬くなりがちな雰囲気が和らぐ。

「昨日話した通り、アウローラはフェイラー侯爵家へ嫁ぐ事となりました。これは王家の口添えによる名誉な縁談です。」

「王家...」

母の言葉をなぞる様にミネットが呟く。

「そうよ。でなければ後継教育を施した嫡女を得るなどという事は、たとえ侯爵家であってもそうそう容易い事ではないわ。アウローラは、望まれて嫁ぐのです。」

「望まれて...」

「アウローラ。貴女を手放す日が来るとは、正直思わなかったわ。我が身一つで輿入れする事になったけれど、貴女ならどこにいても立てるでしょう。閣下をお支えして侯爵家の繁栄にお務めなさい。」

「繁栄...」

アウローラは、いちいち母の言葉をなぞるミネットに吹き出しそうになった。そこで自分の気持ちが切り替わっている事に気が付いた。

ミネットとトーマスがぴたりと寄り添い並ぶ姿に胸の痛みを感じなかったのは、多分母の言葉のおかげだろう。




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