アウローラの望まれた婚姻

桃井すもも

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【26】

アストリウスが手を差し伸べた。
アウローラは、まるでその手に惹き寄せられる様に僅かに腰を浮かした。

そこで戸惑いを見せたアウローラに、

「アウローラ」

アストリウスが名を呼んだ。

ああ、抗えない。この男に惹き寄せられる心を止められない。

アウローラがやや前屈みのまま更に腰を浮かせて、身体が座席から離れる。それからアストリウスが差し出す手に、そっと手を伸ばした。

アウローラの手がアストリウスの手の平に触れる瞬間、その手が大きな手に包み込まれた。
引き寄せられながら、アウローラは世界から音が消えた様に思った。

青い瞳が近付いて、背中にも大きな手が添えられて、それが熱を持っているのがコート越しにも解ってしまう。

クリノリンを身に着けず、内側にペチコートを重ねたドレスがアストリウスに乗り上がる。
空気を含んだバルーンの様にアストリウスの膝の上で膨らんだドレスが萎む頃には、アウローラはアストリウスの腕の中に抱き締められていた。

触れるだけの口付けを、アストリウスは何度もアウローラに押し当てる。まるで戯れ合う様に、戯れの口付けを押し当てられた唇は、幾度目かには唇ごと飲み込まれた。

生まれて初めての口付けは、少しもロマンチックなものなんかじゃなかった。どこもかしこも密着して、互いに離すまい離れるまいとしがみつく。狂おしい程の口付けを与えられるまま受け止めて、生理的な涙が溢れた。じきにそれはアウローラの感情を昂らせて、切ない思いが胸いっぱいに広がって行く。

アストリウスはここにいるのに、今、濃厚な口付けを与えられているのに、次の瞬間には離ればなれになってしまうのではないか、置いて行かれるのではないかと猛烈な恐怖に襲われて、アウローラはアストリウスの首に腕を絡めて抱き着いた。

貴方を離したくない。何を失っても、貴方だけは失いたくない。

生まれて初めての口付けは、生まれ初めての執着を齎した。
姉であるから、愛されないから、そうやって初めての恋は諦め手放せたのに、二度目の恋だけは失いたくないと思った。


音の無い世界に音が戻れば、二人の荒く弾んだ息と、耳鳴りがする程の鼓動が聴こえた。
耳を打つ鼓動は自分のものだ。アウローラは、そっとアストリウスの胸元に手の平を当ててみた。

「鼓動が解るわ」
「君を得たいと願ったから」
「貴方が?私を?願ったと言うの?」
「私は君を得られたか?」

アウローラは、青い瞳を見つめ返す。
それから両の手の平で、アストリウスの頬へと触れた。白い指先がアストリウスに触れて、そうしてアウローラは答えた。

「ええ。私は貴方のものよ。」

それから身を乗り出して、瞼を閉じながらアストリウスの唇にキスをした。


幾度目かの濃厚な口付けを交わしていると、扉が小さくノックされた。
馬車の外で侍従が待っている。待たされて催促したのでは無く、主が令嬢に手を付けてしまうのではないかと案じたらしい。

「聖夜の贈り物に、君を攫ってしまいたいな。」
「聖夜はまだよ。」
「へえ。聖夜なら良いのか?」
「駄目に決まっているじゃない。」
「春が待ち遠しいな。」

そろそろ扉を開けなければ、侍従が泣いてしまうのではと思った。御者も凍えているだろう。

アウローラは、寄り掛かった身体を起こして、アストリウスから身を離した。アストリウスはそんなアウローラの腰を掴んで、両足が床に着くように助けてくれる。そのままアウローラを背後の座席に座らせて、それから「開けて良い」と声を掛けた。


ステップを降りるのにも、アストリウスの視線を感じる。それは侍従からも御者からも向けられているようで、アウローラは恥ずかしくなってしまった。

顔を上げれば邸の玄関ホールには、幾つも人影が見えている。アウローラ達を出迎えるのに、使用人達が立ち並んでいる。

なかなか馬車から降りない二人に、どうか誰も何があったかなんて考えないでほしい。
アウローラはすっかり小さくなってしまったのに、身も心も大きな婚約者は、そんな事を気にする風はまるで無かった。

「アウローラ」

邸に入る前に名を呼ばれて見上げれば、

「あ、」

思わず声が漏れてしまった。そうして咄嗟に手が伸びて、指先でアストリウスの口元を拭う。
アウローラの紅がアストリウスの唇を汚していた。どれほど濃厚な接触があったかを教えているようであった。

アストリウスはそれに小さく笑って、そうしてアウローラの前髪を人差し指の指先でそっと梳いた。
真逆、乱れていただろうか。心配するアウローラを他所に、アストリウスの指先はアウローラの目尻を拭う。

涙が化粧を滲ませたらしい。侍女はなんと思うだろう。正常に回り始めた頭が幾つもの心配事を思い浮かべる内に邸の中に入ってしまった。

「この世に神の慈悲とは確かにあるのだな。」

アストリウスが求めた慈悲が、あの濃密な口付けであったことに、アウローラはもう何も言えなくなってしまった。

ただ、去りゆく背中を見つめて、その背が馬車の中に消えて、馬車が邸を出てしまうまで、まばたきするのも忘れた様に只管ひたすら見つめているのだった。

神の慈悲を受け取ったのは私の方だと、そう思った。



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