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第十五章
ロジャーは決して悪人ではない。だが、誠実かと言われれば、妻に対してはそうとは言えない。
バカヤローなんて言葉を聞いて、誠実を欠く夫に、そんなことを口にする自分を思い浮かべてみた。
「ふふふ、想像だけにしておきますわ」
想像するだけでも気が軽くなる。
まだ笑いの収まらぬまま言えば、ノーマンは薄く笑みを浮かべて「そうですか」と言った。
彼は飽くまでも、義母から依頼された絵師である。アデレイドの友人ではないのだから、冗談は言っても深入りはしてこない。
アデレイドの世界は狭い。
友人はいるにはいるが、皆、同じように貴族の妻となり、中にはセルマのように職業婦人となった友もいる。
アデレイドはそこで、ノーマンに尋ねてみた。
「ノーマン様は、これからどうなさるおつもりなのですか?」
ノーマンはデッサンの手を止めぬまま、アデレイドを見た。琥珀色の瞳は彼を蠱惑的にも清廉にも見せて、不思議な気持ちにさせられる。
「先ずは、貴女の絵を仕上げます」
それはそうだろうと思いながら、うっかりまた吹き出しそうになる。
「それから、小さな屋敷か、いっそ街中にアパートメントを探して、それから生家を出て」
それから、それからと続けるノーマンには、この先やりたいことが多いようだった。
「それとも、旅でもしながら絵を描くのもいいですね」
「まあ。放浪の画家におなりになるの?」
「行く先々で絵を売って路銀を稼ぐ。放浪画家と呼ばれるなら、確かにそうかな」
貴族に生まれた彼の口から「路銀を稼ぐ」なんて言葉を聞いて、どこか哀しい響きを感じた。
だからつい言ってみたのである。
「王都を出てしまわれるのですか?」
まるで彼の不在を惜しむようなことを言ってしまった。知り合ってからそれほど日は経っていなかったし、お互い立場が異なる。
ただ、彼が言ったように、心に思うことだけは自由でいてもよいのなら。
「お友だちが遠くに行ってしまうのは、寂しいことです」
彼を友人だと思ってもよいだろうか。
ノーマンは、薄く笑ったまま何も言わなかった。きっと彼は、退屈を持て余す若夫人の戯言だと聞き流したのだろう。
その夜、アデレイドは自室で眠ることとなった。
ノーマンを見送ってから自室に戻り、やり残した家政がないか確かめようとしたところで、月の穢れが訪れた。
朝からいつになく行動的だったのは、月のものによる情緒の変化の所為だったのか。
兎に角、あんなことの後に夫と同じ寝台で横になるのは気が重かった。
そう思えば、今日は終いまで天に味方されたと思える。
晩餐の席でも、家族に特別な変化はなかった。義母はきっと、義父からあらましを聞かされたのだろうが、彼女もまた当主夫人である。
無闇に事を荒立てない姿は貴族らしく、そこには相手がマルグリットであることも関係しているのだろう。
ロジャーがどんな表情をしていたかはわからない。彼とは向かい合わせに座っているが、アデレイドは月のものの訪れから食欲が失せて、何となくぼんやりしてしまった。
俯き加減になって食の進まないアデレイドに、義母が見かねて「今日はもう、お休みなさい」と声をかけてくれた。
温かいミルクを用意すると、セルマはアデレイドを気遣って早々に退室した。
その後、部屋にはアデレイドだけとなった。
数日前に満月を過ぎて、月は日に日に痩せていく。それでも窓から射し込む月明かりは仄かに部屋を照らして、室内が闇に覆われることはなかった。
『旅でもしながら絵を描くでしょうね』
日中に聞いたノーマンの言葉が蘇った。
ノーマンも、セルマも彼女の婚約者もそうであるが、彼らは貴族の身分を失う未来を恐れていない。
それはきっと、幼少の頃から少しずつ覚悟を重ねてきたからだろう。
アデレイドにしても同じことだったのに、貴族の妻になることが当然と思っていたから、今になって心許ない気持ちになるのだろうか。
たとえ貴族夫人となっても、妻自身の身分は脆弱なものである。それを知りながら、ロジャーの妻になることだけが、定められた未来だと受け入れていた。
「それが責任なのだと……そう思ったの」
「だってほかに、生き方なんてわからなかったのだもの」
「お父様のお決めになったとおりにすれば……」
正しいのだと、信じていた。
柔らかな月明かりに雲が射して、部屋は宵闇に包まれた。
アデレイドの独り言が闇に紛れて消えていく。
生家のために、婚家のために。
ロジャーのためにと暮らしてきた。
衣食に恵まれ不自由はないが、アデレイドは自分が空っぽのように思った。
「空っぽだから、子を授かれないの?」
こんな淋しい母親では、赤子まで淋しくなってしまうだろうか。
望んでも望んでも子は授からずに、また月のものが訪れてナーバスになっているのだろう。思考まで後ろ向きになっていくようだった。
もっと自分を好きになりたい。
もっと……と考えたときに、やはり思い出されたのはノーマンの言葉だった。
『いつでも伸び伸びと、貴女らしくいらっしゃればよろしいでしょう』
「いつでも、伸び伸びと」
天井を見上げながら呟いてみる。
心は自分のものなのだと彼は言った。
「私らしく……それってどんな私なのかしら」
月を覆った雲が通りすぎてゆく。
アデレイドの心にも、再び柔らかな光が射すように思えた。
バカヤローなんて言葉を聞いて、誠実を欠く夫に、そんなことを口にする自分を思い浮かべてみた。
「ふふふ、想像だけにしておきますわ」
想像するだけでも気が軽くなる。
まだ笑いの収まらぬまま言えば、ノーマンは薄く笑みを浮かべて「そうですか」と言った。
彼は飽くまでも、義母から依頼された絵師である。アデレイドの友人ではないのだから、冗談は言っても深入りはしてこない。
アデレイドの世界は狭い。
友人はいるにはいるが、皆、同じように貴族の妻となり、中にはセルマのように職業婦人となった友もいる。
アデレイドはそこで、ノーマンに尋ねてみた。
「ノーマン様は、これからどうなさるおつもりなのですか?」
ノーマンはデッサンの手を止めぬまま、アデレイドを見た。琥珀色の瞳は彼を蠱惑的にも清廉にも見せて、不思議な気持ちにさせられる。
「先ずは、貴女の絵を仕上げます」
それはそうだろうと思いながら、うっかりまた吹き出しそうになる。
「それから、小さな屋敷か、いっそ街中にアパートメントを探して、それから生家を出て」
それから、それからと続けるノーマンには、この先やりたいことが多いようだった。
「それとも、旅でもしながら絵を描くのもいいですね」
「まあ。放浪の画家におなりになるの?」
「行く先々で絵を売って路銀を稼ぐ。放浪画家と呼ばれるなら、確かにそうかな」
貴族に生まれた彼の口から「路銀を稼ぐ」なんて言葉を聞いて、どこか哀しい響きを感じた。
だからつい言ってみたのである。
「王都を出てしまわれるのですか?」
まるで彼の不在を惜しむようなことを言ってしまった。知り合ってからそれほど日は経っていなかったし、お互い立場が異なる。
ただ、彼が言ったように、心に思うことだけは自由でいてもよいのなら。
「お友だちが遠くに行ってしまうのは、寂しいことです」
彼を友人だと思ってもよいだろうか。
ノーマンは、薄く笑ったまま何も言わなかった。きっと彼は、退屈を持て余す若夫人の戯言だと聞き流したのだろう。
その夜、アデレイドは自室で眠ることとなった。
ノーマンを見送ってから自室に戻り、やり残した家政がないか確かめようとしたところで、月の穢れが訪れた。
朝からいつになく行動的だったのは、月のものによる情緒の変化の所為だったのか。
兎に角、あんなことの後に夫と同じ寝台で横になるのは気が重かった。
そう思えば、今日は終いまで天に味方されたと思える。
晩餐の席でも、家族に特別な変化はなかった。義母はきっと、義父からあらましを聞かされたのだろうが、彼女もまた当主夫人である。
無闇に事を荒立てない姿は貴族らしく、そこには相手がマルグリットであることも関係しているのだろう。
ロジャーがどんな表情をしていたかはわからない。彼とは向かい合わせに座っているが、アデレイドは月のものの訪れから食欲が失せて、何となくぼんやりしてしまった。
俯き加減になって食の進まないアデレイドに、義母が見かねて「今日はもう、お休みなさい」と声をかけてくれた。
温かいミルクを用意すると、セルマはアデレイドを気遣って早々に退室した。
その後、部屋にはアデレイドだけとなった。
数日前に満月を過ぎて、月は日に日に痩せていく。それでも窓から射し込む月明かりは仄かに部屋を照らして、室内が闇に覆われることはなかった。
『旅でもしながら絵を描くでしょうね』
日中に聞いたノーマンの言葉が蘇った。
ノーマンも、セルマも彼女の婚約者もそうであるが、彼らは貴族の身分を失う未来を恐れていない。
それはきっと、幼少の頃から少しずつ覚悟を重ねてきたからだろう。
アデレイドにしても同じことだったのに、貴族の妻になることが当然と思っていたから、今になって心許ない気持ちになるのだろうか。
たとえ貴族夫人となっても、妻自身の身分は脆弱なものである。それを知りながら、ロジャーの妻になることだけが、定められた未来だと受け入れていた。
「それが責任なのだと……そう思ったの」
「だってほかに、生き方なんてわからなかったのだもの」
「お父様のお決めになったとおりにすれば……」
正しいのだと、信じていた。
柔らかな月明かりに雲が射して、部屋は宵闇に包まれた。
アデレイドの独り言が闇に紛れて消えていく。
生家のために、婚家のために。
ロジャーのためにと暮らしてきた。
衣食に恵まれ不自由はないが、アデレイドは自分が空っぽのように思った。
「空っぽだから、子を授かれないの?」
こんな淋しい母親では、赤子まで淋しくなってしまうだろうか。
望んでも望んでも子は授からずに、また月のものが訪れてナーバスになっているのだろう。思考まで後ろ向きになっていくようだった。
もっと自分を好きになりたい。
もっと……と考えたときに、やはり思い出されたのはノーマンの言葉だった。
『いつでも伸び伸びと、貴女らしくいらっしゃればよろしいでしょう』
「いつでも、伸び伸びと」
天井を見上げながら呟いてみる。
心は自分のものなのだと彼は言った。
「私らしく……それってどんな私なのかしら」
月を覆った雲が通りすぎてゆく。
アデレイドの心にも、再び柔らかな光が射すように思えた。
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