今日も空は青い空

桃井すもも

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 その晩、グレースは晩餐を終えると早々に寝台に入った。夫婦の寝室はリシャールが来る夜にしか使っていなかったから、いつもの様に今夜も夫人の寝室で眠りに就いた。

 いつもと違ったのは寝室に鍵を掛けたことか。

 リシャールは二日続けては本邸に泊まることは無い。今夜もリシャールが本邸を訪う予定は無い。それなのにグレースは部屋に鍵を掛けた。

 それは、浮き上がりそうになる心の声を身の内から閉め出す為か、実際に誰も立ち入らせたくないと思ったからか。
 ロバートの言葉で、均衡を保っていた筈の関係が揺らぐのが解った。

 リシャールと甘い夜を過ごしたのは、つい今朝方の事だった。昨夜はしつこい程に求められて、それすら愛しく思えていた。そうして確かに幸福な目覚めを迎えた筈であった。


 この婚姻は、契約で結ばれた初めから形ばかりのものなのだと理解して嫁いだ。だからリシャールがグレースに信愛を抱いて求めてくれることこそ得難いことであると思っていた。

 リシャールがグレースを求めれば求めるほど、ついグレースは欲が出てしまう。それは降り積もる雪の様に、一晩心を通わせれば一晩分降り積もる。そこに熱を持ってしまったなら立ちどころに消えてなくなる実のない愛である。

 理不尽を強いられているのはグレースばかりで、夫はグレースから愛されることを爪の先ほども疑わず、自身は最愛を決して手離さない。

 リシャールは、グレースが商人として育った事を理解しているだろうか。
彼はグレースが何を大切にしているのか、更に言うなら、グレースが好ましいと思うことを一つでも知っているだろうか。

 もしリシャールがそれを解からないのだとしたら、グレースは孤独の中に独り取り残されてしまうだろう。


 ロバートの言葉に触発されたのか、リシャールとイザベルの関係を受け入れて来たグレースは、自身の胸の内にくすぶる夫への不信に気が付いた。

 夜半過ぎに扉を強めにノックされて目が覚めた。自分の名を呼ぶ夫の声がする。来る筈の無い夫の訪れに驚きながら、グレースは瞼を開けることはしなかった。

 旦那様。白状するわね。私は毎晩、今宵は貴方が帰って来るのではないかと待っていたの。貴方の側に誰がいるのか知っていて、それを当たり前なのだからと自分で自分に言い聞かせて、貴方がいない朝を独りで迎えて来たのよ。

 リシャールに抱く愛と不信。相反する感情の均衡を崩さぬ様に暮らしてきた。

 柔らかな髪の手触りも頬の形も、押し当てられる唇も抱きしめる腕の強さも、全部すっかり憶えてしまった。なのに交わることの無い何処までもすれ違う関係に、グレースは自分が思っていた以上に疲弊していたのだと解った。

 これからもこれまでと変わらず夫を愛せるだろうか。
自分ですら予見できない心の揺らぎが、夫が呼ぶのにも答えさせなかった。


 翌朝は、いつもより早く目を覚まし、そのまま身支度を整えた。侍女に声を掛けて、今日はこのまま出掛るから朝食はいらないと伝えれば、グレースの気配を察したらしくこちらも早目の支度を整えていたフランシスが側に付いた。グレースは、フランシスを伴って早々に邸を出ることにした。

 本当のところ、今日は外出の予定は無かった。急ぎの仕事は昨日のうちに片付けていたから、久しぶりに邸にいて滞った家政が無いかを確かめて、偶には刺繍でもしようかなどとのんびりした事を考えていた。

 行く当ても無いまま邸を出てしまい、これからどうしようか、御者には行く先を何処へ頼もう、そんな事を考えていると、

「グレース様。」
 フランシスに声を掛けられた。

 フランシスには予定の無い早朝からの同行で迷惑を掛けてしまった。そう思いながらフランシスを見上げる。

「グレース様、王立庭園の薔薇が見頃だそうです。」

 フランシスは本当にグレースの心の機微を読むのが上手い。いつもこんな風にさり気なく逃げ道を用意してくれる。

「まあ、素敵ね。フランシス、貴方も付き合ってくれる?」

 フランシスの助け舟に乗る。

「私で宜しければお供致します。」

 そうすればフランシスはいつもこんな風に笑みを向けてくれるのだった。


 
 王城には広い庭園が幾つもあって、そのうち外門に近い庭園は自由に入園が許されている。

 城の外門が見えてきて馬車を降りる。
僅かに湿った空気が夏の気配を含んだ薫りを運んで来る。

 もうすぐ夏が来る。
リシャールと婚姻したのも初夏の頃であった。

 フランシスが右腕を差し出す。
いつもグレースの後方に控えているのが、今日はエスコートをしてくれるらしい。
 その心遣いが嬉しくてグレースは目を細めた。それから差し出された腕にそっと手を掛けた。

 リシャールにこんな風にエスコートを受けたのは数える程しか記憶に無い。
そのどれもが婚約したばかりの頃であった。婚姻を結んでから夜会以外で出掛けた事なと数える程しかない。

 そんな結婚生活もそろそろ三年。未だ子には恵まれない。立ち上げた商会を我が子の様に大切に育てた三年であった。


 庭園の薔薇が美しい。
最近ではフリルを纏ったような華やかな花弁や、色合いが淡いグラデーションを見せる変わり種も多く見るようになったが、グレースは昔ながらのクラシカルな薔薇が好きである。

 堂々と女王の様に咲き誇る大輪の薔薇。
顔を近づけると薫りが鼻腔を擽る。
 細部までよく管理された美しい庭園を歩く内に、気持ちの良い汗をかいた。

「フランシス。」
「はい、グレース様。」
「有難う。」
「いえ。私は何も。」

 父はこの男のこんなところを見込んでグレースを託したのだろう。
 娘がいつか自身の境遇に躓き立ち止まる時が来るのを見越して、その心を支えられる従者だとフランシスを選んだのだろう。

 刈り揃えられた芝の青い香りと薔薇の放つ芳香。それらを初夏の空気と一緒に胸いっぱいに吸い込んだ。

 見上げれば、今日も青い空が広がっている。天を仰げば心に滲んだもやも霞んでゆく。

 何かを変えられる訳では無いが、今足りないものを数えるよりも、この三年で得た事を大切にしよう。

 住まう邸がある。
 仕える使用人がいる。
 思い切り打ち込める仕事があって、共に働く仲間がいる。
 気遣いに長けた従者がいて、信頼に値するパートナーがいる。

 青い空に向かって大輪の花を咲かせる薔薇に胸を張って空を見上げよう。そうグレースは気持ちを切り替えた。



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