今日も空は青い空

桃井すもも

文字の大きさ
40 / 55

【40】

しおりを挟む
 路上で起きた決闘騒ぎの巻き添えに合い、侯爵令息夫人が負傷した。

 夫人は、ついひと月前に隣国から嫁いだばかりの第三王女殿下であった。母国を離れて他国の侯爵家へ降嫁された。

 令息は二度目の婚姻であったが、年の頃も近く仲睦まじい若夫婦であった。
 夫も夫人も見目が頗る美しい貴人であったから、仲の宜しい麗しい夫妻を周りは熱に当てられながら微笑ましく眺めていた。

 夫にも夫人にも、過去に纏わる醜聞が聞こえるも、微笑み合う二人の前ではそれらは過ぎ去った遠い記憶として、いつか消えてなくなると思われた。

 夫の侯爵家では商会を経営しており、その月、季節を先取りした衣装が届いたばかりであったから、夫は夫人にドレスを贈ろうと、その日は夫人を伴って商会に向かったのだと云う。

 痛ましい事故はそこで起こった。
何故、あの大通りで昼の最中から決闘騒ぎなど起こったのか。

 向かい合う男が二人、剣を構えて互いを刃で狙い定めていたのが、一人が剣を振りかぶり、一人がそれを避けて身を翻した。

 相手に逃れられた男の刃は振り降ろした勢いもそのままに、偶々向こう側にいた夫人の顔面を切り裂いたのだと言う。



 夫人の傷は深かった。何せ顔面は、眉間から左眼に続き頬をそして口蓋を真っ二つに切り裂いてしまったのだから。

 勢いが付いていたのだろう。前歯の二本は割れていたと言う。それほどの衝撃を柔らかく可憐なお顔が受け止めたのだから、その傷の深さが伺われる。

 夫人は三日三晩意識が戻らず高熱に魘された。血飛沫が泉の如く吹き上がったというから、大量の血を失ったのだろう。

 四日目に漸く意識が戻るも、それからは激痛との戦いで、痛みに涙を零せば潰れた左眼ばかりでなく、眉間も頬も歪む口元まで更に痛む。

 漸く傷が塞がって抜糸を終えた頃に、夫人は気が付いた。部屋に鏡が無い。

 左眼は頭から包帯を巻かれていたから、それが外されてからも尚、視界が開けず視野が右側だけであるのを不審に思った。

 発語し難いのは、未だ傷が癒えていないからだろう。舌先の感覚も無いのだからよく解らない。

 周囲が止めるのを無理矢理に鏡を持ってこさせて、それを覗いた夫人は声の限りに叫んだから、折角塞がった唇は傷が再び開いてしまった。

 気も狂わんばかりに泣き叫び、それが更なる痛みを呼び起こす。欠けた前歯から息が漏れて、歪んだ唇から漏れる言葉は歯の抜けた老婆のそれと変わらない。

 王家の誇る可憐な美貌、天使と謳われたかんばせは御伽噺の魔女の様に変わり果てていたから、夫人は死にたいと声を枯らして泣き叫んだ。
 生き地獄とはこの事であろう。

 しかし、夫人は幸運であった。これ程の不幸な惨劇に見舞われて何が幸運というのか。その気持ちは良く解る。しかしながら、夫人はやはり幸運であった。
 夫が夫人への愛を失わなかったのだから。

 婚礼から僅かひと月しか経っていなかったのに、二人の間には揺がぬ愛が確かにあって、夫は化け物と化した妻を励まし労り、自ら看護し食事を与えて湯浴みすら侍女に任せず自ら清めた。

 朝も昼も夜も、一日の全ての時間を夫人の側にいて、手を取り涙を拭いて優しく慰め続けた。

 嫁いだばかりだと言うのに、美しい顔面を無残に割られて、夫人は婚礼の日以降、唯の一度も夜会も茶会も舞踏会にも姿を現す事は無かった。社交にも一切顔を見せない。

 そうして夫も妻に侍って、あれほど社交的で華やかな青年貴族であったのに、やはり社交界から姿を消した。

 王家主催の催しには、夫のみが始まりの僅かな時間訪れるも、王族への挨拶を済ませた後はその足で帰ってしまう。

 夫は変わらず美丈夫で穏やかな気質もそのままに、優美な姿は彼の過去を知らぬ若きご令嬢達の頬を染めさせた。

 夫人のお加減は如何であろうかと、気遣い心配される言葉には、妻は元気です。酷く恥ずかしがり屋であるから失礼承知で社交は控えさせております。可愛い妻ですから、私も妻を人の目に触れさせたくは無いのです。幾つになっても姫様はお可愛いらしくて、私は天使の様な妻を得られた果報者なのです。

 そう、聞く人のほうが赤くなりそうな惚気を漏らした。その顔に偽りは見えない。真実夫人を愛する姿であった。

 若き頃は妾に溺れ最初の妻とは離縁となった。夫人も姫君時代には、幼さから来る過ぎた悪戯もあったらしい。

 そんな過去など霞む程、固い絆で結ばれた若夫婦を、貴族達は真実の愛と呼んで褒め称えた。



「姫様、今日は御身体の加減は如何でしょうか。」

 リシャールは、温かな湯で湿らせた柔らかな布で、妻の顔を優しく撫でる。撫でるように拭いてやる。

 その手つきも声音も真心込もった優しいもので、目元は穏やかな笑みを浮かべ細められている。

「だいしょうふ。」
「ああ、それは良かった。安心致しました。」

 それから妻の夜着をゆっくり脱がせて、汗ばむ身体も柔らかな布で清めていく。

「姫様、痒い所は御座いませんか?」
「きもしいいふぁ。」
「ああ、気持ちが宜しいのですね。それなら、」

 リシャールは笑みをそのままに裸の妻の身体をゆっくり倒してゆく。

「それなら今宵も愛し合いましょう。」

 涎が漏れてしまう唇に、優しく口付けを落とす。すっかり傷は癒えているから、痛みを感じる事は無いだろう。

 額から左眼を抉り頬を切り裂き唇を割ったその傷跡を、優しく指でなぞって行く。

「ああ、僕の姫様、なんて可憐で愛らしい。僕は幸せ者だ、天使を妻に娶ったのだから。」

 そう言えば、妻は涙を零す。潰れた左眼からも涙が流れ落ちる。

 リシャールはそれを口付けで飲み込んで、それからはゆっくりと一晩掛けて妻の身体を愛でるのだ。

 前歯が無くとも唇が可怪しな方向に歪もうとも、漏れる悦びの声は変わらない。妻の悦ぶ声に歓喜しながら、リシャールは益々愛が深まるのを感じていた。

 ああ、姫様、姫様。僕だけの姫様。
この世に貴女が舞い降りて僕の妻になって下さった。生きておられるだけで幸福だ。生涯貴女だけを愛するよ。

 この命すら捧げたいけど、それでは姫様のお世話が出来ない。悦びも与えられない。だから姫様より長生きをして、貴女に生涯仕えるよ。

 何の補償なのか、国からは月々金銭が渡される。リシャールは勤労も貴族の務めも社交さえも、何もかもを放棄して、愛する姫君と恵まれた暮らしを送っていられる。

 首から下は傷を負っていないから、姫君の身体はどこまでも柔らかく甘く艶めかしい。愛すれば愛するほど応えてくれて、涙と涎に濡れるかんばせまで胸を打つ。

 この世に唯二人、裸のままに愛し合い歳を取っていける幸せ。

 姫様は何処もかしこも美しい。
血飛沫を天高く吹き上げて仰け反る姿さえ神々しかった。痛みに歪み絶望に慄く表情も、全て全て美しい。

 歪んだ愛が留まることは無い。それに縋る姫君の愛も益々深まり、愛し合う二人は王国の貴族の邸の一室で変わらぬ愛を育み続ける。

 姫君を愛おしげに見下ろして、リシャールはうっそりと微笑んだ。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

【完結】王妃を廃した、その後は……

かずきりり
恋愛
私にはもう何もない。何もかもなくなってしまった。 地位や名誉……権力でさえ。 否、最初からそんなものを欲していたわけではないのに……。 望んだものは、ただ一つ。 ――あの人からの愛。 ただ、それだけだったというのに……。 「ラウラ! お前を廃妃とする!」 国王陛下であるホセに、いきなり告げられた言葉。 隣には妹のパウラ。 お腹には子どもが居ると言う。 何一つ持たず王城から追い出された私は…… 静かな海へと身を沈める。 唯一愛したパウラを王妃の座に座らせたホセは…… そしてパウラは…… 最期に笑うのは……? それとも……救いは誰の手にもないのか *************************** こちらの作品はカクヨムにも掲載しています。

貴方が側妃を望んだのです

cyaru
恋愛
「君はそれでいいのか」王太子ハロルドは言った。 「えぇ。勿論ですわ」婚約者の公爵令嬢フランセアは答えた。 誠の愛に気がついたと言われたフランセアは微笑んで答えた。 ※2022年6月12日。一部書き足しました。 ※架空のお話です。現実世界の話ではありません。  史実などに基づいたものではない事をご理解ください。 ※話の都合上、残酷な描写がありますがそれがざまぁなのかは受け取り方は人それぞれです。  表現的にどうかと思う回は冒頭に注意喚起を書き込むようにしますが有無は作者の判断です。 ※更新していくうえでタグは幾つか増えます。 ※作者都合のご都合主義です。 ※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。 ※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

あなたに嘘を一つ、つきました

小蝶
恋愛
 ユカリナは夫ディランと政略結婚して5年がたつ。まだまだ戦乱の世にあるこの国の騎士である夫は、今日も戦地で命をかけて戦っているはずだった。彼が戦地に赴いて3年。まだ戦争は終わっていないが、勝利と言う戦況が見えてきたと噂される頃、夫は帰って来た。隣に可愛らしい女性をつれて。そして私には何も告げぬまま、3日後には結婚式を挙げた。第2夫人となったシェリーを寵愛する夫。だから、私は愛するあなたに嘘を一つ、つきました…  最後の方にしか主人公目線がない迷作となりました。読みづらかったらご指摘ください。今さらどうにもなりませんが、努力します(`・ω・́)ゞ

幼なじみと再会したあなたは、私を忘れてしまった。

クロユキ
恋愛
街の学校に通うルナは同じ同級生のルシアンと交際をしていた。同じクラスでもあり席も隣だったのもあってルシアンから交際を申し込まれた。 そんなある日クラスに転校生が入って来た。 幼い頃一緒に遊んだルシアンを知っている女子だった…その日からルナとルシアンの距離が離れ始めた。 誤字脱字がありますが、読んでもらえたら嬉しいです。 更新不定期です。 よろしくお願いします。

王太子妃は離婚したい

凛江
恋愛
アルゴン国の第二王女フレイアは、婚約者であり、幼い頃より想いを寄せていた隣国テルルの王太子セレンに嫁ぐ。 だが、期待を胸に臨んだ婚姻の日、待っていたのは夫セレンの冷たい瞳だった。 ※この作品は、読んでいただいた皆さまのおかげで書籍化することができました。 綺麗なイラストまでつけていただき感無量です。 これまで応援いただき、本当にありがとうございました。 レジーナのサイトで番外編が読めますので、そちらものぞいていただけると嬉しいです。 https://www.regina-books.com/extra/login

【完結】生贄になった婚約者と間に合わなかった王子

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
フィーは第二王子レイフの婚約者である。 しかし、仲が良かったのも今は昔。 レイフはフィーとのお茶会をすっぽかすようになり、夜会にエスコートしてくれたのはデビューの時だけだった。 いつしか、レイフはフィーに嫌われていると噂がながれるようになった。 それでも、フィーは信じていた。 レイフは魔法の研究に熱心なだけだと。 しかし、ある夜会で研究室の同僚をエスコートしている姿を見てこころが折れてしまう。 そして、フィーは国守樹の乙女になることを決意する。 国守樹の乙女、それは樹に喰らわれる生贄だった。

選ばれたのは私ではなかった。ただそれだけ

暖夢 由
恋愛
【5月20日 90話完結】 5歳の時、母が亡くなった。 原因も治療法も不明の病と言われ、発症1年という早さで亡くなった。 そしてまだ5歳の私には母が必要ということで通例に習わず、1年の喪に服すことなく新しい母が連れて来られた。彼女の隣には不思議なことに父によく似た女の子が立っていた。私とあまり変わらないくらいの歳の彼女は私の2つ年上だという。 これからは姉と呼ぶようにと言われた。 そして、私が14歳の時、突然謎の病を発症した。 母と同じ原因も治療法も不明の病。母と同じ症状が出始めた時に、この病は遺伝だったのかもしれないと言われた。それは私が社交界デビューするはずの年だった。 私は社交界デビューすることは叶わず、そのまま治療することになった。 たまに調子がいい日もあるが、社交界に出席する予定の日には決まって体調を崩した。医者は緊張して体調を崩してしまうのだろうといった。 でも最近はグレン様が会いに来ると約束してくれた日にも必ず体調を崩すようになってしまった。それでも以前はグレン様が心配して、私の部屋で1時間ほど話をしてくれていたのに、最近はグレン様を姉が玄関で出迎え、2人で私の部屋に来て、挨拶だけして、2人でお茶をするからと消えていくようになった。 でもそれも私の体調のせい。私が体調さえ崩さなければ…… 今では月の半分はベットで過ごさなければいけないほどになってしまった。 でもある日婚約者の裏切りに気づいてしまう。 私は耐えられなかった。 もうすべてに……… 病が治る見込みだってないのに。 なんて滑稽なのだろう。 もういや…… 誰からも愛されないのも 誰からも必要とされないのも 治らない病の為にずっとベッドで寝ていなければいけないのも。 気付けば私は家の外に出ていた。 元々病で外に出る事がない私には専属侍女などついていない。 特に今日は症状が重たく、朝からずっと吐いていた為、父も義母も私が部屋を出るなど夢にも思っていないのだろう。 私は死ぬ場所を探していたのかもしれない。家よりも少しでも幸せを感じて死にたいと。 これから出会う人がこれまでの生活を変えてくれるとも知らずに。 --------------------------------------------- ※架空のお話です。 ※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。 ※現実世界とは異なりますのでご理解ください。

処理中です...