二度目は貴方と

桃井すもも

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第十章

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 その日アルバートは、夜半過ぎ、そろそろ日付が変わるという頃になって、ようやく邸に帰ってきた。
 必ず帰ると言っていたから、レベッカは寝ずに夫の帰宅を待っていた。

「ああ、早く終わってくれればよいな」
「まあ」

 それはエドモンドの婚礼のことだった。どれほど多忙なのだろう、アルバートがこんなぞんざいな口調で愚痴を言うのを、レベッカは初めて聞いた。

「お忙しいのね、旦那様」

 夫の濡れ髪を拭いてやりながら、レベッカは言った。

 食事は王城で済ませたらしい。二日ぶりだと言って湯浴ゆあみを済ませたアルバートは、濡れ髪もそのままに夫婦の寝室に入ってきた。

 香油を洗い落として前髪を下ろしたアルバートは、日中の姿より少年のような幼さを感じさせる。
 目に前髪が掛かって、柔らかなタオルで濡れ髪をレベッカに拭かれる姿は、

——ベンジャミン。

 かつての父の愛犬を思い出させた。
 アルバートと結婚しなかったら、あのベンジャミンを思い出すこともなかったかもしれない。

 忘れちゃってごめんなさいね、ベンジャミン。

 水浴びをしたベンジャミンを、こんなふうに拭ってあげた。ベンジャミンもこんなふうに、気持ちよさそうにしていた。

 あのもこんなお日様みたいな金色の毛をしていたわ。お日様みたいにキラキラした毛をなびかせて、棒を投げるとハッハッと言いながらジャンプして……。

 思い出に浸るうちに、夫の髪を拭いているのかベンジャミンの毛を拭いているのか、わからなくなってきた。そこで慌てて鏡の中の夫を見た。

 ふふ、気持ちよさそう。

 乾いたタオルに取り替えて、仕上げに髪を拭いてあげれば、短く切ったアルバートの髪の毛は、粗方あらかた乾いたようだった。

 鏡の前に座るアルバートの背後から、レベッカが濡れ髪を整える。無防備に頭を預けるアルバート。
 どれだけ疲れているのか、すでにうとうとしている。こんな夜半まで王城にいたのだから疲れて当然のことだろう。

 三年前もこうだったのかしら。
 エドモンドの二度目の婚礼のために、連日夜半まで、時には泊まりで職務がある。最初の結婚、レベッカとの婚姻式でもアルバートはきっと忙しく立ち回っていたのだろう。

 三年前と言えば、アルバートはすでに独り身だった。
 真夜中だからと使用人を早々に下げてしまうアルバートは、三年前なら多分、濡れ髪もそのままにして寝てしまっていたのではないか。

 ごめんなさいね、過去の旦那様。さぞや疲れさせたことでしょう。

 過去のアルバートをねぎらうことはできないから、レベッカは今のアルバートを心からいたわることにした。

 すっかり乾いたアルバートの髪の毛はふわふわして、余計にベンジャミンを思い出させる。それが可愛くて、旋毛つむじの辺りにチュッとキスをしたのも無意識だった。ベンジャミンにも、いつもしていたことだった。

「まあ。ごめんなさい。起こしちゃったわね」

 レベッカの旋毛キスで、うたた寝から目を覚ましてしまったアルバートは、灯りを絞った暗がりでもわかるほど驚いた顔をした。

「い、いや、大丈夫だ。ありがとう、気持ちが良くて、ついうとうとしてしまった」

 濡れ髪にあどけなさが残る夫は、今年で二十六歳になる。六年前に最初の妻を亡くした時に、彼はまだ二十歳だった。
 若くして妻を失い、伯爵家の当主でありながら、どうして今まで独り身を通していたのか、レベッカは尋ねたことはない。

 それを尋ねてしまったら、夫はきっと前の妻を思い出してしまうだろう。妻を失った、哀しい記憶を思い出してしまうだろう。

 レベッカにも最初の夫はいるが、彼はぴんぴんしている。元気に二番目の妻を迎えるために、盛大な式典を準備している最中にある。
 言葉だけ比べてしまうと随分、薄情に思えるが、それでも生きていてくれるほうが数倍よい。

 そんな前夫のために、連日深夜まで励んでくれるアルバートに、今日は特別サービスをしてあげよう。

 レベッカは、凝り固まったアルバートの肩をもみもみ揉んであげることにした。もみもみモミモミ揉むうちに、そういえばあのペコペコ外商もいつも手をもみもみしていたと思い出す。

「あ、ああ、ありがとう、レベッカ、その辺でいいよ」

 夫はそう言って、いきなり椅子から立ち上がった。後ろにいたレベッカが驚くのもお構いなしに、椅子から離れて寝台へと向いた。
 だがその際に、後ろ手でレベッカの手を掴みむと、その手を引いて寝台へ歩き出した。

 ぽふんと柔らかな寝具に身を沈めると、アルバートは背中からレベッカを抱き締めた。そのままぎゅっと抱きすくめられて、レベッカはちょっと息が詰まった。

「柔らかいな」
「ふふ、恥ずかしいわ、最近少し太っちゃったの」
「あったかい」

 レベッカの肩口に顔をうずめるアルバート。
 今宵の夫は甘えん坊だ。

 王太子妃と前夫の部下の関係であった時にも、彼は無愛想ではなかったが、さりとて笑みを振りまくような男でもなかった。いつも前夫の後ろに控えて、まるで影のように気配を消す、そんな男だった。

 前の夫はレベッカより二つ年上で、アルバートはそれよりも更に二つ年上なのに、こんなあどけなさが残るアルバートを知れたのは、幸せなことだと思う。お陰ですっかり忘れていたベンジャミンも思い出せた。

 太陽の申し子みたいだったベンジャミン。ゴールデンに輝く艶々の毛が綺麗なだった。

「ベンジャミン」

 ついうっかり口をついたその名に、アルバートががばりと起き上がった。

「そいつ、誰だ」
 と言ったから驚いた。

「えーと、」
「誰なんだ、ベンジャミン」

 ベンジャミンが誰かと聞かれたら、ベンジャミンとしか答えられない。

「どこのどいつだ、ベンジャミン」

 暗がりで夫の表情まで暗く見える。

「くそっ、ベンジャミン……」

 独り言のようであったが、夫の呟きはよく聞こえなかった。

「えーと、ごめんなさい。わんわんよ」
「は?」
「えーと、ベンジャミンはわんわんなのよ、犬なのよ」

 へ?という顔をしたのがよくわかった。
 それはそうだろう。真夜中の寝台で夫に抱き締められて犬の名を呼ぶなんて、ソイツは一体どこのどいつだ。

 なのに当の夫は、レベッカの言葉に先ほどまでの不穏な空気を引っ込めた。

「なんだ、そうか、ベンジャミン……」

 そのうちレベッカは、自分の名がベンジャミンであるような錯覚を覚えた。

「はは、ベンジャミン……か……」

 なんだなんだと言いながら、アルバートは再びぽすんと横になって、そのまま朝までレベッカを抱き締めて離してはくれなかった。



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